エルフの神殿3
1
私はとうとう妹を取り戻した。それがこの世界に来た理由であり、ただ一つの目的だったはずだ。それなのに、なにもかも忘れて喜びに浸る、そんな気分にはなれなかった。ブランに永久の別れを告げ、そしてベルを失った。埋めようのない喪失感はどうしたって拭えそうにない。重い足を引きずるように私は祭壇から離れた。
「あなたの魔獣はとてつもないことをやってのけたみたいね」
祭壇を見つめていたトトが肩越しに言った。
「とてつもないこと?」
私は足を止めて、振り返った
「この森に澱んでいた魔精気が今はすっかり消えてしまったわ」
「ベルが王たちの亡霊を吸い込んで、エルゴス=サミュラスに沈めたんだ」
「それだけではない。すべての魔精気が力を失い消えようとしている」
彼女は私の剣を指し示した。
さっきまで燃えさかる炎のような輝きを放っていたバリャドリーの剣は鈍い色の鉄に変わっていた。もうその剣からは魔獣の気配を感じなかった。
「剣の魔獣までベルは連れていったんだ……」
トトはそうではないと言うように首を振った。
「王たちの亡霊はこの世界の魔精気に存在する意味を与えていたのよ。それが失われた今、ノーラスの魔獣たちもいずれ王を追って、このエルゴス=サミュラスの奈落へと向かうでしょう」
「魔操剣もそれを使う騎士も用済みになるわけね」
そんなものを必要としない世界になるなら、それに越したことはない。しかし、一抹の寂寥を拭い去ることはできなかった。魔操剣は何者でもなかった私を特別な存在にしてくれたのだから。
「ということは俺も失業ってわけか」
ロジャーが鼻を鳴らした。彼はぼろぼろになった盾を祭壇の上にそっと置いた。原形をとどめないほど、波打ち、削り取られ、色あせたその盾は彼の生き様そのものだ。しかし、それに別れを告げるロジャーの目は失望した男の目ではなかった。使命を果たした満足感のようなものを感じた。彼は彼になりにこの旅で何かに結着をつけたのかもしれない。
「ねえ、ロジャー、手伝ってよ」
ララノアはレオを背中に乗せようとしていた。
「まさか、背負って帰るつもりか?」
「ちょっとやそっとのことじゃ起きないんだもん。それにここに居ればまたへんなのが出てきたら困るでしょ」
たしかにララノアの言うとおりかもしれない。ウッドエルフの勘が侮りがたいのは経験済みだ。
私は美月を負ぶった。母の帰りを待ちくたびれて寝入ってしまったこの子をよく公園から背負って帰ったものだ。
——母さん、また家族が三人になったよ。
ぎこちなく白い少女を背負ったロジャーを見ながら、私はそっと呟いた。
「さて、大将。どこへ向かうつもりだ?」
ロジャーが私に尋ねた。
「大将って、私のこと?」
「他に誰がいる」
先のことはまるで考えていなかった。レオが居れば少しはましな知恵もありそうだけど、あいにく私の軍師は恋人の背で寝息を立てている。
「とりあえずは港に行こう。そこで騎士団の船を奪う」
「そいつは名案だ。しかし誰が船を操るんだ?」
「その頃にはレオも目を覚ましてるさ」
「レオに丸投げかよ」
ロジャーはあきれたように言った。
2
白い柱の回廊を抜けると、もう夜は明けていた。眩い朝の光に目を細めながら、石段の上に出たとき、私たちは眼下の光景に茫然となった。石段に続く荒れ地の斜面を騎士団の紫紺の旗が埋め尽くしている。
「お前と一緒にいれば、死ぬまで退屈することはなさそうだな」
ロジャーは軽口を叩いてみせたが、目の前の状況はけして笑えるものではなかった。
「二千ってとこかしら」
トトが群がる人馬を見渡して言った。
彼らは魔獣の王を追っていたはずだ。王はもう居ないということを彼らに伝えるべきか迷った。そうなると、ロハスを殺したことも話さなければならない。
先頭にいた痩身の騎士が馬を進めた。
襟周りに宝石を散りばめた白いマントを羽織り、剣を持った天使の前立てがついた兜を被っている。面頬で顔は見えないが、たぶん指揮官だろう。
「私はゲオルグ、聖騎士団の団長だ。お前たちを枢機卿殺害の罪で逮捕する」
騎士は大音声で呼ばわった。
「どうやら、私たちに用があるみたいね」
「それにしては大人数だな。ダークウッドに駐屯している兵士を根こそぎ連れてきたみたいだ」
ロジャーは首を捻った。
今の私たちにとってこの十分の一ですら、難しい相手だ。ロジャーも私も限界ギリギリまで魔精気を使っている。蘇生魔法を施したばかりのトトにも魔力はほとんど残っていないはずだ。もっともそんなことは相手の知ったことではないだろうけど。
しかし、彼らはどうやってロハスの死を知ったのだろう。神殿には私たちしか居なかったはずだ。
「ロハスが死んだことをなぜあんたが知っているの?」
私はゲオルグに向かって言った。
「全能の神はすべてご存じなのだ。お前たちが何をやったかをすべてな」
ゲオルグは迷うことなく答えた。
神のお告げかどうかはともかく、これだけの人数を揃えて、遠い道のりをやって来たのだ。事前に準備していたのは間違いない。しかし、なぜこのタイミングで現れたのだろう。最初から助ける気がなかったのか、それとも間に合わなかっただけなのか。
「神はロハスが魔獣化したことを教えてくれなかったの? だから私が殺した。他の者は関係ない。私ひとりを処刑するというなら、大人しく従おう。しかし、仲間に手を出せば今度は私が魔獣化して、お前たちを叩きつぶす!」
もちろんはったりだ。魔操剣も使えない私が魔獣になれるわけがない。面頬に隠れてゲオルグの表情はわからなかった。私は息をひそめて反応を待った。
「この地から、魔精気がすべて消え失せたことを私が知らぬとでも思っているのか? お前はもう魔獣化などできぬ、ただの無力な女にすぎん」
ゲオルグはあざ笑うかのように言い放った。
この男はすべて知っているのだ。神殿に手下を潜ませていたのだろうか。いやそれはない。もしそうなら、トトやララノアが気配を感じ取っていたはずだ。
ひょっとしたら、この男はロハスが私たちに殺されることを予想していたのではないだろうか。それにもかかわらず助けなかったとすると、導かれる結論は一つだ。私たちを使ってロハスを始末させた。
ではなぜ?と疑問がさらに湧き上がるが、私はもうそこで考えるのを止めた。狂信者の考えることなど、私の思考の埒外だ。踏み込んだところで、出口はみつかりそうにない。
それより生き残る術を見つけなければならない。せっかくブランやベル、ガランドが切り開いてくれた道だ。このまま易々と死ぬわけにはいかない。
「何を考えているのか知らないが、私たちの口を封じるなら、こんなたいそうな軍隊を連れて来る必要はないだろう。ゲオルグ、あんたも騎士なら私と一騎打ちしろ! それで決着をつけようじゃないか。それとも魔操剣もない女相手でも恐ろしいか?」
私は挑発するように魔獣の消えたバリャドリーの剣でゲオルグを指した。
「うぬぼれるのも大概にしろ! ここに兵を連れてきたのはお前如きを成敗するためではないわっ! この邪悪な神殿を跡形もなく破壊するためだ。そしてその跡には聖廟が建つ。聖ロハスの聖廟がな」
一瞬、彼が何を言ってるのかわからなかった。
「聖ロハスだと? あいつは魔獣に魂を売り渡した破戒坊主だぞ。冗談も大概にしろ」
ロジャーがたまらず声をあげた。しかし、ゲオルグはまるで動じる様子はない。
「枢機卿は身を犠牲にして、この地の魔を己の内にすべて取り込み、信仰の力で浄化されたのだ。私はこの秘蹟の一部始終を聖都の大教母様に報告した。いずれ列聖の沙汰が下るだろう」
ゲオルグの言葉に後ろの兵士たちから歓声が起きた。彼は馬を返すと、手を挙げてそれに応えた。
すべてベルがやったことだ。それをロハスの功績にすることで、この男はいったい何を企んでいるのだろう。
「そういうことだったのか」
ララノアの背中でレオが顔をあげた。
「あんた、目覚めていたの?」
「ええ、しばらく前に」
レオは背中から降りた。足元がふらついて、よろけそうになるのをララノアが支えた。
「そういうことって、何がわかったの?」
「この人たちのほんとうの狙いですよ。彼らはロハス枢機卿を聖人に祭り上げることで、自分たちが関わった悪行を隠蔽しよとしているんです。聖人となれば、もはや誰もロハスの不正を追求しない。しかも大陸に仕掛ける戦争もロハスの遺言となれば聖戦となる」
快刀乱麻を断つようなレオの弁舌だった。兵士たちの間に動揺が走ったのをみて、ゲオルグが叫んだ。
「こんな戯れ言に耳を貸す必要はない。こやつらは聖人を殺めた悪魔の手先だ。処刑しろ!」
兵士たちはしばらく顔を見合わせていたが、結局は槍を構えた。自分たちの騎士団長を胡散臭く思ったところで、長いものに巻かれるしかないのだ。
「あいつが悪の親玉だって事はわかったけど、この状況を脱出する手立てについては何か策はあるの?」
「今後のことを予想して、いくつか手を打ちましたが、あまりの展開の速さに事態を完全に読み誤りました。お手上げです」
さすがの高性能コンピューターもあまりの変数の多さに分析不能だったようだ。
「そう、仕方ないわね……んじゃ、破れかぶれの突撃で死中に活を求めるとするか」
今までだってそれで無謀な賭けに勝ち続けてきたんだ。馬に乗った騎士さえ倒せば兵士たちは崩れる。私は髪をほどくと、もう一度きつく縛った。
岩場から吹き抜けてくる涼風が心地よい。ロジャーも剣を抜きはなった。
「もう魔操剣はないが、俺たちは死ぬまで魔操の騎士であることを誓った。人間にとっての最後の盾であり、剣であり、そして希望だ。その誇りは消え去ることはない」
ロジャーの言葉は胸にガツンと響いた。
「ララ、援護射撃をお願い。狙うのは馬上の騎士。トトさんは美月とリンをお願い。私たちが支えきれなかったときは瞬間移動でも何でも使って、生き延びて」
「残念だけど、そんな便利な魔法はないわよ。それより、あれはラムラスじゃない?」
トトが空を見上げて言った。
菫色の空を懸命に羽ばたきながら、こちらに向かって来る大鷲、間違いない。
「ラムラス!」
そして、もちろんその背にはあのどや顔の魔導師の姿があった。
しかも、大鷲はラムラスだけではなかった。十羽、二十羽、もう数えるのももどかしいほどの大編隊だ。
大鷲たちは兵士の頭上に達すると、急降下しはじめた。
「隊列を乱すな。戦闘の準備だ!」
ゲオルグが喚く。
着地した大鷲から銀の鎧に身を包んだ王の盾の騎士たちが次々と飛び降りてきた。
「ここは教会領だ。王の盾といえども、勝手に足を踏み入れることは許されない!」
すでに展開を終え、隊列を整えた王の騎士に向かってゲオルグが怒鳴った。
馬上の騎士たちが、突撃の態勢を取ろうとしたとき、ただ一羽、上空を旋回していたラムラスがゲオルグの目の前に舞い降りた。
「私がお願いしたのです」
若い女の声だった。声の主はエミリアの背にほとんど隠れそうなくらいの小さな少女だった。粗末な木綿の修道服にスカラプリオと呼ばれる膝まで届く長い布を首から掛けている。その緋色は目に痛いほど眩しかった。
3
「小僧、お前の注文通り、連れてきたぞ」
目を丸くしているレオにエミリアが得意げに言った。
「まさか……こんなところまで来て頂けるとは思ってませんでした」
レオはその場で膝をついた。レオだけではない、その姿が露わになると、兵士たちも次々と膝を折はじめた。ラムラスから飛び降りようとする少女を王の騎士たちが慌てて手助けした。
「誰?」
私は隣のロジャーを腕をつついた。
「あの色のスカラプリオを纏えるのは地上でただひとり、大教母様だけだ」
「え? まだ子供じゃん」
騎士に抱きかかえられるようにして、ラムラスから降りた少女を見て、私は言った。
「年齢は関係ありません。大教母は神が選ぶのですから」
レオがピシャリと言った。
大教母はゲオルグの前に立った。彼は転げ落ちるように馬から降りた。
「猊下、なぜこのような場所にお運びになられたのでしょう」
さっきまで自信満々だったゲオルグの声が震えている。
「お前の悪行を知ったからです。聖都にいるお前の仲間たちがすべて告白しました」
ゲオルグは自分の背丈の半分にも満たない少女の足元にひれ伏し、頭を垂れた。
「死を与えることはしません。私はお前とその仲間の存在を今後の戒めとするつもりです。牢の中で残りの人生を祈りに捧げなさい」
ぐったりとしている聖騎士団長を王の騎士が両側から引っ立て、縄を打った。彼女はその様子を見届けると、こちらを振り返った。
頭巾からのぞく切り揃えた前髪、少したれ目の栗色の瞳。ごく普通の十二、三歳の少女だ。
「あなたが夏美さんですね」
人懐っこい笑顔にはさっきの威厳はもうない。彼女はこちらに小走りで駆け寄ってきた。いかにも危なげな足取りにハラハラしていると、案の定、小岩に脚を引っ掛けてつんのめった。驚異的な素早さで飛び出したロジャーが抱き止めて、大教母様が地面に衝突するのを防いだ。
「咄嗟のこととはいえ、ご無礼を」
ロジャーは慌ててその場に平伏した。
「私も平伏したほうがいいのかな?」
頬を紅潮させている大教母に私は訊いた。
「その必要はありません。あなたのことはエミリアさんから聞いています。私はあなたに謝罪するためにここに来たのです」と、彼女は言った。
「すべては死んだロハスやゲオルグたちがやったこと。謝罪する必要はないよ」
しかし、大教母はきっぱりと頭を振った。
「私は幼くして、大教母に選ばれました。だから、俗事のことはすべて弟子たちに任せ、自分はひたすら神に向き合ってきたのです。しかし、それではいけなかった。私が目を背けている間、弟子たちは信仰の道から外れ、恐ろしいことに手を染めていた」
彼女は懺悔するように両手を合わせて目を閉じた。
今、会ったばかりなのに彼女の真摯な人柄が伝わってくる。
「気持ちは十分受け取ったよ。神様がどうしてあんたを大教母に選んだのか知らない。でもね、あんたみたいな地位にある人が、私みたいなどこの馬の骨ともわからない女に過ちを認めて、頭を下げた。それだけでもすごいことだよ。神様の目は節穴じゃない」
「夏美さんにそう言っていただけて、胸のつかえが下りたような気がします」
少女はもう一度深々と頭を下げた。
「そうだ! バモスに集結した騎士団の艦隊はどうなったのですか?」
レオが思い出したように言った。たしかにそれはある意味、私たちの救出より大切なことだ。
「そっちにはウルスラが向かった。あの娘に任せておけば心配はあるまい」
エミリアが言った。
「相手がドラゴンでも私は一歩も退かない」、居住区に初めて姿をみせたときの、ウルスラのセリフを思い出した。そう、彼女なら聖騎士団ごときに一歩はおろか、半歩も退くことはあるまい。
「来てくれて、ありがとう」
さっきから、なかなか私と目を合わそうとしないエミリアに私は礼を言った。心の何処かで、彼女が最悪の状況のときに助けに来ると信じていた。そしてやっぱり彼女はやって来た。
「私は何もしてないよ。礼を言うなら、大教母とウルスラに言え」
不機嫌なのか、はにかんでいるのか、わからない微妙な表情でエミリアは私を見つめた。
「そうですね。あなたは何もしてませんよね」
つば広の黒い帽子を被った男が歩いてくる。
「トニアさん! あなたも来てくれたんだ」
また懐かしい顔を見つけて、涙腺が緩む。
「お久しぶりです、夏美さん。ご無事で何より」
トニアは帽子を軽く持ち上げて挨拶した。
「実際、我が大魔導師はなにもしませんでしたよね? したことといえば、大鷲が届けたレオさんの手紙を読むや否や、深夜の王宮に忍び込み、ウルスラ王女を強奪するようにして聖都に連れて行き、大教母様との謁見を拒む司教たちに向かって、聖都に火の雨を降らせるぞと脅して、謁見を実現させたくらいです。あっそうそう、各地のメイジタワーに絶対に下げたことのない頭を下げて、大鷲を借り受けたというのもありましたね」
エミリアの顔は見ている間に、真っ赤になった。
「その辺にしておけトニア。さあ、これにて一件落着だ! デカ女、王都に帰るぞ」
エミリアはラムラスの背を叩いた。




