旅立ち
とうとう私はこの世界でひとぼっちになった。自ら退路を断ったのだ。後悔なんてしていない。
ここからは自分で自分の身を守らなければならない。魔法使いはもう居ないのだ。
エミリアが放って寄こした剣に手を伸ばそうとして、屈んだ私は目を疑った。
彼女が持っていた剣は片手で持てるような細身の剣だったはずだ。しかし今目の前に転がっている剣は、それよりずっと長くて刃の幅も広い。
取り上げてみると、ずっしりと重く、剣の長さは私の胸の辺りまであった。柄の部分が普通の剣より長く、鍔が真っ直ぐ横に張り出している。全体を見るとラテン十字のような形をしていた。
おかしな魔法使いの持っていた剣だ。不思議があっても当然かもしれない。
両足を踏ん張って剣を振ってみた。ブンと鈍い音をさせて空を斬る。
悪くない。ファンタジー映画の主人公みたいだ。剣と魔法の世界だっけ。今その二つが揃ったわけだ。
私はもう一度剣を振ってみた。今度は遠心力をつけて横からなぐように。足元がふらついてバランスを崩した。
もっと練習する必要がある。ここは魔獣がらうろつく世界なのだ。手足のようにこの剣を扱えるようにならないといけない。
幸い足腰には自信があった。中学、高校とバレーボールをやっていた。
お前に必要なのはスタミナだとコーチに言われ、練習の大半をランニングに費やした。私には高さという圧倒的な武器があったからだ。
そのバレーボールも高二の時に辞めた。母が亡くなり、美月を養うため私は高校を中退した。
「お前なら全日本だって夢ではないのに、今辞めるのはもったいない」
コーチは悔しがった。
「奨学金をもらえるように手配してやる。卒業まで頑張れば実業団でプレイできるんだ。そしたら妹さんと二人で暮らしていける。考え直してみないか?」
コーチは熱心に説得してくれた。
しかしバレーボールにはもう未練はなかった。
背が高い。ただそれだけの理由で始めたバレーボールを最初からそれほど好きではなかったのかもしれない。きっとプレイを続けていても、選手としては大成しなかったと思う。私にはコンプレックスを自信に変える強さが欠けていたからだ。
しかし、今私は強くならなければならない。生き延びて美月を探すためには、もっともっとだ。
剣を肩に担ぐと私はは丘を下り始めた。
美月を捜す手がかりは何もない。元の絵すら分からないジグソーパズルを組み立てるようなものだ。
美月を掠ったガランドは彼女の父親だとエミリアはいった。だとすれば、危害を加えるような真似はすまい。少なくともその点は安心できる。彼は世界を救うという大義のために、不本意に娘を奪われたのだ。それを取り返す権利は彼にはある。私だって同じ事をするだろう。
ならエミリアが美月を探し当て、殺す可能性はどうだろう。それについては憂慮しなければならない。彼女はこの世界の住人で、魔導師だ。探す手立てはいくらでもあるだろう。ただ彼女の口ぶりからして、それがすぐに起こることはなさそうに感じた。安心できないことには変わりはないけれど。
彼女は美月の中に魔獣の王を封印した。そして母親もろとも異世界に飛ばした。滝の裏側の洞穴で私と母が見つけた美しい女の人がリアナだ。 しかしなぜ魔獣の王を封印した時点で、美月を殺さなかったのだろう。世界を救うために娘を差し出したリアナまで殺すことは良心が咎めたのだろうか。それとも別な理由があるのだろうか。
とにかく私はエミリアにもう一度会う必要がある。
ガランドなら美月から魔獣の王を引き離す事ができるとエミリアはいった。そうなれば魔獣は再び世界を破滅に追い込むのだろうか。そのとき美月はどうなるのか。
王都がどこにあるのか見当もつかないが、私はそこに行こうと決めた。
できるだけ見晴らしのよいところを選んで歩いた。魔獣に備えるためだ。
雑木林がぽつり、ぽつりとある以外は景色にアクセントを加えるものはなかった。緑の草原が見渡す限り続いている。すでに日は落ちていたが、明るい月のおかげで、歩くのには困らない。ここでも地球と同じように夜は来るらしい。
携帯を取り出して、時間を確認してみた。午後八時を回っている。
昨日までの私なら美月と夕食を終えて、テレビを見ながらくつろいでいた時間だ。
あと三十分すればパン工場に働きに行くために家を出なければならない。そろそろ憂鬱な気分に陥りはじめる時間だった。
午後八時、今の私にとって、それはどんな意味があるのだろう。あちらでもこちらでも同じように時を刻むデジタルの数字を見ながら、私は考えた。九時でも十時でも、社会の歯車から外れてしまった人間には大した意味はない。
今の私は誰からも束縛されることはない。ここにはタイムカードもなければ、支払いの請求書も回ってこない。自由だった。そして自由とは思いのほか孤独なものだった。それはきっと誰からも忘れ去られることと、同義なのかもしれない。
私は携帯を放り投げた。
すでに相当な距離を歩いている。何か口にするものが欲しかった。パンを公園に置き忘れてきたのは不覚だった。
スタジャンのポケットを探ってみるとレモンのタブレットにハッカ味ののど飴があった。少しは腹の足しになるだろう。
王都が何処にあるのか見当もつかなかった。そこに行ってどうなるのかもわからない。しかし、もう余計なことを考えるには疲れすぎていた。
「眠ろう」
少し休めばまた歩けば良い。
私は雑木林の方に向かって歩いた。眠るなら目立たない場所が良い。
背を預けるのに適当な木を見つけると、そこにもたれかかった。
空気が澄んだところでは星は見違えるほど輝いているというが、本当だった。私はオリオン座を探してみた。見分けの付く星座はそれしかなかった。しかしそれらしいものはどこにもなかった。
ごろりと横になると、時空の裂け目が見えた。そうだ、あの日もこの不思議な渦巻きは空に浮かんでいたのだ。
美月を産むと、リアナは息を引き取った。彼女がどんな思いを抱きながら、死んでいったのか知る術はない。
異郷の地に娘を置いて、一人逝かねばならないことを無念に思っていたのだろうか、それとも世界を救えたことに安心して、安らかに逝ったのだろうか。多分両方だろう。人の心はそれほど単純ではない。
――母と私は生まれたばかりの美月を連れて外に出た。
すでに空は白み始めていた。灰色の空に青い月がまだ残っていた。
「みつき、美月がいいわ。美しいお月様と書くの」
母がいった。
「夏美、あなたはお姉さんになるのよ。また家族が三人になったんだわ」
私は「みつき」と白い息とともに呟いてみた。
それから、母はもう立ち止まることはしなかった。生きるためのゼンマイがまた巻かれたのだ。街に下りると、住み込みの仕事を探して回った。
どこに行っても断られた。無理もない。幼子と赤ん坊を連れた若い娘を雇ってくれるようなところはない。それでも母はくじけなかった。そしてようやくたどり着いたのが、夫婦二人で経営している小さい町工場だった。
求人募集の貼り紙をみて深夜に飛び込んできた親子連れに旦那さんは驚いた。
「寒いから中に入りなさい」そう言って、私たちを中に入れてくれた。狭い工場の中には機械が所狭しと置かれていた。
「見ての通り、ここは若い娘さん向きの職場じゃないんだ。重いものを持たなければならないし、怪我だってしょっちゅうだ。見てごらん」
旦那さんは手を広げてみせた。指の第一関節から先がなくなっていた。
「機械に挟まれて切断したんだ」
「指なんてなくなっても構いません。お願いです。働かせてください」
母は必死で頼み込んだ。
「でもあんた、子供はどうするんだい? 」
「それなら私が面倒を見るよ。ねえあんたこんな小さな子供を連れて仕事を探しているんだ。余程の事情があってのことだよ。雇ってあげなよ」
それまで黙っていた奥さんが頼んでくれた。
身体が圧迫される息苦しさを感じて目が覚めた。誰かが私に覆い被さっている。声をあげようとすると、大きく無骨な手が口を塞いだ。
「静かにしろ」
男の声が低くいった。
今までこんなに近くで男の匂いを嗅いだことはない。その恐怖が私を萎縮させた。レイプされる。咄嗟にそう思った。