逃亡
「美月!家に帰ろう」
お姉ちゃんが手を差し伸べる。わたしはその手を掴もうとするのだけれど、金縛りにあったみたいに力が入らない。
「美月……」
お姉ちゃんが呼んでいるのに、二人の距離はどんどん遠くなる。やがてその姿は幻のように霞んでいった。
夢だった。見慣れない格好をしたお姉ちゃんが、剣を持って戦っていた。お姉ちゃんはわたしを迎えに来たのだといった。
あの公園で出来事の途中からはまったく記憶が無い。あれからお姉ちゃんはどうしたんだろう。
ドアが開く音がして、ガランドが入ってきた。
彼は大きな布袋を肩から掛けていた。両手には服を持っている。
「これに着替えなさい。すぐにここを出なければならない」
ガランドは絹のワイシャツと、連れてこられたとき履いていたジーンズを手渡した。
「出るってどこに行くつもりなの?」
「それを説明している暇はないんだ」
彼が質問に答えた試しがない。
わたしは諦めて、 のろのろと立ち上がると、着替えはじめた。見られていても恥ずかしくはない。そんな気力はとうに消え失せていた。
用意ができると、ガランドは鋲を打った皮のベストを羽織らせ、幼子にするようにきちんとボタンをとめた。
「では行こう。何があってもけして離れるな」
そう言うと、彼はわたしの手を取った。
長い螺旋階段を降りて、塔の外に出た。外はすっかり夜だった。月と空を覆う満天の星のせいでそれほど暗くは感じない。月の横には獣のように大きく口を開いた赤黒い雲がいまにも月を飲み込そうだった。
塔の前庭の小道をわたしたちはゆっくりと歩いた。何事もなく、散歩でもしているような風情で。
しばらく進むと、松明を掲げた男が二人、こちらに向かってやってきた。二人は中世の騎士みたいな甲冑を着ている。
「依り代をどこへ連れて行くつもりだ」騎士の一人がガランドに言った。
「他の場所に移すことになったんだ」と、ガランドは答えた。
男は不審げにわたしとガランドを見比べた。
「そんな話は聞いていないぞ。今、確認させに行くから少し待て」
男はもう一人に目配せした。
彼が嘘を付いているのだなということはすぐにわかった。だとすれば、誰に嘘ついてるのだろう。彼の仲間だろうか。
ここに来てから、ガランド以外の人間に会ったことがない。食事を運んで来るのもガランドだし、わたしを部屋の外に連れていくのも彼だ。
それでも他に人がいることは察していた。あんな豪華な食事を毎回、彼ひとりで作っているとは思えないし、毎日取り替えられるシーツと下着を彼が洗濯しているわけはない。していたらある意味怖い。どう考えても彼はそういうタイプに見えないからだ。
仲間がいるとして、彼は裏切ろうとしているのかもしれない。
いったい何のため?
手がかりが少なすぎて、答えにたどり着けそうにない。
目の前の騎士は剣を抜き放ち、逃げれば殺すぞと無言の圧力をかけている。嘘がばれるのは時間の問題だ。
わたしはそっとガランドの様子を窺った。彼はそれに気づくと、心配するなというように、小さく頷いた。
彼が低く囁くのが聞こえた。その途端、彼の手からガラスにヒビが入ったように稲光が伸びていき、騎士の体を包んだ。
息を漏らすような声が聞こえたが、それが断末魔だった。黒こげになった騎士はそれでも体をピクピク痙攣させている
「死んだの?」
「彼らを止めるのは死だけだ。ここからはしばらくきついぞ」
ガランドは私の手を引いて走り出した。
闇の中を声が飛びかう。金属のすれる音が響く。振り返ると、塔の中から騎士たちが続々と出てくる。もう彼が仲間を裏切ったのは間違いない。
前方からバスケットボールくらいの火の玉が飛んで来るのが見えた。
「危ない!」
私は思わずしゃがんで、顔を伏せた。
だがすぐにガランドに引っ張っり上げられた。
「足を止めるな」
「だって、なんか飛んできたんだもん」
「当たりはしない」
たしかに今飛んできた火の玉は当たりはしなかった。
ぱっとオレンジの光がふたたび顔を差した。
今度は二個だ。
腰から下が溶けたソフトクリームみたいになりかけたけど、ぐっと堪えた。
火の玉は見えない壁にぶつかって花火のようにはじけた。
その刹那、ガランドはわたしの手をギュッと握った。
「ほら、大丈夫だろ」そう言っているような気がした。
「あなたって魔法使いなの?」
「大魔導士だ。私より偉大な魔導師はノーラスにはいない。いや……」
彼は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「どうしたの?」
「なんでもない」
背後から地面を駆る音とともに馬の嘶きが聞こえた。
物干し竿ほどもある槍を水平に構えた騎士が突進してくる。
「あれも魔法のスクリーンが防いでくれるの?」
「いや、あれは魔力が込められた槍だ」
十メートルくらいまで近づいたとき、ガラスを突き破る大きな音がして、騎士が目の前に躍りでた。興奮している馬を落ち着かせると、騎士は槍を構え直した。
ガランドは私を背後にやると、右手を騎士に向かって突き出した。
稲妻が騎士の体を包む。しかし、彼は身をよじっただけで、黒こげにはならなかった。
態勢を立て直した騎士はふたたび狙いをつけて槍を繰り出してきた。槍の穂先はわたしの前に立ち塞がったガランドの胸を一直線に突いてきた。
――殺される。
わたしはガランドの腰にしがみついた。
ふわりと体が浮遊する感覚を覚えた。
次の瞬間、騎士は二十メートル離れたところにいた。
――あの時と同じだ。
夜の公園で私を掠ったとき、彼はテレポートしてみせた。
あれは魔法だったんだ。
ボウッと突っ立ていたわたしにガランドが突然、覆いかぶさった。ぱっと大きく火花がはじけるのが、体の隙間から見えた。
ガランドはわたしからすぐに体を離した。背中が燃えている。
それでも彼は苦悶の表情を浮かべながら、口を動かしていた。呪文を唱えているのだ。
――なにか消せるもの……水、水はないの。
わたしは辺りを見回した。
黒いローブを着た男が腰を落とし、腕を交差させているのが見えた。
反対方向からは塔から出てきた騎士の一団が迫ってきている。
馬に乗った騎士は目の前まで来ていた。
ガランドの呪文はまだ終わりそうにない。馬に乗った騎士は今度は剣を振りかぶっていた。何の衝撃もく、近づいてきたところをみると、もうバリアはないのだろう。
騎士はガランドに向けて剣を振り下ろそうとしている。
「ガランド!」
叫ぼうとしたとき、けたたましいビートを刻んだ音楽が鳴り響いた。
驚いた馬が竿立ちになり、騎士は振り落とされた。
わたしは鳴り続けているスマホをジーンズのポケットから取り出すと、それを翳して見せた。
「これは私の使い魔よ!私が命じれば、闇に潜むドラゴンがあなた達に襲いかかる」
黒いローブの魔導師は詠唱を止めた。死を恐れぬ騎士たちも目に見えない敵の脅威に戸惑っているようだ。
わたしはゆっくりと通話ボタンを押すと、スピーカーに切り替えた。
「美月? 繋がったの? あんたいったい何処にいるのよ」
懐かしい梓の甲高い声だ。
わたしはここに来てから、日本語を話していないことに気づいた。聞いたこともない外国だ。
きっと、ガランドが魔法の力を使ってこの世界の言葉を話せるようにしたのだ。
ということは、今スマホから響く梓の声も未知の言葉に聞こえるはずだ。
「美月、お願い何か言ってよ! また逢えるよね!」
梓の声は涙声に変わっている。
「好きだよ。梓」
さようなら……わたしのたった一人の親友、家族以外で唯一心を許すことができた幼なじみ。
「美月!!夏姉も……」
雑音が梓の声をかき消した。
お姉ちゃんがなに?そう聞く前に通話は切れた。
「怯むな!神への愛を示す時だ」
騎士の一人が叫んだ。
次の瞬間、天が割れるような轟音が響いたかと思うと、いくつもの光の柱が群がる敵達めがけて襲いかかった。
「間に合ったようだ……」
詠唱を終えたガランドが膝から崩れ落ちた。




