闇の淵
1
救世主のように現れた魔導師は痩身を濃紺のマントに包み、黒い革のベストを着込んでいた。金糸のような長い髪から覗く耳は、彼女がエルフであることを示していた。王都で姉さんと一緒にいた魔導師ではない。美月に関係する者なのだろうか。
騎士が二人、女目がけて飛んだ。狭い岩の上で左右から攻められると逃げ場がない。魔操剣の放つ二つの光が一点で交差するのが見えた。眩い光がスパークする。
――まずい! やられたか。
しかし、騎士たちの斬撃は岩を叩いただけだった。
私は目を疑った。女は微動だにしていなかった。最初と同じように悠然と立っている。
――躱したのか?
だが、私の目にはそんな素振りはまるで見えなかった。
呆気にとられている騎士を尻目に女はひらりと狭い岩場の通路に舞い降りた。
わざわざ逃げ場のない場所に身を置いた女の意図を私は図りかねた。
抜刀した騎士たちが左右から襲いかかってくる。女の瞳が銀色に変化した。
次々と振り下ろされる斬撃、しかし、女は身じろぎひとつしない。
剣は彼女を恐れるかのように逸れていく。
今度ははっきりとわかった。身を躱しているのではない。信じがたいことに魔操剣の軌道を魔力でねじ曲げているのだ。騎士たちの剣は陽炎を相手にしているように空を切るばかりだ。
「何をしている! 早く娘の首を落とせ」
ロハスが不甲斐ない部下に苛ついて、怒鳴った。
美月を押さえていた騎士が我に返ったように、頭を引き起こすと白い喉笛に剣を押し当てた。しかし、刃を引く前に騎士の喉を矢が貫いた。
「レオ! 美月の体を確保して。これ以上傷つけられると、さすがにまずい」
女が鋭く言った。
「了解しました」
岩陰から黒髪の少年が飛びだしてきた。少年が美月に駆け寄ろうとするのを騎士たちが遮ろうとしたが、背後の岩の上にいたウッドエルフの弓がそれを制した。目にも止まらぬ速さで撃ち込まれる矢に騎士たちは退散するしかなかった。
突如現れた闖入者に騎士たちは浮き足だちはじめた。
「シールドウォール!」
ロハスの怒号が狭い岩場に響いた。騎士たちは弾かれたように二手に分かれると盾を構えた。
「トトさん、魔操の騎士相手に難しい注文ですが、魔力は極力抑えてください」
レオと呼ばれた少年が言った。
「魔操の騎士ですって? ここにいるのは魔操剣を持った人形に過ぎないわ。じきに終わらせる」
女は不敵な笑いを浮かべて、髪をかきあげた。
「アタァアック!」
ロハスの号令とともに、騎士たちが突進を開始した。
隙間なく並べた盾の圧力で押し切るつもりだ。魔精気が通用しないからには、物理的な力の方が効果的だ。
何しろこのエルフの魔導師は黒い革のベストと薄い羅紗のマントを羽織っているだけで、防具らしいものは身に帯びていないのだから。
しかし、エルフはまったく動ずる風ではなかった。彼女は迫り来る壁を押し広げるかのように両手を開くと、低い声で呪文を発した。
女の指先に火が灯ったかと思うと、たちまちそれは大きな火の塊になった。
女は気合とともにそれを両側に押し出した。両手から放たれた炎は荒れ狂う奔流となり、岩場の通路を満たしていく。我先に逃れようとして、折り重なるように倒れた騎士たちを炎は容赦なく呑み込んでいった。
「言ったはずよ。お前たちの骨の欠片すら残さないと」
トトはそう言うと、ロハスの方にゆっくりと歩みを進めた。
それを見たロハスは身を翻して岩場の通路を反対に走り出したが、ウッドエルフの矢はそれを見逃さなかった。続けざまに放たれた二本の矢が僧衣の背中を貫いた。もんどり打って倒れるロハス。
「見て、見て!レオ。やっつけたよ」
岩の上のウッドエルフは矢を掲げて飛び跳ねた。
「何か様子がへんだ」
少年が言った。
ロハスの体がドロドロと溶け始めた。石油のような黒い液体が地面に染みこんでいく。
「どうやら逃げられたようね」と女が言った。
「そのようです。でも追いかけている時間はありません。はやく美月さんを神殿に連れて行きましょう」
少年の言葉に肯くと、女は美月の体の傍らに膝をついた。
「誰なんだ?」
私は訊いた。
「私はトト、美月の伯母よ。あなたは王なのね。美月は無事なの?」
「意識が途切れている。呼びかけても反応しない……頼む! 美月を助けてくれ」
「もちろんよ。そのために来たのだから。神殿に急ぎましょう」
トトは美月の体を抱き上げた。
2
アーチ型の石の柱に支えられた神殿は何千年も放置されていたようにはとても見えなかった。石の表面には風化の跡さえない。神殿に続く階段は毎朝誰かが掃き清めているように塵ひとつなかった。
「この中にエルゴス=サミュラスがあるのか?」
「祭壇の奥が断崖になっているのです。よほど深いのか下の方は真っ暗で
何も見えません」
黒髪の少年が答えた。
「夏美たちを待った方がいいんじゃない?」
ウッドエルフの少女が少年に言った。
「姉さんが! いや美月の姉は今どこに?」
「ボクたちはあの洞窟を通ってここに来たんだけど、夏美たちは魔獣と戦っているんだ」
少女は神殿の脇にある崖にあいた穴を指さした。
「途中、大きな魔精気の爆発を感じたが、まさかそれと関係が……」
「それは偽の魔王のものでしょうか」と、少年が聞いた。
「わからない。しかし、並みの魔獣のものではない」
少年は不安気な面持ちでエルフの魔導師を見上げた。
「夏美のことだからきっと切り抜ける。それより時間がない。私たちはやるべきことをやりましょう」
トトは階段を上がりはじめた。
神殿の中は驚くほど簡素だった。余計な装飾品など一切なく、柱の間の空気が私たちの足音を冷たく響かせていた。
白い石の祭壇にはエルフの文字で何かが書かれている。その背後には暗幕を引いたような漆黒の闇が見えた。
トトは美月の体を祭壇の上に載せた。
「覚悟はいい?」
トトの碧い瞳が見下ろした。
「ああ、もちろんだ」
「美月に何か伝えることは?」
しばらく私は考えてみた。
「特にない」
伝えたいことは山ほどある。しかし、私のことなど一刻も早く忘れ去ることが彼女にとっての幸せに違いない。
「そう……では、始めるわ。私が美月の体を闇の淵に投ずる。あなたはそこで美月の体から離れればいい。闇があなたを永遠の眠りに引き込んでいくでしょう」
「美月は?」
「あなたが離れた頃合いを見計らって、私が彼女の肉体と魂を引き上げる」
「その……美月の傷は……元通りになるのか?」
「時間は掛かるけど、大丈夫よ。亡くした腕も再生できるはず。エルフに不具者はいない」
トトは微笑んだ。
あんなに傷ついた美月を姉さんに見せるわけにはいかない。それが気がかりだったが、もう思い残すことはない。
「やってくれ」
私は言った。
トトはエルフの言葉で、祭文を紡ぎはじめた。
透きとおった声は荘厳な調べとなり、神殿の中に満ち溢れ、共鳴しはじめた。美月の体が石の台から浮き上がる。トトはそっと体の下に腕を差し入れて淵の前に立った。
これが最後だ。もう美月にも姉さんにも逢うことはできない。覚悟が揺らぐ。
美月の喜び、悲しみ、姉さんの顔、母さんの顔、思い出がフラッシュバックして私の中を駆け巡った。
――いやだ……死にたくない。
湧き上がる生への執着と私は必死で格闘した。
魔導師が手を離すと、美月の体は闇の淵に向かってゆっくりと降下しはじめた。
――いやだ。消えたくない。私は美月を抱えたまま王となる。そうすれば二人はけして離れることはない。
死への恐怖が打ち勝とうとした瞬間、祭文を唱える声が一段と高まった。
闇の中から延びた手が私の手を取った。私の煩悶を鎮めるような暖かな手だ。その温もりは私がなぜここに来たのかを思い出させてくれた。
手に引かれるまま身を預けると、重い荷を解かれたような解放感が訪れた。
—— さようなら、美月。
まだ目を覚まさない魂に別れを告げたとき、擦れ始めた意識が異質な音を捉えた。
ウッドエルフの悲鳴。
「レオ!」
祭文が途絶え、トトの声がした。
私は薄れゆく意識を集中させて、地上に目を向けた。
黒々とした獣の爪が少年の胸を刺し貫いている。
短剣を抜いて狂ったように魔獣に躍りかかるウッドエルフ。シールドの呪文を唱えるトト。
——いったい何が起こっているのだ。
このままでは美月の魂と肉体まで闇に引きずり込まれてしまう。
私は委ねていた手を振り払おうとした。しかし、闇の手は離そうとしない。
——離せ! 離してくれ。
私は必死で抗った。
——無駄だ。お前はもう戻れない。しかし、安心しろ。俺がその娘を引き上げてやる。
何かが私に語りかけた。
——お前は誰だ?
——俺はベルセリウス。夏美の魔獣だ。




