十九章
彩夏から聞いた。小春ちゃんが学校にずっと来ていないらしい。小春ちゃんが学校に来ないから、彩夏まで機嫌が悪い。僕は工藤先生にさっそく電話しようと思ったが、もう少し彩夏に小春ちゃんの家を偵察させてみてからでもいいのではないかと思い、電話をするのを思いとどまった。とりあえず、さっき、彩夏が家に帰ってきて、また一人で部屋に篭もって、ジグソーパズルをやっているので、その隙に一人で小春ちゃんの家の前まで行って、そっと様子を見て来ようと思った。
うちの家から小春ちゃんの家までは、距離にして五百メートルくらいのものだと思う。うちの借家は、谷中銀座という商店街のすぐ近くにあって、谷中銀座の中を通り抜けるのが近道だった。でも、今日は誰とも話したくなかったので、谷中銀座を避けることにした。谷中銀座のおばちゃんたちは、父一人子一人の僕たちのことをいつも気に掛けてくれていて、僕たちを見かけると、これを持って行け、あれを持って行けと、なんだかんだ山ほどお店で売れ残ったものを持たせてくれるので、非常にありがたいのだが、今日は、池田家を偵察に行くので、そんな大荷物でウロウロするわけにもいかず、だから、谷中銀座を避けて、小学校の近くにある小春ちゃんの家に行くことにした。
谷中銀座の際まで歩いていって、右に曲がろうとしたら、出会い頭に誰かにぶつかってしまった。倒れた人を見たら、老婆だった。老婆は「イッタァーーーッ」と大げさに叫んで転がっていた。僕は、慌ててその老婆を抱き起こした。彼女は「ちょっと! 気をつけなよ!」と僕の顔を睨みつけた。
「す、すみません」
「こっちは年寄りなんだから、転び方が悪かったら、骨だってすぐ折れるんだからね! 骨を折ってごらんよ、即、入院だよ。入院して動けなくなったら、頭だって呆けるんだよ。呆けたらどこにも行けなくなって、死ぬまで病院さ。年寄りが転ぶと碌なことにならないんだよ。よく覚えておきな!」
そう言って、老婆は僕の顔をものすごい形相で睨み続けていた。あまりにも恐い顔だったので、最初は気付かなかったのだが、その顔をじっと見ていて、なんだかどこかで見たことがあるような気がした。
「あのぉ、どこかでお会いしたことがないですか? 初めてじゃないような気がするんですが……」
「はぁ? 会うわけないだろ!」
「あ、そ、そうですか。す、すみません……」
そう、言葉を交わすと、その老婆は、さっきとはうって変わって、くるりと機敏に踵を返すと、さっさとその場を離れようとした。離れようとして、「あーっ、思い出した!」と言って、もう一度こっちを振り向いた。
「あんた! たしか池袋で会ったよ!」
「池袋?」
「ほれ、ゴミをよこせって言ってただろ?」
「あーっ!」
「ゴミ」と言われて、やっと思い出した。ゴミ袋を持って、公園を掃除していた老婆だった。亜由美という女性が投身自殺したビルの前で、僕は彼女と言葉を交わしていた。僕はあのとき、彼女が持っていたゴミ袋の中の薄緑の封筒を偶然に見つけ、奇跡的に譲り受けたのだった。
「あの、このへんにお住まいがあるんですか?」
「そうだよ」
「前から?」
「いや、最近」
そうだろうなと思った。この辺の老人は大抵、顔見知りだから。
「お引越されてきたんですか?」
「そうだね」
「それで、池袋まで掃除の仕事をしに行かれてるんですか?」
「そうだけど、なにか悪いかい?」
そう言って、また老婆の顔が険しくなったので、これはやばいと思って、それ以上追求しなかった。
「あのさ、今度、この谷中銀座で、占いの館を開くことにしたんだよ。だからさ、あんたも困ったことがあったら、いつでも相談に乗るから一度来てみてよ。あたしの占いはすごく当たるからさ」
老婆は、鞄の中をごそごそとかき回すと、名刺を取り出して、一枚僕にくれた。その名刺には「占いの館 魔鈴」と書かれていた。魔鈴ばあさんというのかと思うと、ちょっとおかしくなってにやけていたら、「何かおかしいかい?」とまた強面で言われたので、これはまたやばいと思って、「じゃ、またお伺いさせて下さい」と言って、早々に別れた。
魔鈴ばあさんと別れてから、ほんの少し歩いたところで、またばあさんが息せき切って舞い戻ってきて何事かと思ったら、「ちょっと! 今お告げがあったよ! あんたの探してるものは、『大きなお屋敷の本がいっぱい置かれている部屋にある』だそうだよ! じゃあね」と言うと、またくるりと踵を返すと、すたこらと帰って行った。
「僕が探しているもの」だって? 僕は探しものなんかしてないけどな、変なことを言う人だなと思った。まったく、世の中には、僕より上手の変人はいっぱいいるんだなと感心した。魔鈴ばあさんのその言葉が重要なものだったと気付くのは、もっと後のことになるわけだが、そのときはなんのことだかさっぱり分からなかった。とにかく、こんなところで、あの掃除婦のばあさんにもう一度会うことになるなんて思いもしなかった。
とりあえず、気をとりなおして、もう一度、小春ちゃんの家に向かうことにした。商店街を横切らずに小春ちゃんちに行くには、右に曲がって真っ直ぐ歩き、不忍通りを横切って団子坂を登り、一つ目の信号を左に曲がる。すると中学校がすぐ見えてくるのだが、その中学校に隣接している小学校から百メートルほど離れたところに、小春ちゃんの家はあった。中学校の校庭の周りの道を一人で歩いていたら、授業が終わったのか、クラブ活動をするために、生徒が勢いよく校舎から飛び出してきた。僕はその様子をぼんやり眺めながら歩いていたのだが、校庭の隅にある部室棟に差し掛かったとき、突然ガラスの割れる音と罵声が聞こえてきた。
何事かと思った。最初は男子生徒がふざけて狭い部室でボールでも投げて、ガラスを割ったのかと思った。けれども、聞こえてくる声はどう考えても女子生徒のものだった。
「生意気なんだよ!」
「なんだよっ、その格好は!」
「制服をちゃんと着て来い!」
「制服がないなら、裸で来いよ!」
「きゃあああ」
僕は、フェンスに体をくっつけ、耳をすまして声を聞き取っていたが、どう考えても異常な事態が部室の中で起こっているようだった。これは、大人として放置するわけにはいかない。気付けば僕はフェンスに足をかけ、よじ登って校庭の中に入っていた。急いで声がする部室に行きドアを開けると、中にいた女子生徒全員がびっくりして一斉にこちらを見た。一人の下着姿の女子生徒が、五人の女子生徒に取り囲まれて、暴行を受けていた。
「何をやっているんだ!」
僕は暴行していた女子生徒をはねのけ、シャツを脱ぐと下着でいる女子生徒にかぶせてやった。
「何だよ…先公かと思ったじゃないか!」
「誰だよ、おっさん?」
「誰でもいい! お前ら、この子に一体何をしているんだ!」
「何でもいいだろ。あんたには関係ないよ」
「何でもいいわけないだろう!」
僕は親分格と見られる一番体格のいい少女の首根っこを掴むと「ちょっと、来い!」と言って、部室から引きずり出した。他の生徒が殴りかかろうとしたが、巧みに避け、校庭で練習をしている野球部の部員に「おーい、ちょっとこいつらを見張っててくれ!」と部室に呼び寄せ、僕は親分格の女子生徒を職員室に連れて行こうとした。その瞬間、虐められていた女子生徒が「やめて!」と叫んだ。彼女はすでに服を着ており、彼女の胸に付けられた名札を見ると「池田冬美」と書かれていた。「池田」……か。小春ちゃんと同じ苗字だな。……ま、まさか、小春ちゃんのお姉ちゃん!? でも、よくよく彼女の顔を見て見たら、顔立ちも小春ちゃんとよく似ている。
「き、きみは、も、もしかして、池田小春ちゃんのお姉ちゃんなの、か?」
「……」
女子生徒は、びっくりした顔でこっちを見ている。
「……僕は、片桐彩夏の父親なんだよ。君は小春ちゃんのお姉ちゃんなんだろう?」
「そ、そうですけど……余計なことをしないでください」
「だ、だって、君は虐められてたじゃないか」
「虐められてなんかいません」
その言葉を聞いて、他の女子生徒達は僕の顔を見てニヤニヤしはじめた。
「そうだよなー、冬美。虐めてなんかないよなー」
僕は呆気に取られた。こういう場合どうすればいいんだろう? 頭の中が真っ白になって、呆然と突っ立っていたら、首根っこをおさえていた手も緩んでしまって、その隙に親分格の女子生徒にするりと逃げられた。それでも、僕はもう一度、彼女を掴まえようとしていたのだが、池田冬美はそんな僕を全く無視して、床に落ちていた自分のカバンを拾うと、パンパンと叩いて埃を払い、何事もなかったかのように、一人で歩いて校門へ向かった。そのまま何事もなかったかのように、下校するつもりらしい。僕はどうすることもできず、呆然とその場に立ち尽くしていた。野球部の生徒達に「おじさん、もうこいつらを放していいだろう?」と言われて、やっと我に返った。
結局、その日は、小春ちゃんの様子を見に行くこともできず、僕はすごすごと元来た道を引き返して帰宅した。帰宅すると、珍しく玄関に彩夏が出迎えてくれて「お父ちゃん、どうしたの?」としょんぼりした僕の顔を見て言った。僕は無言で自分の部屋に入って篭もると、彩夏はまた一人で夕飯を作ってくれたらしく、焼き魚と味噌汁が台所のテーブルの上に載っていた。僕は彩夏と居間の仏壇に手を合わせてから、台所に引き返して「いただきます」と言って食べた。彩夏がいて、本当に良かった。彩夏がいるから、なんとかやっていけてるんだと思う。