未練
カチカチとキーボードを叩く音が響く。
彼女の仕事部屋の窓からは西日が差している。
「ねえ、君って、いつもそんなに静かなの?」
「そうかもしれません」
彼女は画面から目を離すことなく答えた。
パソコンの青い光が眼鏡に反射し、彼女の冷淡さを如実に表しているようだった。
「家族とか友達はいるの?」
「家族は地元に母が一人。父親は幼いころに他界しました。友達はいないと思います」
淡々と答える。
「友達欲しいとは思わないの?」
「別に思いません」
「今僕と話していて楽しい?」
「別に楽しくはありません」
まったく動揺しない。
僕が彼女をガン見していても気にする様子はないし、どんな質問でも答えてはくれるようだ。
「ふーん」
特に他にすることもないため、僕は質問を続けた。
「じゃあ趣味は?」
「ありません」
「スポーツはする?」
「たまに会社へ自転車で向かうくらいです」
「会社の居心地は?」
「特に何も思いません」
「本は読む?」
「世界的な文豪の作品はいくつか」
「感想は?」
「特に何も思うことなく読み終えました」
本当にロボットみたいな人だ。
「怒ったことってある?」
「あるんじゃないでしょうか。ただ、それを表に出したことはないかもしれません」
「泣いたことは?」
「記憶にはありません」
「じゃあ悲鳴を上げたことは?」
「ないです」
どうにか彼女の感情を隠すこの無機質な壁を壊したい。
小説や漫画でもない限りまったく感情のない人間なんているはずはない。
彼女にも人並みに感情はあるはずだ。
「じゃあさ、君って、ドキドキすることはないの?」
「あまりないかもしれません」
「妙齢の女性として、恋愛に興味はないの? あ、その前に恋人は――」
「いません。恋愛にも特に興味はありません」
「恋をしたことも、本当に一度もないの?」
「そんなことは一度も言っていません」
「え……?」
僕は素直に驚いた。
「じゃああるの?」
「中学生の頃、同じ学校の男子にそんな感情を抱いた覚えがあります」
彼女はやはり僕の方を見ることもなければ、表情を見せることもなかった。
「へえー、どんな人? 何で好きになったの?」
「普通に優しくされたから、じゃないでしょうか。あまり覚えていませんが」
「ふーん、そういう女性っぽいところもあるんだね」
「一応女性ですから」
自分が女性である自覚はあるんだ。
「じゃあ……その……性的なことに興味は?」
「さあ……人間に本能的に備わっている分くらいはあるんじゃないでしょうか」
「そういうこと答えるの、恥ずかしくないの?」
「相手によります」
「僕は恥ずかしくないんだ」
「あなたのような方に恥ずかしがる必要はないかと」
「ぶっちゃけちょっとは恥ずかしかったでしょ?」
「さあ、どうでしょう」
何だか彼女の冷淡な表情が薄っぺらい仮面に見えてきて、僕は少なくともさっきよりは彼女に親近感を覚えた。
ふと足元に視線を向けると、足裏のフローリングの模様が見えた。
「最後にもう一つ質問していい?」
「……」
初めて彼女は僕の言葉に無言を返した。
キーボードを叩く音が止まり、思い出したように外のセミの声が耳に聞こえ始めた。
「生きていて楽しい?」
彼女は画面を見つめたまま束の間黙っていた。
「……少なくとも、死にたいとは思いません」
「それはよかった」
僕は心の底から安堵した。
「じゃあ、そろそろ行くね」
彼女は初めて僕の方に目を向けた。
そしてその潤った黒い宝石のような瞳が一瞬、大きくなった。
僕の姿が半透明になっているのにようやく気付いたようだった。
僕は西日の差す窓の方へと身体を反転させ、一歩足を踏み出した――その時。
「まっ……て」
「ん?」
僕は振り返った。
こちらを見つめる彼女の顔に、黄金色の光が斜めに当たっている。
右目は影に没していたが、夕焼けにさらされる左の目には、確かに寂しさが映っていた。
今日初めて、僕は彼女の感情を目にした。
「どうかしたの?」
「まだ……行かないでください」
伏し目がちに、消え入るような声で彼女は言った。
「ごめん……でも、もう行かないと」
「もう少しだけ、一緒にいてほしいです……また、独りになっちゃう」
悲しく沈んだ彼女の瞳を、僕は美しいとさえ感じた。
彼女は断じてロボットなどではなかった。
人として孤独を感じ、生きるために感情を押し殺していた。
感情を隠し込んでいた無機質な壁が取り払われれば、こうして涙も流す。
「君はまだ神に見捨てられてはいないよ」
吸い込まれるように、身体が窓の外に向かって移動していく。
「だから、生きて」
――僕の分も。
薄れゆく意識の中、彼女の声が聞こえた。
行かないで!
ありがとう。
最後に君と話せたおかげで、未練がなくなったような気がするよ。