反乱
間一髪だった。
美月の喉を抉ろうと延びてきた毛むくじゃらの手首を、私は皮一枚の間合いで捕まえた。
ぎりぎりまで意識を表出すまいとしてきたが、ガランドも限界だろう。彼ひとりならともかく、美月を守りながらの戦いは、如何に優れた魔導師といえども厳しい。
王である私が姿を現せれば魔獣たちは手を出すことはない。
私は掴んだ手首をそのまま捻じ切った。王の身体に手を掛けたものには相応の罰を与えなければならない。
「控えよ!」
取り囲む魔獣たちに向かって私は命じた。命じながらも、彼らの様子がおかしいことに気づいた。私が発する王気に彼らはまるで服する気配がない。
耳を穿つような雄叫びとともに、猿が躍りかかってきた。残された五本の腕で私を抱え込もうとしたが、私はそれをすり抜けて、奴の目の高さまで飛び上がった。猿の目には怯えも恐れもなかった。
「なぜそんな無礼な目で私を見るのだ!お前のような下等な獣でも、私が王とわからぬはずはあるまい。身の程をわきまえよ!」
しかし、猿は怯むことなく、黄色い牙を剥き出し威嚇する。これ以上は見るに堪えない。
「死ぬがよい」
迫ってくる醜い顔に一蹴り入れた。スイカが破裂するように猿の頭は脳漿を巻き散らして破裂した。
「いったいどういうことなんだこいつらはお前の手下ではないのか?」
ガランドが包囲の輪を縮めつつある魔獣たちを見て言った。
今はもうはっきりと分かる。彼らは私の王威に服していない。いやそれどころか公然と害意を示していた。
「この者たちは操られているのです。お逃げください。私が血路を開きます」
顔を上げたティロロが懇願するように言った。彼女にそんな力が残っていないことは、消えいりそうな魔精気を見れば明らかだった。
「死ぬことは許さぬ。それより誰がこやつらを操っているというのだ? お前には私の王気を与えたはずだぞ」
「人間の男でした。しかもそいつは羽化していたのです。王都から魔獣たちを率いて、こちらに戻ったとき、そいつは現れました。その男は魔獣たちに私を殺すよう命じたのです」
あり得ないことだった。しかし、威嚇の唸りをあげている魔獣どもをみれば、紛れもない事実だ。
突如、攻撃性を帯びた魔精気の流れを感じた。とてつもなく強い魔精気だ。
首を回したが位置をつかめない。
ティロロの悲鳴が聞こえた。巨大な魔精気が彼女の胴に蛇のように巻きついている。
骨の軋む音がしたかと思う間もなく、蛇はティロロの体を真っ二に切断した。蝋燭の火のような弱々し魔精気は蛇の顎門を逃れようとしたが、瞬く間に飲み込まれてしまった。
漆黒の魔精気は蛇の姿から、人の影法師の形に変化した。やがてその姿が完全に人間の姿をとったとき、何者が魔獣たちの反乱の背後に居るのかを悟った。
美月の隣に寝かされていた大男は蝙蝠のような翼をはためかせていた。醜いものは羽化した姿も醜いらしい。
「なぜお前が羽化している?」
ガランドは狼狽していた。無理もない。王でもないものが羽化することなどあり得ない。
「この者は神の恩寵を受けたのだ」
いつの間にか、黒い僧服の男が私の前に立っていた。枢機卿と呼ばれていた男だ。気配もなく霧のように姿を現したところをみると、ただの坊主ではあるまい、魔導師なのだろう。
「お前が魔獣の王だね。いや、元と言うべきかな。会えて光栄だよ」
枢機卿はテカテカと脂切った顔を向けた。
「このまがい物を作ったのはお前たちか?いったい何が目的だ?」
「我々の崇高な使命のため魔獣を支配する力が必要なのだよ」
「崇高な使命だと?」
「邪教を打ち倒し、地上に神の王国を建設する。それが我々の宿願だ。残念ながら、今まではそれを実現する力がなかった。しかし、ようやく時は満ちた。魔獣を押し立て、異教徒を支配する」
自分の言葉に酔っているのか、目は完全に逝っている。
「魔獣はお前たちの神にとって忌むべき存在ではなかったのか?」
「神聖な目的を達成するために、邪悪なものさえ利用することを神はお許しになる」
あきれてものも言えぬとはこのことだが、目の前の男が自己陶酔しているうちに、問いただしておかねばならないことがある。
「どうせそのまがい物は過去の王の魔精気を利用したのであろう。私が全力で魔精気を開放すれば、魔獣どもはたちまち我が足下にひれ伏することになるぞ」
枢機卿はケタケタと笑いだした。
「良いのかな?そんなことをすれば、お前が大切にしている娘も死ぬことになるぞ。お前にはそれができぬことなど、とっくに分かっておるわ!王の心臓を盗みだしたのも、自らの魔精気を最小限に抑えるためであろう」
すべてこちらの動きはお見通しというわけか。
「力を使えぬ王など生かしておいても害にはならぬが、この白いネズミのように新しい王に従わぬ不埒ものが他にも現われるやもしれん。死んでもらうよ」
枢機卿の合図とともに獣たちは一斉に雄叫びをあげた。
「ガランド、逃げるぞ!」
大柄な魔導師の腰帯をつかむと、私は空に舞い上がった。
今は戦っている余裕はない。なんとしても美月を生かすことが先決だ。
素早く詠唱すると、炎の槍を地上に降らせた。落下する槍は魔獣たちを貫いていく。ただ一匹、まがい物の王が黒い翼を羽ばたかせて上ってきた。
魔精気を抑えた状態で、こいつを振り切ることは不可能だ。
黒い王はホバリングした状態から、爪を繰り出してくる。
タイミングを計って私は地上にテレポートした。まだこいつは戦いに慣れていない。
「走るぞ!」
ガランドを草の上に放り投げると、森の奥を目指した。
「羽化は大丈夫なのか?」
後ろから追うガランドが怒鳴った。
「今までは美月の持つエルフの魔力でなんとかしたが、ここから先は魔精気を使わざるを得まい」
せっかく手に入れた王の心臓を使い、抑えた羽化を再び目覚めさせるのは断腸の思いだが、背に腹はかえられない。
「追いつかれるのも時間の問題だぞ。あの黒い魔王を止める手立てはないのか?」
「手がないわけでもない。ガランド、あの魔獣どもをしばらく引きつけておくことができるか?」
「長くは無理だが、しばしの間ならできぬこともない」
私は立ち止まった。
すでに頭上に達していた黒い魔王が地上に降りた。
背後の魔獣はまだ遠い。
「行け!ガランド、大魔導士の力を見せてもらうぞ」
ガランドは一つ肯くと走り去った。
私は黒い魔王と対峙した。
見上げるような巨躯だ。燃えたぎるような魔精気の一撃を食らえば今の私では受け止めることはできない。魔精気の流れを見切る己の力を信じるしかない。
魔王は大きく息を吸い魔精気を一所に溜めると、呼気とともに一気に吐き出した。
しかし、これは見切った。予備動作が大きすぎる。地上に半径五メートルはありそうなクレーターが穿たれた。
魔王は次から次と攻撃を繰り出してきた。羽化したばかりでこれほど凄まじい魔精気を持っていることは驚異なことだ。果たしてこれを人間が制御できるのだろうかという疑問が頭をかすめる。だがまあいい。今は此奴の魔精気の乱れを待つことに集中しよう。
あちらではガランドが大地を引き裂く魔法で魔獣たちの足を止めていた。
「魔導師よ。踏ん張ってくれ」
祈るような気持ちだった。
魔獣たちが射かけた矢がガランドの肩に刺さった。目の前の地割れを維持するのに魔力を割かれ、シールドを十分に展開できないのだろう。それでもガランドは倒れなかった。すでに彼の周りはシールドを突破した矢が林立している。
もはや猶予はないのは明らかだ。こちらから仕掛けて、魔精気の乱れを誘うしかない。
私は素早く死角に回り込むと、身をかがめて一気に飛び上がった。空中で左足を支点に回転すると、右足で魔王の顔面を抉るように蹴った。
肉体の力だけを使った動きを魔王は追い切れない。猿と違い、この程度で頭を吹き飛ばせるとはもとより考えてはいない。
意図せぬ攻撃が敵の動揺、深読み、焦り、いや何でもいい、要するに集中を乱せば良かった。そして狙い通り、それまで整然と繰り返された攻撃のサイクル、魔精気の集合と拡散にわずかな狂いが生じた。
輪郭がややぼやけ、硬質な飴色の表面に濃淡が見て取れた。
息を吸い込むと、色の薄い部分に魔精気を叩き込んだ。
ズキリと背中に激痛が走る。
私の魔精気は魔王のそれに穴を開けた。
「ティロロ!今だやれ」
魔王の魔精気の中で微かに息をしていたティロロに向かって私は言った。
――これでほんとうにお別れです……
耳に届いた彼女の声が、私の目に一筋の涙をもたらした。
内部からの予期せぬ破壊に魔王の魔精気はもろくも崩れていき、煙のように消えた。
目の前の大男はもはや魂の抜けた木偶でしかなかった。
ティロロの形見の白いレイピアを握り締めると、心臓を一突きした。
「死んだのか?」
ガランドが訊いた。
主を失った魔獣たちはすでに戦意を喪失し、離散しつつあった。
「依代はな。しかし、魔精気は散り散りになっただけだ。教会が依代を一体しか用意していないなどということはあるまい……」
彼らは魔獣の王を自らの手で創りだす術を手に入れたのだ。
「この世を地獄に変えるつもりか……どうやら魔獣は人の心に住んでいるらしい」
ガランドが呟いた。
「美月は殺させはしないさ。あの子の姉がこの世界に来ている。彼女に美月を託すまでは絶対に私は死なぬ」
「無駄だ。どうやってこの世界に来たのかは知らないが、無力な人間にすぎない」
「今はそれほど無力でもないさ。それにあのシスコンは妹をもう一度自らの手で抱きしめるまでは、這ってでもここにたどり着くだろうよ」
ひとりでにこぼれた微笑をガランドは不思議そうに見ていた。




