逃亡2
ガランドは膝を折り、両手を地につき、がっくりと項垂れていた。
火傷はひどいものだった。色鮮やかだった真紅のローブは真っ黒に焼け焦げていた。その空いた穴からのぞく背中は皮膚が剥げ落ちて、赤い肉がむきだしになっている。
生きているのが不思議なくらいだ。
こんなになるまでして、なぜ彼はわたしを助けようとするのだろう。
「次の追っ手が来る。急ごう」
ガランドは立ち上がると、歩き始めた。
足取りがおぼつかない。すぐに草の根に足を取られてよろめいた。
わたしは慌てて体を支えようとしたが、重みに潰れてしまい、二人とも草の上に転んでしまった。
「くそっ!」
彼は拳で地面を叩いた。
「手当てして、少し休もう」
「だめだ、足を止めるわけにいかない」
ガランドは絞り出すような声で言った。
「そんな状態でどうやってわたしを守るのよ?それにこんなペースで歩いたって、すぐに追いつかれる。それよりどこかで休んで体力を回復する方が得策でしょ?」
しかし彼は答えず、立ち上がろうともがいた。
「わかった!もう勝手にしたらいい。こんなガンコオヤジと付き合ってられない」
さすがに向かっ腹が立って、わたしはスタスタと歩きだした。
「お前の言うとおりかもしれん」
背後で声がした。
振り返ると、彼は草の上に胡座をかいていた。腰に差していた革製の水筒を抜くと、布きれに水を含ませ傷を洗いはじめた。
「待って、わたしがやる」
わたしは彼から布切れを取り上げた。
赤く爛れた皮膚の汚れを注意深く取り除いていく。少し力が入ると肉が削げ落ちてしまいそうだった。
応急処置に使えるものがあるかもしれない。わたしは彼が持っていた布袋を開けてみた。
袋の中にはわたしの着替えがぎっしりと詰まっていた。追われる身の荷物には似つかわしくないものだ。
「高貴な娘は常に新しいものを身につけなければならない」
あきれた表情のわたしにガランドが言った。
「わたしは高貴なんかじゃないわ。そうなりたいとも思わない」
リネンのシャツを何枚か選ぶとわたしはそれを引き裂いた。
傷口を洗い、包帯を巻く間、彼は一度も声を上げなかった。きっと飛び上がるほど痛かったに違いない。その証拠に彼の固く閉じた目からは涙が溢れだしていた。
どれくらい時が過ぎたのだろう。ガランドは草の上に横たわり眠っていた。
こんなひどい火傷を負っているのに、
平静を保っていられる彼の精神力は驚嘆すべきものだった。しかし、さすがに疲れたのだろう。今は軽い寝息すら立てている。
新たな追っ手が来ると、ガランドは言ってたが、もうそんなことはどうでもよかった。
次に敵が現れたら、身を投じようとわたしは決めた。
喉の渇きを覚えて、水筒に手を伸ばしてみたが、水はほとんど残っていなかった。
逃げる途中、水が流れる音がしたのを思い出した。小川があるのかもしれない。
立ち上がりかけたわたしの肘をガランドは強く掴んだ。
「水を汲んでくるだけだよ。逃げたりしないから安心して」
ガランドは力を緩めた。
「そんなにひどい火傷なのに痛みはないの?」
彼は口を開いて見せた。舌が緑色に染まっている。
「エルフの秘薬だ。痛みを麻痺させる効果がある。ただ体はふらつくがね」
「そうかちょっと安心したよ。でも火傷の跡、残ってしまうかもしれないね。それとも魔法で治しちゃこともできるのかな」
「できないこともない。だがこれは俺の勲章だ。そのままでいい」
どうしてそんなものが勲章になるのかわからなかったが、彼の表情を見る限り、まんざら強がりというわけでもなさそうだった。
せせらぎの音を頼りにわたしは背丈より高い下生えをかき分けて進んだ。
少し地面が下りになった先に小川が流れていた。手を浸してみると冷たい。掌ですくって口に入れてみた。仄かに甘みがする。正真正銘の天然水だ。にわかに生き返った気分だ。
少し落ち着くと、さっきの梓の電話のことを思い出した。なぜ電話が繋がったのだろう。ここは疑いもなく日本が存在する場所とは違う世界だ。実際、今も圏外だ。
携帯の電波が届く仕組みってたしか基地局を通じてのはずだ。ということは近くに基地局が……いや、ないない。それは絶対にない。
わたしは即座に自分のとりとめのない考えを打ち消した。
まあいくら考えたって、わかるはずがない。そもそも魔法が飛びかい、槍を持った騎士に追いかけ回されるでたらめな世界なんだ。
電話が通じたのは梓だからだと納得するしかない。
あの子はいつだってそうなんだ。家族という殻に閉じこもっていたわたしに外の世界を拓いてくれたのは彼女だった。
理不尽な世界で起こる出来事に一々合理的な説明を求めたって、疲れるだけだ。
ただ気になるのは、通話が切れる直前に彼女が言った言葉だ。
――「美月!!夏姉も……」
普通に考えると、お姉ちゃんも心配している。そう理解すべきかもしれない。しかし、わたしは心に引っかかるものを感じた。
なぜだろう。お姉ちゃんの匂い、感触がこの世界のどこかに、手を伸ばせば届くところにあるような気がしてならないのだ。
革製の水筒を満タンにすると、わたしはガランドの元に戻った
「おかげでだいぶ楽になった。追手が来なかったのは奇跡としか言い様がない。出発しよう」
ガランドは言った。
「その前に、わたしを誘拐した目的を聞かせてほしいの。ここが何処で、あなたが誰で、さっきの人たちが何者かについても。そうでなければ、このまま一緒に行動できないよ」
ガランドは岩のように顔を強ばらせた。
太陽はもう高い木の上まで昇っていた。木漏れ日を浴びた草や木の緑が目に染みるほどだった。
ガサガサという草をかき分けてくる音が聞こえた。
怪我人とは思えない敏捷さで、わたしを背後に押しやると、ガランドは音のする方向に身構えた。
髪も肌も着ているドレスも真っ白な少女が現れたかと思うと、そのままうつ伏せに倒れてしまった。背中は獣の爪で引き裂かれたように血が滲んでいた。
助け起こそうとするわたしをガランドは押しとどめた。
「魔獣だ。囲まれている」
わたしは周囲を見渡してみた。
半人半獣というのだろうか、牛や馬、ライオンの頭をした化物がこちらに迫ってきているのが見えた。
「さっきの人たちの仲間?」
「いや違う。しかし、なぜ……王気はきえたはずなのに……」
ガランドの表情は恐怖で引き攣っていた。
耳をつんざくような奇声が聞こえた瞬間、わたしは弾き飛ばされてしまった。
雷を帯びた右手でガランドがそいつに躍りかかったが、毛むくじゃら長い手がガランドの喉を掴んで、そのまま持ち上げた。
そいつは次にゆっくりとわたしに視線を向けた。
赤い目をした猿。しかし、わたしが知っている猿とは違う。
細い胴体からは腕が六本生えていた。そして下半身は黄色と黒の縞目のある蜘蛛だった。
猿の長い手がわたしに向かって伸びてくる。その先には真っ黒な湾曲した爪がはっきりと見える。恐怖で体が強張って動けない。
――退け!
誰かが内側からわたしに呼びかける声が聞こえた。
次の瞬間、スイッチを切られたように意識が消えていった。




