魔操剣
1
「けして騒ぐなよ。そしてこれからいうことよく聞け」
私はわかったという意思を示すため首を縦に動かした。
男はゆっくりと口を塞いでいた手を離した。
大きく息をつくと、男の顔を見る余裕ができた。
三十を少し超えたくらいだろうか。ことによると、もう少し上かもしれない。精悍な面構えだ。古代ローマの将軍のように高貴と野蛮が同居している顔だった。髪は銀色で短く刈り込んでいる。それが月の光のせいで、ときどきアメジストのような色合いに変化する。意思の強さを表す太い眉、強靭な顎に高い鼻。髪の色と同じように紫を帯びた瞳、どれもが圧倒的な存在感があった。いままで私の周りには居なかったタイプの男だ。
さっきまでの恐怖がすっと引っ込んだ。この男は野宿している私のような女をレイプするほど女には不自由していないだろう。
「ゆっくりと周りを見てみろ」
私は言われたとおり、少し体を起こすと四方に目を配った。百メートルほど先にけっこうな数の人影が見える。
「あれは何?」
「もっとよく見てみろ」
再び目を凝らしてみた。暗がりに目が慣れてきて、シルエットの正体がはっきりとしてきた。爬虫類のような緑色のヌメッとした肌と金色の瞳をした連中が手に手に武器を携えて、辺りを徘徊しているのがわかった。
「オーク?」
「そうだ。ここらはオークの縄張りなのさ。そしてお前はその縄張りのど真ん中で、高いびきをかいていたわけだ」
「いびきなんてかいてないもん!」
「しっ! 大きな声を出すなといっただろ」
あわてて口を塞いだ。
「やり過ごせそう?」
今度は声を低めて男の横顔に聞いてみる。
「まあ無理だな。どんどん数が増えてきている。そのうち気づかれる」
たしかに先ほどより、目に見えて増えている。もう今さらオーク如きに驚きはしなかったが、あれも魔獣なのだろうか。
「いったいあんなのがどこから沸いてきたの?」
「丘の反対側に森がある。そこが奴らの住処だ。夜になると森を出てここら辺りまで出張ってくる。今日はちょっと数が多すぎるがな」
男は私の方に向き直った。
「俺が合図したら、お前は逃げろ。死に神に襟首を掴まれているつもりで走れ、絶対に足を止めるな」
「あんたはどうするの?」
「お前が逃げるための時間を稼げるだけ稼ぐ。あまり長くは期待するなよ」
「そんなのだめよ。私も戦う」
傍らの剣を引き寄せた。
「俺のことは気にするな。俺は誓いを立てた身でな。果たさねばならない義務があるのだ……しかし、困ったな……このまま俺がここでくたばってしまうと、最後に逢った女はお前ということになるな……」
灰色の瞳が私を見つめる。いったいなにが困るというのだろう。
次の瞬間、男が私の頭をやにわに引き寄せた。唇が唇に押しあてられる。
――えっ?なにこれ
今まで生きてきた中で、もっとも心臓が早く鼓動を打った瞬間だった。
滑らかな感触とともに舌が差し入れられる。この男が誰で、ここが何処なんてことはみんなぶっ飛んでしまう気分だった。気がつくと、私は男に無我夢中でしがみついていた。
名残惜しそうに男は何度も私の唇を軽く吸って、ようやく顔を離した。
「運が良ければ、また逢おう」
男は剣を手に取ると、オークに向かって飛び出していった。
私は必死で走った。走りながら考えた。あれは私のファーストキスだ。
自分にいつか訪れるそのシーンを私は何度もシミュレートしてきた。
夜の公園、誰もいない浜辺、彼の部屋。スキー場のペアリフトの上なんてもあったっけ。
しかしオークのうろつく雑木林はその中になかった。おそらくそんな人間は世界で私ひとりだろう。エミリアの占いも満更、でたらめではないのかもしれない。きっと私の人生は人とはずいぶん違ったものなんだろう。
気がつくと私はもとの場所に引き返していた。
戦っている男の姿が見えた。私は木の陰に身を隠して、様子を伺った。私と同じような長い剣を使っている。彼はその剣を自在に操っていた。
軽快な音楽にあわせてダンスを踊るように、次から次と襲いかかるオークを斬り伏せていく。無駄のない流れるような動き。美しいと私は思った。
強い。しかも圧倒的な強さだ。心配になって戻ってきた自分が馬鹿みたいだった。
そのとき自分の背後に何かが迫る気配を感じた。いや気配というより酷い悪臭だ。家畜の小屋に放り込まれたような胸くその悪くなる匂いだ。
振り返るとそこには予想通りオークがいた。
私は剣を構えた。幸運なことにこいつは武器を持っていない。だから仲間から離れていたのかもしれない。デビュー戦の相手にはうってつけだ。
丸腰の相手に武器を振るうのは気が引けたが、放っておいて仲間を呼ばれたら厄介だ。
剣を構えたまま一歩踏み込むと、オークは肥満体に似合わない敏捷さでステップバックした。さらに踏み込んで剣を振り下ろすチャンスだ。
しかし、できなかった。人を殺すことは最大の罪だと私たちは刷り込まれて育ってきている。それは想像以上の頸城となって私を押しとどめた。目の前の怪物がいくら人間ではないと言い聞かせても、身体が動かない。
オークの金色に縁取られた瞳が赤く光った。くぐもった声が耳に届いた瞬間、電流にも似た衝撃が私の身体に走った。動こうとしたが、身体の自由がきかない。見えない鎖で手足を縛られているようだ。オークの目に冷たい光が浮かぶ。弱らせた獲物を前にした蛇の目だ。やっぱりこいつは退治すべき魔獣なのだ。
後悔したところで後の祭りだ。
オークは妖しい動きで手を交差しはじめた。こいつは魔法使いなのだ。エミリアの魔法で黒焦げにされて地上に落ちていった怪鳥のように、私も死ぬのだろう。
観念して目を閉じ、美月のことを思った。
――ごめん美月。お姉ちゃんにはやっぱり無理だったよ。
――お姉ちゃん、あんまり無理しないでね。別に大学なんていかなくていいから。
美月はあの愛くるしい笑顔で答える。
「くそっ、死んでたまるか!」
もう一度、妹を取り返すまで私は死なない。
「動け!」
私は叫んだ。
縛っていた鎖がはじけ飛ぶ音がして、青い光が私の身体を包み、オークの手から放たれた雷撃はすべてそれに吸収された。
オークの目に哀れみを乞う表情が浮かんだ。しかし、今度は迷わなかった。青白い光りを帯びた剣はオークの胸を刺し貫いた。
「お前、魔操剣の使い手だったのか……」
背後に白く光る剣を提げたあの男が立っていた。
2
空は白み始めていた。私たちは草むらに腰を下ろし、ぼんやりと日が昇るのを眺めていた。
男はブランドンと名乗った。
「ブランと呼んでくれたらいい」
「わかった。私は夏美」
「変わった名前だな。外国人なのか?」
どう答えるべきか迷ったが、そうだと答えた。実際、外国人であることは間違いない。
「それにしては流暢にノーラス語を話すな」
そう言われて、私ははじめてノーラス語というものを話していることを知った。口を突いて出る言葉も、耳に入ってくる言葉も日本語だったからだ。エミリアが「これで言葉には不自由しまい」といった意味がようやくわかった。魔法って意外に不便なものなんていった自分の不明を恥じた。
「こちら出身の知り合いが居て、その人に習ったのよ」
これも嘘ではない。
「ところでさっき言ってた。魔操剣ってなんなの?」
ブランは怪訝な表情で私をみた。
「知らずに持っていたのか?」
「うん。さっきいった知り合いから餞別にもらったの」
「その知り合いはとんでもなく豪儀な奴か、お前のことを余程大切に思っているかのどちらかだな」
「そんなに高価な剣なの?」
「まず売りに出されることは滅多にない。なにしろそうやたらと作れる剣ではないからな」
「どうして?」
「魔操剣は魔獣を封じ込めた剣なのさ。封じ込めた魔獣を剣の精霊として使役することができる。その魔獣が強大であればあるほど剣の効果も絶大だ。ただし、魔獣を召還し、封じ込めることができるのはかなりの魔力を持つ魔導師だけだ。それ故、魔操剣は計り知れない価値を持つ」
私があのオークの魔法を撥ね返せたのも、剣の力だったというわけだ。エミリアはとんでもない餞別をくれたらしい。
「この剣にも魔獣が棲んでいるのね」
光は消えて、もとの無骨な黒っぽい色に戻っている剣をかざしてみた。
「ああ。それも相当な高位の魔獣がな」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「高位の魔獣は固有の色を持つ。そいつは青く光っていたろ。相当名のある魔導師の手になるものだろうな。しかしまだお前ではその剣のほんとうの力は引き出せない。魔獣となる精霊が主と認めない限りはな」
「どうすれば主になれるの?」
「さあな。それは俺にもわからない」
ブランはそういうと自分の剣を愛おしそうに撫でた。