二十九章
この章には、地震の描写が出てきます。
ご了承ください。
和歌山の惨状は目を覆うばかりだった。ここまで酷い地震の被害をかつて見たことがなかった。死者の数は数千人にも及ぶと見られた。冬だったから、疫病が発生する危険は低かったが、家屋の倒壊は千棟以上だと推測され、家屋の下敷きになって犠牲になった人々の遺体を即座に回収するのは不可能だった。しかしそれより何より、地震が発生してまだ二日目である。生きている人が家屋の下敷きになったまま、助けを求めている可能性だってあるかもしれないのである。生きている人を一刻も早く助けるために、女性である自分もなりふり構わず、男性に混じって仕事をした。
倒壊した家屋の周辺を「誰かいますか!」と声を掛けながら、ゆっくりゆっくり歩いた。声を掛けてゆっくり歩いた後立ち止まり、助けを呼ぶ声が聞こえないか耳を澄ませた。それを注意深く何度も何度も繰り返した。気を失っている人が、後で目覚める可能性もあると思ったからである。私と同じ様なことをしている人間がこの地区には、十数人いたと思う。その中の一人が「助けてくれ……」という男性の呻き声が聞こえたと叫び、辺りは騒然となった。みんながいっせいに集り、倒壊した家屋の残骸を片っ端から取り除き始めた。私も死に物狂いで残骸を取り除いた。その間、「大丈夫ですか! 今助けますからね! 気をしっかり持ってください!」と、瓦礫の中に埋もれている男性に声を掛け続けた。こちらが声を掛けながら、埋もれている男性にもどうにか声を出し続けてもらい、的を絞って家屋の残骸が取り除かれた。三十分ほどして男性の左手が見えた。「もう少しだぞーっ、みんながんばれ!」と誰かが叫び、士気が上がった。しかし、埋もれている男性をこれ以上傷付けないように、慎重に慎重に事は運ばれた。どうやら、この埋もれている男性は、ダイニングテーブルの下に潜り込んでいるらしい。けれども、ダイニングテーブルの足は全部揃ってはおらず、折れた一本の足のせいでテーブルが傾き、残った三角錐の狭い空間に、男性はかろうじて助けられたようだった。
電動ノコギリが持ち込まれた。ゆっくりと電動ノコギリの歯が、テーブルの天板を切っていく。端から端まで一直線に切られた。数人が手を当ててテーブルの天板を取り除こうとしたが、グラグラするだけで引き抜けない。仕方がないので、さっきの切り目に対して、今度は垂直方向に一直線に切られた。もう一度、慎重に作業が行われた。すると、四等分された天板の一部を取り除くことができた。埋もれていた男性の上半身が現れた。六十代くらいの男性だった。
「大丈夫ですか!」
「は、はい、ありがとう……でも、足が……」
「足が痛むんですか?」
「いや、感覚がないんです……」
「そうですか……。でもあと少しだから頑張って下さい。お水を飲まれますか?」
「ああ、ありがとうございます」
男性は水を飲んだ後、顔をしかめて辛そうに言った。
「あ、あの、家内が近くにいるはずなんです。どうか、どうか、よろしくお願いします……」
「そうですか。分かりました。みんなで頑張ってお探ししますから! まずはあなたを救出させてください」
男性の体に触れずに穴を掘るように家屋の残骸を取り除き、男性の周囲の板や瓦を一つ一つ丁寧に取り除いた。瓦礫に挟まっていた右足が現れた。右足は見たところ、長時間圧迫されたためかパンパンに腫れ上がっていた。圧迫されることによって、つぶされた細胞からカリウムが血液中に大量に流れ出している恐れがあった。こういう怪我をした場合、一刻も早く処置しないと、外傷性ショック死にいたるケースがある。怪我を負った男性は丁寧に担ぎ出されると、担架に載せられた。比較的被害の少なかった地区の総合病院に運ばれることになった。男性は車に乗せられる前に、担架の横に付き添って立っている者の手を握り締め、「どうか家内をお願いします」と何度も何度も懇願していた。
奇跡的に救出された男性が運ばれていくと、みんながほっと一息吐いたが、その男性が言ったように、今度は彼が埋もれていた周辺に彼の妻が埋もれていないか、慎重に調べ始めた。ある者が声掛けをする、瓦礫の山から声が聞こえてこないか耳を澄ませる。もう一度声掛けをする、また耳を澄ませる、を何度も繰返した。その間、他の者は周囲の家屋の残骸を丁寧に取り除いていった。私も一緒にその作業に参加した。するとしばらくして、私が作業をしていたところから、女性の右手の部分が現れた。私はびっくりすると同時に喜んだが、その手にそっと触れてみて絶望した。白いか細いその女性の手は、氷のように冷たかった。涙が零れた。泣くまいと思っていても、後から後から涙が零れる。私のその様子に気付いたボランティア仲間の杉下綾子は、私の肩をそっと抱いてくれた。
家屋の残骸をひたすら取り除くという作業を繰り返し、一週間が経った。一週間作業を続けても、町は廃墟のままだった。地震の被害は甚大だった。もはや生存者は瓦礫の中には存在しないだろうと、みんなが諦めムードになっていた。疲れが溜まっていた。希望と絶望が背中合わせに存在し、日が経つにつれ、絶望の比重が大きくなっていった。生きて救出された被災者はたったの五人だった。ボランティア仲間はみんな無言で、ただ黙々と家屋の残骸を片付けていた。私もその一人だった。
次の日の朝、「清水さん! お待たせ!」と、そう元気よく声を掛けられて振り返ったら、そこに宮原悟が立っていた。
「……宮原さん」
そう一言言うのがやっとだった。彼のやさしい笑顔を見ていたら、自然と泣けてきた。
「ど、どうしたの? いや、無理もないかな。ここはあまりにも酷すぎるから……」
私はただ、こくりと頷いた。
正直言って、戦場より酷い有り様だった。何度か村上修司について戦場へ赴いたが、生きている人がほとんどいない状態というのは、生まれて初めての経験だった。毎日毎日、瓦礫を掘り起こしては遺体を回収し、ブルーシートが敷かれた中学校の体育館の床に寝かせた。地震が起きたのが、午前三時だったというのが致命的だったのだと思う。起きて活動している時間帯ならば、助かった人はもっと多かっただろうと思う。ボランティア仲間の森口靖に「もう無理しなくていい。清水さんは炊き出しをしてくれれば、それで十分だから」と言われた。けれども、私はとりつかれたように瓦礫の山を崩して、中に人が埋もれていないか探し続けた。いつの間にか、私のすぐ横にはいつも宮原悟がいた。彼も黙々と作業を続けた。
腕時計を見て、ふいに宮原悟が言った。
「もう一時半だよ。清水さん、そろそろお昼にしよう」
「え?」
「お腹空いてないの?」
「……ええ」
「だめだよ。食べなきゃ。助っ人に来た人が倒れてどうするんだ?」
「……」
「じゃ、ここに座ってて。僕がおにぎりをもらってきてあげよう」
そう言って、宮原悟は炊き出しをしている小学校の校庭へ歩いていった。
一人で地面に座り込んで、呆けたようにぼんやりしていた。顔を上げ空を見たら青かった。今日は突き抜けるような雲ひとつない快晴だった。太陽光線は眩しく暖かかった。そういえば、今年は暖冬になるとテレビの天気予報で、気象予報士が言っていたことを思い出した。目線を下にすると、そこは瓦礫だらけの灰色の光景が広がっていた。天上は天国なのに地上は地獄だった。私は一体ここで何をしているんだろう? こんなことで落ち込むなんて、結局人のためでなく自己満足のためだけに、自分はボランティアをしてきたのではないかと自己嫌悪に陥った。今日は風の音一つしない暖かな日だった。昨日の夜に少しだけ雨が降ったせいか、空気がより澄んでいるように感じた。
そのときである、遠くで猫のか細い鳴き声がした。野良猫がうろついているのかもしれない。振り返って、猫の姿を探した。きっと猫もお腹を空かせているだろうから、昼食を分けてやろうと思った。けれども、周囲を見回しても、どこにも猫の姿は見当たらなかった。立ち上がってもう一度見回したが、やはりいない。
「気のせいかな……」
そう思って諦めて地面に座り込もうとした瞬間、もう一度、声がした。今度ははっきりと聞こえた。もしかしたら、猫も家屋の残骸の中に埋もれているのかもしれない。私は注意深く耳を澄ませた。そして、その声がする方へ、少しずつ少しずつ近付いていった。
ここに違いないと思って立ち止まり、瓦礫を取り除いていたら、小学校から昼食をもらってきた宮原悟がいつの間にか横に立っていた。
「どうしたの?」
「声がするのよ」
「えっ?」
「ほら、静かにして聞いてみて」
「ほんとだ。確かにここから聞こえてくる。猫なのかな?」
「そうだと思うわ」
「掘り返す?」
「もちろん」
「よし、がんばろうか?」
「ええ」
そう言って、もらってきたおにぎりも口にしないまま、ペットボトルに入った水を少しだけ口に含むと、私も宮原悟も夢中になって瓦礫を取り除き始めた。一時間ほど、声がしていると思われる場所の瓦礫を取り除いていると、空腹と眩暈で倒れそうになった。けれども猫の声はどんどん近くなってくる。自然と瓦礫を掘るスピードが速くなった。少しして、宮原が何かを発見したのか、手が止まった。彼の手の先を私は覗き込んだ。そこには若い女性の遺体があった。ここへ来てから何度も見た光景なのに、何度見ても慣れることのできない光景だった。
ふと振り返ると、ボランティア仲間の一人、杉下綾子がこちらに向かって小走りでやってくる。見たところ、どうやら彼女は少し慌てているようだった。こちらに着いた途端、彼女はいきなりこう言った。
「明日、やっとここへも支援の人がたくさん来てくれると決まったそうよ。だから、引き上げの仕度をしてる人もいるわ。長くいられる人は多くないから。一時間後に臨時のバスを出してくれるそうだから、あなたたちも帰るなら準備をしたほうがいいわ」
「そうなんだ……」
「でも、もう少し待って。ここから猫の声がするのよ。だから助けなきゃ……」
「猫? だけど早くしないと、バスが行ってしまうわよ。取り残されたら、駅まで十キロも歩かなきゃならないわ」
「だけど、見放すわけにいかないよな」
「そうだよね……。じゃ、私も手伝うか……」
「あ、ありがとう……」
猫の声を頼りに、瓦礫を取り除いていたが、いつまでたってもどこに猫がいるのか分からなかった。けれども、すぐ近くから聞こえてくる気がするのである。私は「もしかして!」と思い、若い女性の遺体を動かそうとした。宮原悟も杉下綾子も一緒に手伝ってくれた。どうやら、猫は、この若い女性の下にいるようだった。彼女が守るように覆いかぶさり、小さな空間を作っていたから、一命を取り留めているのではないかと考えられた。可哀相なこの女性の遺体を三人でやっとのことで動かしてみたら、三人とも息が止まるほどびっくりした。彼女の下にいたのは猫ではなかった。お包みに包まれた人間の赤ちゃんだった! 生後五、六ヶ月と見られる赤ちゃんは、お包みの端を口に加え、弱々しく泣いていた。私は迷うことなく急いで赤ちゃんを抱き上げた。赤ちゃんを抱きしめ、頬ずりした。お包みは昨日の雨が染みたのか、少し湿っていた。この一週間、何度か雨は降ったが、いずれもにわか雨程度だった。しかも今年は暖冬で、冬だと思われないくらいの気温の高い日が続いていた。それが幸いしたに違いない。この赤ちゃんは一週間の間、水分を補給できたのである。しかも、お包みに包まれていたのと気温が高かったおかげで、体温を失わずに済んだ。そして何よりも、この子の母が命をかけて我が子を守ったから助かったのだと思われた。幾重にも重なった奇跡のおかげで、この赤ちゃんは生き延びることができたのだ。けれども、予断は許されない。赤ちゃんは衰弱しきっていた。早く、病院に運ばなければ! 私は赤ちゃんを抱きしめ、助けを呼びに待機場所になっている小学校へ走った。宮原悟も杉下綾子も後に続いた。