決戦3
逆手に持った剣を女に突き立てる。それですべてが終わるはずだった。
ベルですらそう思っていたはずだ。その証拠にこの口うるさい魔獣は私に警告を与えなかった。私たちはほぼ同時に女の異変に気づいた。
体内にガスでも吹き込まれたように女の体は膨らみはじめていた。
ロジャーは巨大な風船によじ登ると、所構わず剣を突き刺した。しかし、伸縮性のあるゴムのような皮膚を突き破ることはできない。
いまにも破裂しそうな女の顔はもうすぐそこにあった。
見開かれた女の白く濁った目から赤い光が一直線に私に向かってきた。対応する暇もなく衝撃が体を貫く。呼吸が止まり、体中の細胞が木っ端微塵に砕けたような激痛が走った。
次の瞬間、ブレーカーを落とされたみたいに私の意識は途絶えた。
強く誰かに両頬を平手で叩かれて、目が覚めた。ぼやけていた焦点が合い始め一つの像を結んだ。灰色の瞳が私を見下ろしている。
「まさか……ブラン?」
「気がついたか。魂が空っぽになったのかと心配したぞ」
彼はまだ混乱している私を抱き起こした。
「でもなぜあんたがここに?」
「消し飛ぶお前の魂を俺が捕まえたのだ」
「魂? ひょっとして私は死んでる?」
「何も覚えていないのか?」
「後頭部をバットで思い切り殴られたみたいにボウッとしてるよ。ここにあんたがいるのも夢じゃないかってくらい」
ブランは私の顎を指で持ち上げると、強く唇を押し付けた。息も止まるようなキス、私の知っているブランのキスだ。紛れもなく私の愛した男の匂いであり、感触だった。
「夢じゃなかっただろ?」
別離の時間を埋め尽くすほど長いキスのあと、ようやく顔を離して、ブランは微笑んだ。
見つめられているのが恥ずかしくて、私は胸に顔を埋めた。伝わってくる心臓の鼓動、肌の温もり、つかの間の幸せだった時間がよみがえる。
「逢いたかった。すごくすごく逢いたかったよ」
幼子のように拳で胸を叩いた。
「すまなかった」
彼は私の熱ぽい耳たぶを長い指で愛撫しながら囁いた。
「でもどうして? エミリアですら捕まえられないほどあんたの魂は遠くに行ったはずなのに……」
「俺はずっとお前の中にいたんだ。大魔導師は不覚にもそれを見落としていたんだろう」
「じゃあ、ずっと私のことを見ていてくれたんだ」
不思議なのと同時に、すこし恥ずかしかった。
「何も手出しはできなかったがね。皮肉なことにお前の魂が肉体を離れたときにようやく出番が来たというわけだ」
ブランは前より伸びた髪に指を絡めた。
「でも魂が肉体から離れたのにどうして私たちはここにいるの?」
ブランは体を離すと、ぱちんと指を鳴らした。布張りの長椅子が目の前に現れた。
「手品が使えるようになったの?」
「ここではお前も手品師だ。テーブルを思い浮かべてごらん」
私は目を閉じてガラス製のテーブルをイメージしてみた。
半信半疑で目を開けてみると、そこにはさっき瞼の裏に思い浮かべた通りのテーブルがあった。
「驚いた。これってどういう仕掛け?」
「俺たちの心は物の本質を記憶している。ここではそれを具現化することができるのさ」
「もうひとつよくわからないけど、今いる私たちも心がつくり出したということ?」
「お前が死についてどんな考えを持っているのかわからないが、我々の生は必ずしも肉体を必要とするわけではないんだ」と彼は言った。
ならば私たちは幻影なのだろか。私はブランの頬に触れて、その強い無精ヒゲを撫でまわした。それはたしかに私が覚えているブランのヒゲだ。
「心配するな、俺は本物だ。ただ血や肉によって存在しているわけではない。お前の記憶が俺を形として存在させている。それはある意味、完全な生なのだ」
「完全な生?」
「そうだ。俺たちはここでは病に冒されることも、老いに怯えることもない。永遠にこのままの姿でいられる。時が二人を分かつこともない。もう誰に邪魔されることもない。俺は王太子でもなく、お前は異世界から来たじゃじゃ馬でもない。愛し合う存在として、ここで永遠に暮らすんだ」
不老不死の二人が誰に邪魔されることもなく永遠に愛しあう。ロマンチックで完全無欠だ。でも何か違う。少なくとも私はそんな暮らしに耐えられないだろう。私の直感は死の匂いを敏感に嗅ぎとった。
「そんなの生とは言わないよ。それにみんなを見捨てろというの?」
「戻ったところで何もできやしない。お前にはもう魔操剣はないのだ」
そうだ、私は肝心なことを忘れていた。
「ベルは? 私の魔獣はどこに行ったの?」
「直撃からお前を守るため身を盾にした。あれだけの大きな魔精気だ、すでに拡散して、お前の知っている魔獣ではなくなっているはずだ」
ブランは根元から折れた長剣を私に見せた。それはもう青く輝いてはいなかった。ガンで余命一ヶ月だと宣告されてもこれほどの衝撃は受けなかっただろう。
「ロジャーは? トトは? レオは? 他のみんなはどうなったの?」
ブランは落ち着かせるように私の肩に手を置いた。
「すべてはじきに終わる。彼らは死んだかもしれない。だが気に病むことはない。いずれ起こることが今日起こっただけのことなんだ。お前はやるべきことをやった。戦士としての訓練を受けたわけでもないお前がここまでたどり着けたんだ。誇りに思っていい」
「ちょっと待ってよ! いつか死ぬから、今日死んでもいいってわけ? 冗談じゃないわよ。彼らは私を信じて付いてきてくれたんだ。それに私はまだ何ひとつできていない。美月を連れ戻すとガランドに約束したんだ」
私は彼の手を払いのけた。
「それがお前の答えか?」
ブランは低く言った。彼の灰色の瞳は暗く翳っていた。
「ごめんなさい。私はまたあなたを拒絶した。もう愛する資格なんてないよね」
理由はともあれ、私はあの野営でも、引き止める彼に背を向けた。そして今度が二度目だ。
どんなに詰られても仕方ない。私はうつむいて彼の言葉を待った。しばしの沈黙の間、私は何度自分の言葉を取り消そうという誘惑に駆られたことか。
ブランは非難の言葉も失望の言葉も口にはしなかった。その代わりに私を引き寄せ強く抱きしめた。
「やはりお前はお前だ。まっすぐな気性の野生の馬。誰も乗りこなすことなどできない」
それがもっとも卑怯な言葉だと知りながら、私は「ごめんなさい」と繰り返しかなかった。
「謝ることはない。今のお前こそ俺が恋いこがれた女なのだから」
ブランの瞳にはもう翳りはなかった。
「永遠なんかじゃなくていい。またこうやって逢うことはできないのかな?」
「俺は幽体のまま長くとどまりすぎたようだ。お前がどんな女か忘れるところだったよ。俺がお前に言うべき言葉はたった一つのはずだ」
ブランは抱擁を解くと、私の両腕をしっかりと握った。
「俺の代わりにあの化け物のケツを蹴っ飛ばして、ノーラスから叩きだしてやれ」
彼が遠ざかっていくのがわかった。かつてエルフたちがそうしたように彼も自らの存在を消滅させたのだろう。
気がつくと、私は完全に空調の整った無塵のクリーンルームから、ダニが蠢き、埃の舞う地上に立っていた。不快にまとわりつく湿気すら、着慣れた服に袖を通した安心した気分になる。
「さてと、丸腰であれとどう戦おうかな」
私は徘徊する巨獣を見上げた。




