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長い長い夢の中で  作者: 早瀬 薫
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三章

 彩夏の担任の工藤先生と別れた後、カフェで店員に、投身自殺した女性のことを訊いてみたが、彼女のことを詳しく知るものは誰もいなかった。でも、自殺が起きたのは日曜の午前中だし、休みの日だけシフトに入っている店員もいるから、日曜にもう一度ここに来てみたらどうかと店長に言われたので、素直に従うことにした。今日は、午後からの予定だった工藤先生との家庭訪問も済ませてしまったし、他にやることもないので、現場に何か痕跡が残っていないか、調べてみることにした。

 彼女が横たわっていたところを、這いつくばって隈なく探したが何もなかった。そこにあったのは、彼女が流したのではないかと思われる微かな血の痕跡だけだった。分かっていたのに、少しショックだった。昨日ここで目撃したことは、本当にあったことなのだとその微かな血の痕跡が物語っていた。そこから辺りをぱっと見回してみたが、見たところ、目ぼしいものは何もなかった。仕方がないので、彼女が横たわっていた場所から、周辺二十メートル以内を十箇所に区切って、細かく調べていくことにした。彩夏が学童保育から帰ってくる午後五時半まで、まだ時間はたっぷりあった。

 大の男が歩道に這いつくばっているので、通り過ぎる人たちは、奇異の目を僕に向けたが、そんなことは全然気にもならなかった。小一時間ほど歩道を調べまくって、何にも収穫がなかったが、僕は最後にやっかいな場所を残していた。それはビルと歩道の間に横たわっているサツキの植え込みだった。あのとき、確かにあの女性はここに一度落ちてから、バウンドして歩道に転がった。だから彼女の顔は奇跡的に損傷を免れたのである。もし、直接歩道に落ちていたなら、彼女の頭部は見るも無残なことになっていたはずなのである。しかし、ここに彼女の痕跡を探すという作業はやっかいな作業だった。入り組んだ枝で遮られているせいか、煙草の吸殻、空き缶などかなりのゴミが、手の届きにくいところに散乱しているのである。仕方がないので休憩を兼ねて、コンビニへ缶ジュースと軍手を買いに行き、コンビニで余分にもらったレジ袋にゴミを集めることにした。まずは買ってきた缶ジュースを飲んで休憩した。植え込みの縁に座って、缶ジュースを飲みながら、ぼぉっと通りの向こう側のさっきまでいたカフェを眺めていると、店員も客もおそらくその店にいる全員が、変なものでも見るかのような目つきをして、僕を見つめていることに気が付いた。まぁ、そりゃそうだろうな。さっきからずっとここに這いつくばってるんだから。こんなことを平気でやれる人間なんてそうそういないだろう。

 缶ジュースを飲んで、人心地がついたので、さっそく植え込みの清掃に取り掛かった。まったく、いくら世間は禁煙ブームとはいえ、室内を禁煙にするから煙草の吸殻が外に散乱するんじゃないのか? とにかく二、三〇個は吸殻を拾ったと思う。ペットボトル六個、空き缶四個、その他訳のわからない紙ごみ五個を拾った。ペットボトルと空き缶は中身が空なのを確認すると即座にゴミ袋へ投入した。怪しいのは紙ごみだった。メモ帳の切れ端やら大き目の付箋やらレポート用紙を丸めたものなどがあった。

 まず小さなものから取り掛かった。小さな付箋には「明日七日、新宿午後二時 小野さん」、大き目の付箋には「カーボン紙、方眼紙、トレーシングペーパー、セロテープ、ミネラルウォーター八本」と書かれ、くしゃくしゃに丸められた紙はただの包装紙であったり、レポート用紙には何だか分からない機械の設計図を鉛筆で走り書きしたものであったりした。結局、何にも収穫はなかったなと意気消沈した。けれども、一つだけ最後に残しておいたものがあった。それは、他の物と比べて比較的最近捨てられたものと思われるもので、四つ折りにされた薄緑の紙だった。その紙は最初から一番目に付いていたのだが、どうしてだかその紙を開くのは一番最後だと決めていた。その紙には何かあるという予感があったからかもしれない。僕は、恐る恐るその紙を開いた。そこにはこう書かれていた。


 悟、愛してる


 書かれていたのは、たった一行のこの短い言葉だけだった。それなのに、その短い言葉は、見た瞬間、僕を捉えて離さなくなった。

 悟! もしかして、悟とは自殺した女性の恋人のことではないのか? 「悟、愛してる」とだけ書かれた筆跡はどう見ても女性のものだった。僕は一瞬、頭に血が上った。大発見をして喜び勇んだが、しかし五分もしないうちに、風船から一気に空気が抜けるかのように落胆した。これを発見したところで、宛名も住所も書かれていない紙を一体どう彼女に結びつければいいというのか? 

 僕は急に腹が立ってきて、ズボンのポケットの中から煙草を取り出すと、火をつけて吸った。最近では路上煙草を禁止する条例ができていて、監視員もその辺をウロウロしているはずだから、ひやひやしながら吸っていたが、イライラを押さえるのに煙草が欠かせなかった。憮然としながら座り込み、煙草を吸っていると、近くの公園清掃で掃除を終えた老婆が僕の前を通りかかった。なんだか見たことあるような気がする顔だなと思ったが、どこで見たのか思い出せなかった。彼女は僕の方へ顔を向けると、平気で煙草を吸っている僕を睨みつけた。僕も彼女の顔を睨み返していたが、ふと見た彼女の持った透明の大きなビニール袋の中に、薄緑の紙を見つけて、思わず「あっ!」と叫んだ。老婆は僕のその様子にびっくりしたのか、彼女も「わっ」と叫んだ。

「あ、あの見せてください」

「は、はぁ? 何を?」

「そ、そ、そのゴミ袋です!」

 老婆は怪訝な顔をしながら僕のことを無視し、くるりと踵を返し、ゴミ袋を抱えてその場を去ろうとしたが、僕は慌てて彼女を引きとめた。

「何かめぼしいものがあるかどうか漁りたいんじゃなくて、その袋の中に薄緑の紙があるでしょ! ほら、僕が今持ってる紙と同じじゃないですか!」

 そう言って僕は老婆に薄緑の紙を見せた。老婆はその紙を手にとって見ると、自分が持っている袋の中の紙を取り出して見比べてみた。彼女が取り出した紙は、僕が持っている紙と全く同質のものだったが、それは紙切れではなく、封筒だった。

「確かに、同じだね」

「その封筒はどこで拾ったんですか? そこの公園ですか?」

「いや、今あんたが座ってた辺りかな」

「や、やっぱり!」

「あたしもちょっと前までそこで休憩してたんだよ。それでふっと垣根を見たら、落ちてたもんだから、すぐに拾ってゴミ袋に入れたんだよ」

 僕は老婆からその封筒を奪い取るように受け取ると、中に何か入っていないか、急いで確かめた。その封筒の中には、四つ折りにした白い紙と一緒に一枚の写真が入っていた。美しい青い海をバックに無邪気に笑っている男女の写真だった。僕はまじまじとその写真に見入った。

 その写真の女性は、僕の夢の中に出てきた女性、すなわち投身自殺した女性だった!


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