三十四章
宮原悟は、いつも誰に対しても親切で優しく、人として尊敬できる人物だと思う。被災地で彼の顔を見つけるたびに、いつも安堵する自分がいた。なんだか他人のように思えない人だった。村上修司を失ってから、荒んでいた私の心の中に、そよ風のように進入して来た人だった。けれども、彼を好ましく思う感情が、単なる友情だけのものなのか、恋愛感情を伴ったものなのか、自分でも区別ができないでいた。最愛の人を失って淋しいというやりきれない感情は、常に抱えていた。一時期、自分は精神的に完全に崩壊していたと思う。今でも村上と過ごした日々を思い出すと、胸が苦しい。もう二度と彼に会うことはできないのだという事実が私を苦しめる。あんな風に身も心も捧げ、深く人を愛することなど、もう二度とできないだろうと思う。けれども、宮原悟に惹かれ始めている自分がいるのもまた事実だった。
私は、村上修司と住んでいた沖縄の小さな家を処分した。私には村上修司の遺志を継いで、フォトジャーナリストになるという夢がある。このまま、いつまでも同じところに留まっている訳にはいかなかった。村上が私の下した決断を喜んでくれるだろうことは、分かりきったことだった。彼自身、仕事に関して公私混同する人でなく、結婚しても家庭を顧みるような人間ではなかった。「それがいいことか悪いことか……多分、悪いことなんだろうけどね」と知り合ったばかりの頃、彼がよく口にしていた言葉だった。だから、私が「恋人が亡くなって淋しいから、いつまでも仕事ができない」などと口にすれば、彼は断じて許してはくれないだろう。「君は僕の希望だ」、生前、そう言ってくれた彼を落胆させる訳にはいかないのである。
私は再びカメラを手にすると、がむしゃらにシャッターを切り続けた。ファッション雑誌に掲載する写真の報酬を生活の糧にして、日本中を放浪しながらシャッターを切った。ボランティア活動に参加した際、洪水で土砂が家屋に流れ込み、生き埋め状態になった人の救出にたまたま遭遇し、私はその写真を新聞社に送った。私が送った写真は、新聞の一面を飾ることになった。その後、何度もその新聞社に私の撮った写真が掲載され、それをきっかけに、外部から依頼が来るようになった。遠くはニューヨークの新聞社から、一年の期限付きで、社会部の報道カメラマンとして活動しないかという依頼が来た。私は迷わず、その申し出を受けた。宮原悟にそのことを打ち明けると、彼はすごく喜んでくれた、「ちょっと淋しいけどね」と言いながらも……。
アメリカにいたときには、日本では絶対にできないような体験をすることになった。従軍カメラマンとして、戦場へなんども赴いた。ときには、兵士の撃った弾が頭の横をかすめるという体験もした。アメリカ兵のほとんどは、陽気で気さくな人たちだった。私がやっていたことは、本来なら、自分達の名誉を傷付けることもあるだろうに、それでも彼らは私に「真実を撮るんだ」と、相手方兵士の残虐さのみならず、自分達の行為を何でも撮らせてくれた。彼らのほとんどは、戦争なんてないほうがいいんだと言う。だけど、職業として選んでしまったから、責任を果たすために戦争に参加していると言った。私が戦場の真実をカメラに収め、それが元で戦争が終結して、軍人としての職業を失うなら、そのほうが本望だとも言ってくれる人もいた。皮肉なことに、軍人を職業にしているものだけが、戦争の無意味さを真の意味で理解していた。
アメリカでの契約を終えた後、私は宮原悟からの「恋人として付き合って欲しい」という申し出を受け入れた。離れていた一年間、あり得ないほどの残酷な非日常を長く体験し、その荒んだ心を支えてくれていたのは、毎日欠かさずメールを送ってくれた宮原悟だった。本当は、彼の申し出を受けるのを躊躇していた自分がいた。命なんてあってないような生活をしている自分は、幸せになってはいけないと思っていたからである。自分だけならともかく、親密な関係になれば、彼をも不幸に巻き込んでしまう恐れがあった。私はいつも死と背中合わせの状態にあった。けれども、彼の熱意を妨げることはできなかった。日本に帰国して、彼の笑顔を直接見られることは、何よりも心の支えになった。私が送っている日常とまるで正反対の、彼のごく普通の日常で起こった出来事を話して聞かせてくれることは、私にとって精神安定剤みたいなものだった。宮原悟の話はときには面白おかしく、それでいて問題が起こったときでさえ、いつも温かだった。私は次第に、宮原悟を心から愛するようになっていった。
アフガンではテロリストに捕らえられそうになって、間一髪で逃げ出すという経験をしたし、ベルファストでは元IRAの幹部として活動していた人物へのインタビューに同行して、写真を撮るということもした。このとき、宮原悟は私達新聞社の者と行動を共にしていたのだが、「こんな心臓に悪い体験をしたのは生まれて初めて」と言って、私を大いに笑わせた。彼なくして私の人生はあり得ない、とまで思うようになっていた。