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長い長い夢の中で  作者: 早瀬 薫
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二十八章

 工藤先生に促されるままに、小春ちゃんの家に二人で向かっていた。しかし、正直言って、小春ちゃんより冬美ちゃんのほうが気になって仕方がなかったのだが、先に、小春ちゃんに冬美ちゃんのことを詳しく訊いてみるのもいい手だと思ったので、僕はそのまま工藤先生にくっ付いて小春ちゃんの家に向かっていた。夢で見たことが起こるのは、今日なんだろうか? とにかく、冬美ちゃんは小春ちゃんを連れていたし、冬美ちゃんが小春ちゃんに接触する前に掴まえておけば、あの女番長と父親の喧嘩に出くわすのは今日でなくなるかもしれない。そんな非現実的なことを考えながら、とにかく、小春ちゃんから話を聞くのが先決だと思っていた。


 小春ちゃんの家はこじんまりした二階建ての一軒家で、掃除も行き届いており、一見してごく普通の幸せそうな家族が暮らす平凡な家に見えた。工藤先生は玄関の呼び鈴を押した。すると、すぐに部屋の奥からこちらに人が走って来るぱたぱたという小さな音がして、玄関ドアが開き、小春ちゃんが現れた。小春ちゃんはドアの向こうにいるのはてっきり彩夏だと思っていたのだろう、笑顔だった彼女の顔は、僕たち大人二人の顔を見つけると、一瞬で強張った。けれども工藤先生は気にもせず、すぐに小春ちゃんに声をかけた。

「池田さん、こんにちは。急に来てごめんね。今日はね、片桐さんの代わりに先生が連絡帳を持ってきたのよ。具合はどう? お腹が痛かったのよね?」

「……」

「池田さん、やっぱり具合が良くないのね。なんだか前よりすごく痩せたわ。ちゃんとご飯は食べているの?」

「……」

 これこれ、そんなに矢継ぎ早に質問されても返事に困るだろう、と思ったのだが、彼女は娘達がお世話になっている担任の先生だし、余計なことは言わずに、黙って見守っていた。

「あのね、池田さん、今日はね、少しお話をしたいと思って来たの。片桐さんのお父さんも池田さんのことが心配だから一緒に来てもらったの。おうちの中に上がってもいい?」

 小春ちゃんはしばらく工藤先生の顔を見て、困った風な表情をしていたが、こくりと頷きながら「はい」と一言言った。


 家族が居間にしているだろう部屋は八畳の和室で、真ん中に座卓が置かれているだけの質素な部屋だった。他にある物といえば、小さなテレビくらいだった。工藤先生は興味深げに部屋をぐるりと見回したが、見るものも少なく、彼女の視線はすぐに小春ちゃんの顔の前で止まった。

「池田さん、何か困ってることはない?」

 またまた、そんなことを先生から急に質問されても困るだろう、と思ったのだが、またしても僕は黙っていた。

「私は池田さんの先生だけど、先生としてじゃなくて、知り合いのお姉ちゃんみたいに思ってくれていいのよ。池田さんがずっと学校に来ないから、心配で心配で仕方がないの。お父さんやお母さんやお姉ちゃんのことで、困っていることはない? 私は池田さんの味方でもあるけど、家族の味方でもあるのよ。だから、遠慮しないでなんでも話して欲しいの」

「……」

 担任の先生がいきなり家に来てそんなことを言ったとして、一体何人の生徒が急に腹を割って、本当のことを話そうと思うだろう? しかも小春ちゃんはまだ小学一年生である。僕は、工藤先生に悪いと思ったが、口を挟むことに決めた。

「小春ちゃん、お姉ちゃんの制服が破かれてたんだろう? お姉ちゃんは大丈夫なの? それに小春ちゃん、その腕はどうしたの? 青痣ができてるじゃないか。うちの彩夏が小春ちゃんのことを心配してるよ。小春ちゃんと遊べないから、毎日毎日僕に当り散らすんだよ。大丈夫、僕たちは小春ちゃんやお姉ちゃんやお母さんを守ってあげるから、何でも話してごらん」

 そう僕が言うと、不安そうな表情で、じっと僕たちを交互に見つめていた小春ちゃんの目から、涙がぽろぽろと零れ落ちた。工藤先生はハンカチを取り出して小春ちゃんの涙を拭くと、かまわず小さな彼女を抱き寄せた。

 そのとき、玄関ドアが開く音がし、家族の誰かが帰宅したようだった。玄関に並んでいる見知らぬ靴を眺めているのか一瞬動きが止まったようだが、その足音は真っ直ぐ僕たちのいる居間に向かってきた。顔を見せたのは、冬美ちゃんだった。冬美ちゃんは僕たちを見回し、びっくり仰天していた。僕はといえば、冬美ちゃんの顔を見てほっとしていた。彼女の姿を一見したところ、制服も破れてないし、鞄も壊れていない。今日は彼女は虐めを受けず、無事に帰ってこられたようだった。しかし、冬美ちゃんは僕たちを無視し、小春ちゃんに声を掛けた。

「小春、ちゃんと服を着なさい。今日、私が学校から帰ってきたら、一緒に池袋に行くって言ってたでしょ!」

 その冬美ちゃんの言葉を聞いて僕は焦った。僕は思わず叫んでいた。

「ちょっと、待て! お父さんの尾行をするのはやめろ!」

 冬美ちゃんはまたもやびっくり仰天し、僕の顔を凝視している。

「な、なんでっ!? なんでおじさん、そのことを知ってるのっ!?」

 僕は冬美ちゃんの顔を見てにやりとした。

「僕は何でも知ってるんだ。超能力者だからな」

 そう言うと、今度は工藤先生までもが、僕のほうを振り返り、びっくり仰天して見つめた。その顔を見て、僕も少しだけ失敗したかなと思ったが、構わず言葉を続けた。

「とにかく、お父さんを尾行するのはやめろ。尾行したって碌なことがない。君達が危険な目に会うだけだ!」

「あいつが何をやってるのか、ちゃんと証拠を取らなきゃいけないんだよ! そうじゃなきゃ、お母さんは私の言うことなんか信じてくれない!」

「お母さんのことはまかせろ! 僕がちゃんと話をするから!」

 そう僕が言うと、冬美ちゃんは僕の顔を睨みつけていたが、一言も言い返せず黙り込んでしまった。その後、数分間睨み合いが続いていたが、工藤先生が沈黙を破った。

「冬美ちゃん、片桐さんはとても良い方よ。今日も冬美ちゃんが虐められてないか、中学校の校庭の金網に張り付いて見張ってたんだから」

 そう工藤先生が言うと、強張っていた冬美ちゃんの顔が崩れ始め、泣きそうな顔になった。工藤先生は抱いていた小春ちゃんを膝から降ろすと、「ちょっと待ってて」と言って、家を出て行き、五分もしないうちにまたすぐ戻ってきた。戻ってきた彼女の両手には、コンビニで買ったと思われるジュースの入った袋が下げられていた。

「お母さんはいつ戻ってこられるの?」

 工藤先生が冬美ちゃんに聞いていた。

「いつも四時半ごろです」

「じゃあ、もうすぐね」

 時計の針は四時二十八分を指していた。四時半を少し回ったところで玄関ドアが開き、冬実ちゃんのお母さんが仕事から帰って来たようだった。彼女も玄関のタタキに置かれているいつもより多い靴の数に驚いたのか、お母さんは様子を覗いながらそろそろと居間に入って来た。工藤先生はお母さんの顔を見つけた途端、「すみません、お邪魔しています」と言った。僕たちは彼女達のお母さんに今まで起こっていたことの経緯を話していた。その途中お母さんは、驚いたり困ったりした顔をしたが、素直に僕たちの話を最後まで聞いてくれていた。彼女は、幼い頃から娘達に辛い思いをさせてしまって申し訳ないと思っているとぽつりと言ったが、話が父親のことに及ぶと急に饒舌になった。

「あの人はそんな人じゃないんです! 娘達のことも、自分の本当の子供のように思って育てると言ってくれたんです!」

「その彼の気持ちに最初から嘘があったとは言いませんが、だけど、小春ちゃんの腕を見てください。小春ちゃんの腕の青痣は何なんですか? お父さんが叩いたからじゃないんですか? それに彼は働きもせず毎日ギャンブル三昧。しかも冬美ちゃんの友達のお母さんにまで手を出そうとしている。そのことで冬美ちゃんが学校で虐めにあっているのに、一体、彼のどこに家族を守ろうという気持ちがあるんですか? お母さんは朝から晩まで一日中働き通しで、あなたが彼を子供のように養ってやってるだけじゃないですか! 冬美ちゃんも小春ちゃんも、家にいてもお母さんと話す時間がないと淋しがっているんですよ!」

「だけど、……あの人はそんな人じゃないんです!」

 その後、同じ様な会話を二度繰り返したが、埒が明かなかった。最後にお母さんがまた夫を庇うようなことを言ったとき、それまで黙って聞いていた冬美ちゃんが部屋を飛び出し、階段を駆け上った。悪い予感がしていた僕は、冬美ちゃんの後を慌てて追いかけた。冬美ちゃんは二階の自分の部屋の窓を開け、窓枠に立ち、そこから飛び降りようとしていた。僕の頭の中で亜由美がビルの屋上から落ちていく光景がフラッシュバックし、「またか……」と絶望的になりながらも、冬美ちゃんに急いで駆け寄り、間一髪で落ちていく彼女の服を握り締めた。たとえ腕がもげようとも絶対に離してはいけないという思いで、握り締めていた。冬美ちゃんは泣き叫んでいた。 

「腕を伸ばして、僕に掴まれ!」

 僕は叫んだが、冬美ちゃんは泣いて暴れるばかりで、掴まろうとしない。

「ほっといてよっ! なんでいつも邪魔するのよっ!」

「ほっとけるか!」

「おじさんに何の関係があるのよっ!」

「関係なんかないさ! だけど、目の前で苦しんでる君をほっとけるわけないだろ!」

「生きてたってなんにもいいことなんかないものっ! だから死ぬのっ!」

「死んだから楽になるなんてことないぞ!」

「死んだこともないのになんで分かるのよ!」

「超能力者だって言っただろ? だから分かるのさ。それにこんなところから飛び降りたって死ねないぞ! 足をくじくのがいいところだ。本当に死にたいのなら、四階以上から飛び降りるんだな!」

 そう言うと、じたばたしていた動きが止まり、冬美ちゃんは僕の顔を見上げた。何か言いたげだが、黙って僕の顔を睨みつけている。そして、考えた末に、また彼女は僕に大声で言った。

「だったら、大通りまで行って車に轢かれて死んでやる! だから手を離してよ!」

「離すもんか!」

 冬美ちゃんはもう一度僕の顔を睨みつけると、僕の手を離そうと暴れ出した。僕の手は冬美ちゃんの重さで悲鳴を上げていた。もはや腕の感覚がなかった。それでも彼女の体を絶対に離すつもりなどなかった。

「おまえさ、まだ若いじゃん。おまえの人生はこれからだろ。おまえはこれからいろんなことを経験するために生まれたんだよ。おまえはあの親父とお袋に頼って一生一緒に過ごすつもりなのか? そうじゃないだろ? おまえはこれからいろんな人に出会い、いろんなことに興味を持ち、いろんなことに感動して一生を過ごすんだ。おまえの夢はなんだ? おまえはおまえの夢を叶えなきゃいけないんだよ。たかが親のことで、まだ始まってもないおまえの一生を台無しになんかするな! そんなもったいないことをするもんじゃないんだよ!」

 そう言うと、僕の顔を睨みつけていた冬美ちゃんは、顔を下げ、うな垂れた。

「どうしてそんなに簡単に命を絶とうとするんだ! 残された者がどれだけ悲しむのか分かっているのか? 命は自分だけのものじゃないんだぞ!」

 そう言って、渾身の力を振り絞り、冬美ちゃんの体を引き上げ、両脇に手を入れて部屋の中に引き摺り込んだ。冬美ちゃんは抵抗することなく、そのまま部屋の真ん中になだれ込み、体をくの字にして横たわったままになった。お母さんも小春ちゃんも工藤先生もその様子を見て、ただ涙を流していた。小春ちゃんは「お姉ちゃん!」と言って冬美ちゃんに抱きついた。お母さんも「ごめんね。私が悪かった……」と言って泣いていた。

「お母さん、僕はそんなにお金がなくてもいいと思うんです。無理して一日中働いて、子供たちが起きているときに、ほとんど顔を合わすことがないのは良くないことです。子供たちに必要なのは、いい暮らしより愛情だと思います」

 気がつけば、僕は冬実ちゃんのお母さんに言っていた。彼女は僕の顔を眺め、ただ、うん、うん、と頷いていた。そして深々と頭を下げた。

 

 その後、僕は冬美ちゃんがもはや飛び降りる気配を見せないことを確認してから、工藤先生と二人で池田家を後にした。ただ何も言わずに、二人で呆然と歩いていた。途中、工藤先生は「片桐さんがいてくれて本当に良かった……」とぽつりと言った。僕も「いえ……」と一言だけ言い返した。ただ疲れていたというのが本音だった。けれども、どうにか危機は脱したという心地よい安堵感が体全体を覆っていた。

「お母さん、本当は真面目な方だと思うんです。だから大丈夫だと思います」

「そうですね……」

「でも、今日は本当に感動しちゃった……」

「え?」

「だって、片桐さんは良い方だなと思って……。片桐さんだから冬美ちゃんを説得できたんですよ。悲しみを知ってらっしゃる方だから……」

 工藤先生のその言葉を聞いて、僕は合わせていた彼女の目から視線を逸らした。

 「悲しみを知っている……」、確かにそうだ。だけど、知りたくて知っているわけじゃない。そんなこと知りたくもないのに知っているだけだ。僕は、妻を失った悲しみから全然立ち直ってなんかいない。だから情けないことに、いなくなった彼女を捜している夢を何度も何度も見続けているのだ。しかも夢の中でさえ妻を未だに見つけられていない。そんな夢を見ているのは、すべて自分の心の弱さからきているのだということを、実は僕自身が一番よく分かっているのである。

 僕は工藤先生の顔をまともに見られないまま、彼女と別れた。家に着くと、彩夏がいつものように「お帰り!」と言って飛びついてきた。彩夏は「今日のご飯は、お父ちゃんの大好きなハンバーグだよ!」と言った。彩夏の温かな小さな体を抱いていると、自然と涙腺が緩んだ。僕は涙を見られないように、彩夏をぎゅっと抱きしめた。彩夏は「お父ちゃん、どうしたの? 苦しいよ」と言って手から逃れようとし、お終いには「離せ! くそじじい!」と言って暴れ始めた。僕は泣き笑いしながら、彩夏を背負って台所に運んだ。

 いつものように仏壇に手を合わせてから、二人で夕飯を食べていて、いつの間にか昨日見た夢のことを考えていた。昨日見た夢は、今日再現しなかった。正夢ではなかった。いや、確かに冬美ちゃんは実行しようとしていた。けれども、実行されなかった。

 僕はそのとき気付いた。すでに決まっていることが夢に現れるのではなく、夢で起きたことは変えられるのだということに……。そう、運命は変えられるのだ、自分の手で!


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