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長い長い夢の中で  作者: 早瀬 薫
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二章

「お父ちゃん、どうしたの? 今日はむずかしい顔をしてるね」

 そう言って娘の彩夏が、僕の顔を覗き込みながら言った。僕は昨日の投身自殺の件が載っていないか、新聞の三面記事欄を食い入るように眺めていた。けれどもそこにあるのは、連日世間を騒がせている強盗殺人犯のセンセーショナルな関連記事ばっかりだった。無名の一般女性の、ましてや事件でもなんでもない自殺の記事などが載るスペースはないようだった。けれども、彼女が自殺した場所は池袋という都内でも有数の人通りの多い街で、実際かなりの数の人がその飛び降りを目撃していた。だから、新聞に記事が載っていないということは、楽観的な見方をすれば、彼女はもしかして地上二十五メートルの高さから飛んだにもかかわらず、命を落とさずにすんだのかもしれなかった。あんなに若者でごったがえしている場所で飛び降りたら、普通は記事になるだろうなと思う。だから彼女は、奇跡的に助かったのだと思いたい自分がそこにいた。

「うーん、ちょっとね……」

「また、新聞を読んで、それを小説のネタにしようと思ってるんでしょ?」

「まぁね。それより彩夏、今日は先生が家庭訪問に来る日だったよね?」

「うん、そうだよ。だからお父ちゃん、いつものようにふらふらしないで、二時にちゃんとお家にいるのよ」

「はい、はい、わかりました」

 彩夏は亡くなった妻に似て、僕より数段頭が良くて、歳のわりにしっかりした子だった。だからなのか、女の子より男の子の友達のほうが多く、数少ない女の子の友達の小春ちゃんは、彩夏と同じでスカートを穿いているのを一度も見たことのないお転婆な女の子だった。彩夏はいつも小春ちゃんと男の子の集団の中に溶け込んでいた。ドッジボールやサッカーをやっているか、冒険ごっこと称して子分を数人連れて近所を徘徊したりする遊びをしていた。しかし、ただ外を走り回っているだけでもなく、雨の日などは家の中に閉じこもって、千ピースもある大人向けのジグソーパズルを、時間を忘れて組み立てていることもあって、その集中力と持続力は見ていて本当に感心させられた。このジグソーパズル好きという性分は僕に似ているのだと思うが、ジグソーパズルというのは、大人より子供のほうがむしろ向いているような気もする。風景画の微妙な色の違いというものが、目の良い子供のほうが見分けられるような気がするからである。僕の書斎と称する四畳半の小さな部屋の壁には、完成して額に入れたジグソーパズルがところ狭しと飾られてあり、彩夏は勝手にそのジグソーパズルの額を壁から外してはバラバラにして自分の部屋の畳の上にピースを山盛りにし、それを完成させるとまた次の額に手を伸ばす、ということを繰り返していた。

 それにしても一昨日見た夢は、今までになく鮮明で、昨日目の前で起こった投身自殺の光景は、その日から僕を捉えて離さなくなった。当たり前だと思う。だって前の晩に見た夢が正夢になったのだから。しかも人の命に関わるようなぞっとする出来事だった。しかもあの女性は本当に美しい人だった。そのことが余計に彼女への哀れみを増しているようだった。あんな美しい女性がどうして死にたいと思ったのか、誰だって不思議に思うだろう。だって、美人に生まれたってだけで、半分は人生の成功を保証されているようなものじゃないか? そんな恵まれた容姿なのに一体どうして?という疑問が、僕の頭の中をぐるぐると回っていた。 

 いてもたってもいられないので、僕は、彩夏を学校へ送り出すと、家事をほったらかして、ふらっと家を出てしまった。午後二時に彩夏の担任が家庭訪問にやってくるなんてことは、すっかり頭の中から消え去っていた。


 とにかく、まずは、昨日の現場に行くことにした。電車を乗り継ぎ、午前十一時に池袋に到着した。このあたり一帯は若者の街で、平日でも前から来る人にぶつからずに歩くのが困難なくらい多くの人が行き交っている。そんなところで投身自殺したのだから、やっぱり新聞の記事になったっていいのになと思ってしまった。しかし、こういう人の多いところで飛び降りるなんて、もしかしたら計画的だったのではなく、衝動的に自殺してしまったのかなと思った。ビルを眺めていて、このビルから飛び降りたら死ねるかなと思ってビルの中に入り、いざ入ってエレベーターに乗ったら、すんなり屋上に出られたので、ビルの端から飛び降りてしまったというような……。実際夢の中の彼女は、そんな風に見えた。

 昨日の騒ぎは酷いものだった。阿鼻叫喚、地獄絵図とはまさにこのことかと思われるほど辺りは騒然としていた。その中で、横たわった彼女に一番近い場所にいながら、何もせずにぼうっと突っ立っていたのは、おそらく僕一人だったんじゃないかと思う。それにしても、今もこんなに気になってしょうがないのなら、その後、彼女がどうなったのか、確かめておけば良かったと後悔し始めていた。とにかく、彼女が救急隊員に脈を調べられ、ペンライトで瞳孔を確かめられ、ストレッチャーで救急車に載せられてドアがバタンと閉まり、驚くほどの大音量のサイレンを鳴らしながら、その場から離れていくところまでは見届けていた。しかし、その後五分もすると、まるで何事もなかったかのように、人だかりは雲散霧消してしまって、いつもの雑然とした様相を取り戻してしまっていた。

 とりあえず、一昨日の夢の中で見知らぬ老婆に、美里が待っていると言われたカフェに行ってみることにした。この思い出のいっぱい詰まったカフェの真向いで投身自殺があったなんて、なんだか本当に気が滅入った。美里と待ち合わせをするとき、いつも僕たちは大抵このカフェを使った。駅で待ち合わせをしても良かったのだが、あまりにも人が多く行き交っていて落ち着かないし、カフェなら少しくらい遅れても待つのが苦にならないだろうと思ったからである。実際、僕が使っていた電車の路線は人身事故が多く、僕は待ち合わせの時間にしょっちゅう遅刻した。都会にいると、電車に身投げをして自殺する人身事故は頻繁に起こる。地方から大学へ通うために上京したばかりの頃、人が一人亡くなっているのに、「ちぇっ、また遅刻だよ。勘弁してくれよ」と舌打ちしながら、さも日常茶飯事のように、電車の中で普通に会話している高校生を見たときの衝撃は、今も忘れられない。それくらい都会ではよくあることなのかもしれないが、地方から出てきた田舎者の僕にとって、これぞ典型的な都会地獄を垣間見た気がしてしかたなかった。田舎にいたとき、飛び込み自殺なんぞ起こった日にゃ、事故現場には人だかりができ、事故検証や遺体回収されている様子をみんなが固唾を呑んで見守り、涙したり恐がったりする人がいるのが普通の光景だった。それなのに都会では、道路で轢かれた犬猫の死体を処理するかのように、鉄道員や警察や救急隊員以外に誰にも見守られることなく、ただ淡々と人間の遺体が運ばれていくんだろうなと思った。

 カフェの中に入ってみた。珍しく店は空いていて、テーブル席には数人の男性客、いつも美里が一人で座っていたカウンターには、美里ではない若い女性が一人でぽつんと座っていた。やっぱりここに美里はいなかった。

「いるわけないか……」

 そう思って落胆した。当たり前のことなのに、そういう現実がいつも僕を苦しめた。美里が生前よく行っていた場所に来さえすれば、もしかしたら彼女に会えるのではないかという淡い期待を無意識に抱いてしまっている自分がいた。分かっていることなんだから、来なけりゃいいのにと、いつも自分で自分を責めるはめになっていた。カフェに来て、店員に昨日の自殺騒ぎのことを聞こうと思っていたのに、急に聞く気をそがれてしまった。諦めて帰ろうとした瞬間、カウンターに一人で座っていた女性がこちらを振り向き、しばらく僕の顔を見た後、「あれ? 片桐さんじゃないですか?」と僕に声を掛けてきた。僕はぎょっとして彼女の顔を見返した。

「やっぱり! ちょうど良かった」

「あ、あれ? どちら様ですか? どこかでお会いしましたか?」

 どこかで会ったことのある人だとは思ったが、思い出せないでいた。

「いやだ! 彩夏ちゃんの担任の工藤ですよ」

「えっ?」

 そう言われて、四月に彩夏が小学校へ上がるとき、入学式で彼女に会ったことを急に思い出した。それと同時に「二時に先生が来るから、ふらふらしないでちゃんとお家にいるのよ」と、朝、彩夏に言われたことも思い出した。僕は慌てて携帯を取り出し、時間を確認した。ちょうど正午になったばかりだった。それを確認するとほっとした。

「先生、今から急いで家に帰ります。二時にお待ちしていますから!」

と言って、踵を返して家に帰ろうとした瞬間、彩夏の担任の工藤杏子は急に笑い出した。僕は訳が分からなかった。彼女に笑われるようなことをしたかな?

「もう、やめてくださいよ! 片桐さんて面白い方なんですね……」

 そう言って、工藤先生はひとしきり笑った。彼女が笑っているのを呆然と見ていて、しばらくしてようやくおさまったと思ったので、僕はもう一度「帰ります」と言ったら、彼女はもっと笑い転げた。帰ろうとする僕を彼女は腕を掴んで制した。

「ちょ、ちょっと、待ってください。ここでいいじゃないですか!」

「……?」

「ここで、家庭訪問しましょう」

 やっとのことで、工藤先生はそう言葉を搾り出した。それでも、相変わらず、彼女は僕の顔を見て笑っていた。

「はぁ、ここで……」

「すみません。今日は一年生と六年生の交流会の日だったんですけど、朝、どうしても教育委員会へ出向く用事ができてしまって、実は、今から昼食を食べて、それから片桐さん宅へお伺いしようと思ってたんです」

「はい……」

「だから、ご迷惑でなければここでご一緒に昼食を食べながら、お話できたらと思います」

「あ、あの、家じゃなくていいんですか?」

「そうですね……。できればお家の様子も拝見したほうがいいとは思うんですけど、彩夏ちゃんは明るい性格で毎日元気に学校に通ってきていますし、友達もたくさんできたみたいですから、何も心配はないと思われます。ですから、後はお父さんのお話をお伺いできれば十分だと思います」

「はぁ、そうですか……」

 工藤先生に促されるままに、僕はハンバーガーセットを注文し、彼女はホットサンドセットを注文して、昼食を食べながら、話をすることにした。話と言っても保育園に入園したときと同じく、彩夏は生まれたと同時に母親を亡くしていて、兄弟もいないので淋しい思いをさせている、くらいしか話すことがなかった。けれども、いいんだか悪いんだか、僕が不安定なミステリー作家を生業にしているせいで、一人親だが常時家にいられるので、その点では幸いしているとも言った。工藤先生は真剣な顔をしながら話を聞いてくれていたが、彩夏は活発で、休み時間になるといつも運動場に出て走りまくっているか、ジャングルジムの天辺によじ登っていると言っていた。けれども、体育の時間に加えて工作の時間も大好きで、いつも丁寧に色を塗ったり切ったり貼ったりしていると言っていた。

 ひとしきり話をすると、意外にも工藤先生はふうっとため息を吐いた。さっきまで明るかった彼女が、急に沈み込んでいた。工藤先生は入学式のときに、確か今年で教師になって七年目と言っていたから、多分、年齢は今年で二十九歳のはずだった。僕は三十五歳になったばかりだから、彼女のほうが六歳も歳下で、だからそんなに気を遣うこともないかなと思いながら、彼女にため息のわけをそれとなく訊いてみた。

「先生、どうかなさったんですか?」

「え?」

「いや、その、ため息を吐かれたんで……」

「ああ、あの、少し心配事がありまして……」

「学校のことですか?」

「ええ、そうなんです……。でも、教師には守秘義務がありますし……」

「そうですよね。でも、外で会ってるんだし、僕のことを保護者じゃなくて、知り合いだと思ってもらっていいです。それだったら、OK、ですよね?」

「……そうですね。それに、片桐さんには特に聞いてもらいたい気もするんです」

「そうですか。なら遠慮なくどうぞ。僕も絶対誰にも漏らしませんから」

 僕がそう言うと、工藤先生は安心したのか、ゆっくりと喋り始めた。

「池田小春ちゃんのことをご存知だと思うんですけど……」

「ああ、彩夏と仲良しの……。うちにも何度か遊びに来ましたよ」

「小春ちゃん、たまに腕や足に痣を作ってくることがあるんですよ……」

「えっ?」

 工藤先生の顔を見ると、なんだかとても言いにくそうな表情をしていた。

「そう言えば、暑いのに長袖を着てることがあって、あれ?と思ったことがあったような気がします」

「そうですか……」

「それって、もしかして……」

「……ええ、そうなんです。多分、彼女、家で虐待されてるんじゃないかなと思うんです」

「でも、すごく明るい子じゃないですか」

「そうなんですよ。だから余計に心配してるんです。誰にも言えないで一人で我慢してるんじゃないかと思って。彼女に訊いてみたんですけど、転んだだけだとしか言わないんです」

「そうなんですか……」

「ええ」

「分かりました。僕も小春ちゃんのことを気をつけてみようと思います。彩夏にも小春ちゃんの家のことをそれとなく聞いてみます」

「あ、ありがとうございます。そう言っていただけると心強いです」

 そう工藤先生は言いながら、少しほっとしたような顔をして、慌てて帰って行った。今日はまだ、うちのほかに五軒の家庭訪問があるらしかった。僕はといえば、工藤先生と話せたおかげで、美里を失ったことを再認識させられて、意気消沈していた気持ちがどこかへ吹き飛んでいた。元気を取り戻した僕は、店員に、昨日近所で起こった投身自殺の件を訊き出そうとしていた。


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