幽閉
無駄に広いベッドにごろりと仰向けに寝転ぶと、わたしは携帯を取りだした。
だいたいこの部屋にあるものは無駄に大きかったり、無駄に豪華だったり、無駄に立派すぎたりするものばかりだ。毎回だされる食事だって、ひとりじゃ到底食べきれないくらいの品数が出る。いくら味が良くたって、ひとりで食べる食事はおいしくない。
わたしはここで四日間も無為にすごしているのだ。することは何もない。テレビもなければ本もない。話す相手すらいないのだ。できることはこうやって携帯を眺めるくらいだ。ここは圏外だからネットも繋がらない。だから、お姉ちゃんの写真を見たり、かわしたメールを読むことだけが慰めだ。
いつもぶっきらぼうなお姉ちゃんの返信。それが無性に懐かしくて、お姉ちゃんの口調がそのまま聞こえてきそうに思えた。
いきなり電子音が鳴って、携帯を顔の上に落としそうになった。タスクスケジューラのアプリがアラームで今日の予定を報せたのだ。
十二月三日土曜日、梓たちとショッピングの約束をしていた日だ。冬休みにスノボに着ていくアウターを買いに行くはずだった。
スノボに誘われたとき、最初は断った。
わたし一人が学校に通わせてもらっているだけでも申し訳ないのに、余計な出費を頼むなんてとんでもない話だ。
それに冬休みを利用して、わたしはある計画を用意していた。
今年のクリスマスには高価な贈り物でお姉ちゃんを驚かしてやろうと思ったのだ。
よく似合っているとはいえお姉ちゃんのスタジャンはだいぶくたびれている。あたらしいものを買いなよといっても、これが一番気楽でいいんだよと笑う。せっかくの日本人離れしたスタイルがもったいないと常々思っていた。
そんなとき、たまたまネットで、これだ!というアイテムを見つけた。背の高いお姉ちゃんにピッタリのグレーのチェスターコート。恥ずかしがるかもしれないけど、レザーのミニスカートを合わせれば……想像するだけで脳汁が溢れだしてくる。
贈るならこれだと思った。といってもわたしが買えるような値段ではない。だったら働くしかない。わたしは駅前のケーキ屋さんにアルバイトを申し込んだ。
それなのに梓が家に遊びにきたとき、またぞろスノボの話をもちだした。
「なぜ言わなかったんだ? そういうことはちゃんと私に話してと言ってあるでしょ」
怖い顔でお姉ちゃんが睨んだ。
「行きたくなかったから、話さなかっただけだよ」
わたしは横を向いた。
「だめだよ、そういうの。高校生活の思い出なることなんだから、ちゃんと参加しないと」
お姉ちゃんの言葉に勢いづけられて、梓も声をあわせる。
「夏姉もこう言ってるんだし、参加しなよ。美月が来ないから、男子の欠席組が増えて、幹事としてはピンチなのよ」
男子という言葉に、お姉ちゃんの片眉がぴくりと上がった。
「男も参加するのか!」
「いやいや、大丈夫ですって! この私が美月には指一本触れさせません! だいいちうちのクラスの男どもに美月にちょっかい掛ける度胸のある奴なんざ一人も居ませんから。遠目で高嶺の花を拝んでるのがせいぜいな連中ですよ」
梓は思わず首をすくめた。
「二人ともいい加減にして。わたしは、お姉ちゃんにももっと楽しんでほしいの。お姉ちゃん、服だってぜんぜん持ってないでしょ。洗いざらしのジーンズとよれよれのトレーナーばっかり着て、それなのに着せ替え人形みたいにわたしの服なら喜んで買う。わたしの学費を稼ぐために朝から晩まで働いて、楽しみなんてひとつもないじゃない」
感情をぶつけるようにわたしは怒鳴ってしまった。
さっきまでの怖いお姉ちゃんの顔がみるみる情けない表情に変わったのをみて、わたしはひどく後悔した。でもそれがわたしの本音であることは変わらない。
「ごめんね。お姉ちゃんが頼りないから、美月によけいな気を遣わせていたんだね。でもお姉ちゃん、働くことがつらいなんて思ったことはぜんぜんないよ。美月が笑顔でいてくれるのが一番の幸せなんだ。どんなに疲れているときだって、あんたの顔見たら吹き飛んでしまう。母さんだってきっと同じ思いで働いていたんだと思う」
油まみれの細い母の肩を思い出した。母さんも今のお姉ちゃんのように子供のためになりふり構わず働いていた。でもお姉ちゃんは姉であって、母親ではない。
「どうして、そんなに一人で苦労を背負い込むの? わたしが妹だから? 姉妹なのにそんなの不公平じゃない」
「母さんが死んだ今、あの人との約束を果たせるのは私だけだから……」
お姉ちゃんはポツリと独り言のようにいった。
「あの人って誰?」
そう聞こうと思ったとき、梓が大粒の涙を流しながらおいおい泣き始めたものだから、結局そのときは聞けずじまいに終わった。
お姉ちゃんがいった「あの人」とは誰のことなんだろう。わたしの父親だろうか?
わたしたち姉妹は父親が違う。お姉ちゃんの父親は彼女が四才のときに亡くなった。お墓もあれば仏壇もある。数は少ないけどアルバムには写真もちゃんと残っている。しかし、わたしの父親の痕跡になるようなものは家になにひとつなかった。だから漠然とどこかで生きているのだろうなと思っていた。
一度だけ母に父の事を尋ねたことがある。母は「おまえが成人したときに話してあげる」とだけ言った。
母の複雑な表情をみて、わたしは二度とそのことを訊かなかった。それに訊く必要もなかった。わたしにとって肉親は母と姉だけで十分だったからだ。
頑丈な扉の錠前が外される音がして、あの男が入ってきた。わたしを誘拐した男だ。
「リアナ、準備をしなさい」
男は言った。
「何度言えばわかるの? わたしはリアナじゃない。あなたは人違いしているのよ」
男の瞳にかなしみの色が浮かぶ。
わたしは仕方なくベッドから降りた。いくら言っても無駄なのだ。
男はわたしに絹のガウンを羽織らせた。
一日、一度男はわたしを迎えに来る。どこに行き、何をされるのかはわたしにはわからない。彼がわたしを眠らせるからだ。
それでも不思議と恐怖は感じなかった。この男は頭はおかしいけれど、危害をくわえることはないという確信があった。この人がわたしを見つめる眼差しには、どこか母と姉のそれと同じ暖かみを感じたからかもしれない。
男はわたしの両肩にそっと手を置いた。そして灰色の瞳でわたしの目を覗き込む。その刹那、すとんと体の力が抜けてわたしは深い眠りに落ちていった。




