ガランド
藁を敷き詰めたベッドの上に寝かされているのは紛れもなく、あの夜美月を連れ去った男だった。
頭部は鉈のようなものでザックリと割られ、右腕は肩の付け根をからなくなっていた。そればかりか体中に無数の刺し傷があった。せわしなく上下動する胸筋がわずかに生きていることを示している。
「あんたらはこの人の知り合いなのか?」と、アデムが訊いた。
「ある意味この男を追ってここに来たと言えるかもしれない」
私は答えた。
「もうずっとこんな様子なんだ。おばば様にお伺いを立てたら、この人は生きているというよりは、死ぬことを拒んでいるだけなのらしい。この世に強い思いを残しているから死ぬに死ねないのだろう」
アデムの話ではガランドは村に残った騎士たちをすべて倒して力尽きていたという。
「一緒にいた娘の行方を知らないか?」
私の問にアデムは申し訳けなさそうに首を振った。
「皆、逃げるのに精一杯だったからね……でも遺体を片づけたとき、あの娘のはなかった。だから妹たちのように生きているさ」
アデムは勤めて明るく言った。
「魂を呼び戻せるかもしれない。肉体の損傷が激しいから、長くは無理だろうけど」
ガランドの傍らに膝をついて、顔を覗き込んでいたトトが言った。
「体から魂が離れているの?」
「まだこの付近に留まっている。強い意志の力でね」
彼女はしばらく中空を見回した。そして両手をガランドの顔の上にかざした。
掌から薄い紫の陽炎がガランドの顔に降りそそいだ。
四半時ばかりそうしていると、ガランドの表情に変化の兆しが見えた。荒かった呼吸が落ち着き、土気色の顔に血の気が戻り、彼は瞼を開いた。
「リアナ? いや、そんなはずはない。だとすればトトか。なぜお前がここに居る?」
「あなたの娘を助けに来たのよ」
「トト、お前がこの女を連れてきたのか?」
ガランドは私に紅蓮の瞳を向けた。
「違うわ、エミリアよ。彼女が夏美をこの世界に連れてきたの」
「やはりあの女か……」
「勘違いしないで。夏美は自分の力でここまでたどり着いたのよ。妹を取り戻すためにね」
「なるほど……王の言葉に間違いはなかったようだ」
ガランドの瞳がふとやさしい光りを帯びたように見えた。
「美月はどこにいるの?」
私は尋ねた。
「わからない。しかし、今のところは無事であるはずだ。あの子には王が付いている」
「王って、魔獣の王のこと? あんたは美月から魔王を分離するために誘拐したんじゃなかったの?」
「そのつもりだった。そのために暁の使徒に近づいた。まさか使徒の幹部が教会の枢機卿だとは思わなかったがな……それでもあの子を助けるためなら悪魔と手を結ぶのも厭わなかった。しかし、そんなことは不可能だった。歳月は二人を分かちがたく結びつけていたんだ。ロハスは美月を殺しても魔王を引き離そうとした。だから俺はあの子を逃がした」
カイルが話していた騎士団の黒幕が暁の使徒のリーダーの一人でもあったわけだ。これで話の筋道はだいぶ見えてきた。ロハスは最初から教会に送り込むべく用意された暁の使徒のエージェントだったわけだ。
「ちょっと待ってください。騎士団はすでに魔獣を支配する力を手に入れてます。彼らは魔獣を使って東の大陸に攻め込もうとしているのです」
レオが急き込むように口を挟んだ。
確かに魔獣の王を抱えたままの美月を取り逃がしたのなら、騎士団はどうやって魔獣たちを支配する力を手に入れたのだろう。
「奴らは王の魔精気を利用して、偽の王を作り出したのだ。そうなれば本物は邪魔になる。奴らには完全に成体化した王を制御することはできない。そうなる前に殺すつもりだ。急げ、美月を守れ」
ベルが警戒していた王の正体はそれだ。
「私の魔獣が教えてくれた。その偽の王は今、私を追っているって」
「お前の剣の魔精気を王のものと誤認したのだろう。少しは時間を稼げるかもしれないが、羽化の兆候は始まっている。もはや逆戻りはできない。そうなれば美月の存在はこの世界から消えてしまう」
すべてベルの言った通りだ。
「防ぐ方法はないの?」
「王もそれを望んでいる。自らを犠牲にしても美月を守るつもりだ、王が向かおうとしているのはこの世と冥界の境界だ」
「まさかエルゴス=サミュラス……そんなところで何をするつもりなの?」
トトが青ざめた顔で言った。
「冥界の闇はすべてを消し去る。王はそこで自らを解き放つつもりだ」
「それで美月はどうなるの?」
「あの子の魂は肉体を離れ彷徨うことになる……しかし、なんという天の配材なのだ。トト、お前ならその魂を捕まえることができる。いや、ひょっとしてあいつはそれを予期していたのかもしれぬ」
そしてガランドは再び私に瞳を向けた。
「王はお前が妹を助けに来ることを信じていた」
「王は私のことを知っているの?」
「美月の中にいたのだ。そしてお前をずっと見ていたのだよ」
魔獣の王、それは私にとって美月を蝕む邪悪な存在でしかなかった。しかし、ガランドの語る王は自身を犠牲にして美月を助けようとし、私を知っているという。今まで私が抱いていたイメージは根底から崩れた。
思い当たる節がないわけではない。
北海道で暴れ馬を鎮めたときの美月はいつも私の背中に隠れているような内気な少女とは違って見えた。それだけではない。ときおり、美月に近寄りがたいようなオーラを感じることがあった。もしかしたら、それが美月の中の王の姿だったのかもしれない。
「そろそろ時間だ。これでもう思い残すことなくリアナのもとに行ける」
ガランドが言った。
「死ぬの?」
「ああ……美月のことはお前に託した」
「できるかな……私に」
託された責任の重さに私は急に臆病になった。
ガランドは手を伸ばすと、私の頬に触れた。そして父親のような優しい眼差しで私を見て言った。
「お前は重度のシスコンなんだろ? その腕でもう一度妹を抱きしめてやれ」
ガランドの分厚い胸板が動きを止めた。
「きっと彼はあなたに思いを伝えるため途切れそうになる命の火を灯し続けていたのね」
安らかなガランドの顔を見下ろしてトトが言った。
「彼が言っていたエルゴス=サミュラスって何なの?」
「死の岸辺と言われる場所よ。かつて私たちエルフの寿命は千年を超えていたの。でもそんなに長く生きることに心は耐えられない。だから祖先たちはそこで自分の存在を永遠に終わらせたのよ」
「それはどこにあるの?」
「地上にある場所ではないわ。この世と冥界の境界、ちょうどあの空にある裂け目のようなものね。行き方もわからない。祖先たちの伝承の大半は失われてしまったのよ」
「王はどうやってそこに行くつもりなんだろう」
「王は元は異界の住人だから、わかるのかもしれない」
万事休す、そう思ったときレオが口を開いた。
「ここから行けます。この大蛇の腹がエルゴス=サミュラスへ続く道なんですよ!」
「なんであんたがそんなことを知っているの?」
「ユグナウスです! 彼が地誌に書き留めていたのです。彼は王から命じられて地図を作る旅に出たのですが、自身にも目的があった。それがエルゴス=サミュラス、彼はそれを見つけようとしていたのです。結局、彼は大蛇の腹の中にそれがあることまでは突き止めたのですが、洞窟を見つけるまでには至らかった。しかし、僕たちは今その洞窟にいるのです」
私は黒髪の従者の顔をまじまじと見た。
「ほんとにあんたはいつも私を驚かせてくれるわね」
「お役に立てて光栄に存じます」
相変わらずのこまっしゃくれた態度にはイラッとしたが、今回は大目に見てやろう。そう思った時、剣の魔獣が囁いた。
「気をつけろ、奴だ。すぐそこまで来ている」
同じ気配を察したのか、ロジャーが盾を背負った。
一人のウッドエルフが駆け込んできて叫んだ。
「魔獣だ。魔獣が襲ってきた!」




