彷徨
1
卵が孵化するように、翼は背中の肉を突き破り顔をのぞかせはじめていた。
幸いここ数日は追っ手の姿はぱったりと途絶えている。エルゴス=サミュラスへ急がねばならない。
重い鉄鎖を引き摺るように私はふたたび歩き始めた。
「王が滅んだあと、その魔精気は何処にいくのだ?」
偽の魔王を倒し、当てもなく彷徨っていたとき、ガランドが尋ねた。
「依り代を失った魔精気は極めて不安定な状態になり、やがて煙のように拡散してしまう。この世界で我々が存在するためには肉体を持った心が必要なのだ。並の魔精気なら、野山に棲む獣に宿ることもできるが、王の魔精気を受け入れられる依り代はめったにいない。煙となった魔精気はやがてこのダークウッドに流れつく。ここが特別な場所なのは王の魔精気の残滓で満ちているからだ」
「では美月の肉体からお前が出ればそうなるということか?」
「そこが厄介なところなのだ。一旦、美月の外に出た私は一つの魔精気としてのまとまりを失い分裂し始める。しかし、同時にまとまりを保とうとする力も働くのだ。そして手近なところに依り代となれる肉体があればそこに吸い寄せられてしまう。つまり私は美月の中に再び入ることになる。しかし、今度は囚人としてではなく、支配者としてだ。美月の肉体を消滅させない限り、これは避けられない」
「美月の肉体でなくお前が消滅する方法があるとすれば?」
ガランドの紅蓮の瞳が光った。
「何を考えているのか知らないが、魔精気には死の概念はない。拡散するだけだ。そして依り代があれば再び一つになる」
「ところが存在そのものを消し去る手段があるのだ。エルゴス=サミュラス、死の岸辺と呼ばれる場所がそれだ。古エルフの寿命は千年を超えていた。しかも肉体が滅んだ後も幽体としてこの世界にとどまることができた。事実上の不死だ。しかし、彼らは不死であることを好ましいと考えないだけの分別があった。彼らは自分がやるべき使命を果たした悟ったとき、そこに赴き、自ら存在を終わらせたのだ」
幽体を消し去るほどの場所なら、私を消滅させることも可能かもしれない。
「だがもう一つ問題がある。私と美月は同じ胴体を共有する双子だ。私が外に出れば彼女の魂も引きずられるように肉体を離れる」
そこまで言って、私ははたと気づいた。
「なるほど、魔導師のお前ならその魂を呼び戻すことができるというわけか」
しかし、ガランドは肯かなかった。
「魔導師にも得手不得手がある。俺は蘇生の術を十分には使えないのだ。だがエミリアならできる」
姉さんと一緒に居た魔導師だ。
「美月の姉がこの世界に来ているなら、連れてきたのはあの女に違いない」
2
限界、これまで何度もそう思ったけれど、今度ばかりは間違いなく終わりだ。体に残った力を総動員したって、一歩も動けない。
潰れたまめの上にまめができ、足の裏は鉄板みたいに硬くなっていた。膝の関節はすり減り、曲げることすら困難になっていた。
崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込むと、ごつい石だらけの地面に横たわった。喉は焼けつくように渇いていたけど、飲み込むつばすら沸いてこない。
まともな食事を取ったのはウッドエルフの村が最後だ。森の中では水ばかり飲んでいた。一度、木の実を口にしたら、渋くてすぐに吐き出した。どきつい色の花にはトマトのような実がなっていたが、とても手を出す気にはなれない。
それでも水があるだけ森はましだった。岩だらけの荒れ地に入ってからは、その水すらない。ぎらつく太陽を遮る樹木もない。
それなのにわたしは荒野の先に蜃気楼のようゆらめいている丘の頂きを目指している。自分の意思とはまるで無関係に……
――でもほんとうにもう限界なの……
わたしは目を閉じた。容赦のない太陽は薄い瞼越しにも強い光で眼球の奥を焼く。思わず両手で顔を覆った。体中の血液が沸騰しているみたいに熱い。このまま蒸発してしまうんじゃないかってくらいに。
――もう、死んでもいいよね。お姉ちゃん……
目も霞み、体の痛みすら鈍感になっているのに聴覚だけはまともに機能していた。いや以前より感覚が鋭敏になっていると言うべきか。今は砂塵が風に舞う音まで聞き取ることができる。その中混じる微かな足音がわたしの鼓膜を叩いた。
ゆっくりと体を起こし、声のする方向に視線を向ける。
百メートルほど向こうに、赤い体毛に覆われた四つ足の獣が見えた。鋭い牙が二本飛び出ている。
サーベルタイガー?
図鑑でみたそれとはだいぶ色合いが違うけど、姿形は間違いなく何万年も前に滅びたそいつだった。
獲物に照準を合わせた獣はゆっくりとこちらに近づいてくる。逃げる場所などどこにもないことを知っているのだ。
「ちょうどいいわ、食べたかったらお好きにどうぞ」
わたしは四肢の力を抜いた。干からびてこのまま死ぬより、いっそこいつに食われた方が面倒がなくてよい。覚悟を決めると妙に心が落ち着いた。
五十メートル。
一歩でも動けば、あいつの脚力なら一気に縮められる距離だ。こっちにも逃げる気力はない。
十メートル、獣はその場に止まって、低くく構えた。体長はニメールくらいありそうだ。牙は遠くで見るより鋭く長い。アイドリング中のエンジンみたいな唸り声をあげ、わたしに照準を定めた。
体中の水分なんかとっくに空になったと思ったのに、背中を冷や汗が伝った。同時に失われていた恐怖感も甦った。
――やっぱり怖い……
心の中に漏らしたつぶやきに答える声がした。
――あきらめないで、戦うのよ!
あわてて振り向いたが、何もない。
向き直ったとき、目の前に獣の牙が見えた。反射的に腕でブロックする。ごっそりと肉を食いちぎられて、噴水みたいに血が噴き出した。
もはやわたしが木偶に過ぎないと分かったのか、獣はゆっくりと肉を咀嚼している。
――そいつは見かけほどは強くない。あなたの敵ではないわ。
今度は声が自分の内側から聞こえているのがはっきりとわかった。
――誰なの?
――説明は後、今は戦いに集中して!
――無理よ! それにわたしはもう死んだっていいの。
――死ぬなんて絶対にだめ! 姉さんが悲しむ。彼女はもうすぐそこまで来てるのよ。
――なぜお姉ちゃんが?
――あなたを助けるために決まっているでしょ。さあ、戦うのよ。
――戦うってどうやって?
――あなたはそれを知っている。記憶はなくても体が覚えているはずよ。
何のことだろう。しかし、質問している暇はない。獣が再びわたしに襲いかかった。
澱んでいた血流が一気に加速しはじめる。さっきまでが嘘のように体が軽い。
喉元を狙ってきた牙を半身を捻ってかわすと、首筋に手刀をお見舞いしてやった。ガクンと獣は前脚を折って、地面に落ちた。
「これであんたは終わり。更新世に戻りな」
わたしは足を高々と振り上げると、獣の脳天に踵を叩きつけた。
「やればできるじゃない」
もう一人の私が口笛を吹いた。
「でも腕を一本持っていかれた。お姉ちゃんがみたら卒倒するわね」
「じきに元通りになる。それより生き続けること。ここからは私が表に出ることはできない。自分で自分の身を守らないと」
もう一人は言った。
わたしは今、彼女のことをすべて知った。いやすでに知っていたのだ。心の奥底に注意深くしまわれた記憶が、一気に流れこんできた。
「大丈夫、わたしは死なない」
地面に頭を食い込ませ赤い墓標のようになった獣の下腹を左手で抉り、掴み出した内臓を口に入れた。
「これでまたしばらくは歩ける」




