彷徨
この章より美月編です。ここからはしばらく美月視点で物語は進みます。
見たこともない奇妙な木だった。何年経てばこんなに大きく育つのだろう。百年、いや千年か。
ジャックとまめの木の豆の木みたいに天にも届きそうな高さだ。幹の太さだって一度社長さんに連れて行ってもらった銀座の中華料理屋の丸テーブルより大きい。
そんな大木がそれこそ延々と見渡す限り続いている。ガランドと一緒だったときは周りに気を配る余裕なんてなかったけど、あらためて注意して見回すと、カラフルな下生えがびっしと生い茂っていた。スイカみたいな実をつけた植物はわたしが横になって寝られるくらいの真っ赤な花を咲かせている。
あの姉妹は無事に逃げられたのだろうか。せめて彼女たちだけでも助かってほしかった。わたしとガランドが村に立ち寄らなければあんなことにならなかった。それを思うと申し訳なさでいっぱいになる。
「人様に迷惑をかけちゃだめだよ」
母さんの口癖が思いだされて、胸がチクリと痛んだ。いや、もうこれは迷惑なんてレベルの話じゃない。あの様子だと、村の人の大半は騎士たちの手にかかり死んだに違いない。
何故あのときわたしは自分の身を差しださなかったのだろう。騎士の狙いはわたしだったのだから。
「ここからはお前一人で行きなさい」
ガランドが言い残して、小屋の外に大声で意味不明な言葉を喚きながら飛び出したあと、わたしは夢中で逃げた。もうこんなことはくさん、早く楽になりたいと心の中で念じていたはずなのに、生存本能は足を止めることを許さなかった。途中、何度か騎士と出くわしたけど、うまくやり過ごしたらしい。らしいというのはその間の記憶がまるでないのだ。あまりにも必死だったから覚えていない?いやちがう。こちらの世界に来てからというものどうも記憶に抜け落ちがあるのだ。ページの落ちた本を読んでいるように前後のつじつまが合わない。
ガランドだってそうだ。彼がいったい何者で、何のためにわたしをこの世界に連れて来たのかまるで意味がわからなかった。そしてそのガランドも居なくなった。きっと死んだのだろう。
わたしのそばからまた誰かが消えた。
母さんが亡くなった夜、二つ並んだ布団をみて「川の字が二の字になっちゃったね」と、わたしはつぶやいた。それまで、わたしたちはずっと三人並んで眠っていた。真ん中に私、そして右手に母さん、左手はお姉ちゃん。
友達の前で一度、その話をしたらみんな目を丸くしていたっけ。
「親と話をすることなんかめったにないな。ご飯食べたらすぐに自分の部屋に引っ込んじゃうし」
梓が言うと、周りにいた友達もウンウンと肯き、口々に自分がどれだけ親兄弟と疎遠かという話で盛り上がりはじめた。
「ほら、うちは2DKだから、個室なんてないんだよ」
自分がきっかけになって話がとんでもない方向に広がったのが恥ずかしくて、慌てて釈明した。
でもほんとはうれしくてついひとりでに微笑が溢れてしまったのを梓に見られて、「美月んちって、ホント仲いいよね。それにさ、お母さんだって若くてきれいだし、夏姉はスーパーモデルばりのかっこよさ。美月はイノセントエンジェルときたもんだ。美人三人姉妹だよね。ああ、うらやましいぜ。ちくしょう!」なんて言うものだから、そのときのわたしはきっと茹でタコみたいになっていたと思う。
それでも家族を褒められるのは悪い気はしない。いつまでも親離れ、姉離れをしないと、当の本人たちからも呆れられてはいるけど、好きなものは好きなんだからしょうがない。三人でお出かけしたときは、これがわたしの家族なんだって通りを行く人に大声で自慢したいくらいだ。
一度、母さんが広いお家に移ろうかと話したことがあった。あれはわたしが中学三年になったばかりの頃だったと思う。
「美月も受験だし、一人部屋があった方が勉強も捗ると思ってね。それで社長に家を探してもらっておいたのだけど、それがこの間、見つかったというから、昼休みに車で連れて行ってもらったのさ」
母さんは上機嫌だった。
「築三十年で多少くたびれているけど、庭付きの一軒家だよ。部屋が三つあるし、おまけにリビングまであるんだ。壁紙を貼り替えて、畳を入れ替えたら新築気分だと社長も言ってた。母さん、わるくないと思うんだけどね」
わたしは不安になってお姉ちゃんのほうを見た。
お姉ちゃんはまんざらでもないって顔で母さんの話を聞いていたけど、わたしに気づくと、「学校も近いし、いまのままでいいや」と、言ってくれた。
母さんはちょっと面食らったようだったけど、こちらに向き直り、「美月はどうなんだい?」と訊いた。
「わたしもいまのお家でいい!だって、部屋が別々になったら一緒に寝られないでしょ」
母さんはあきれたようにわたしの顔をしばらくみつめていた。
「来年は高校生になるのに困った子だね」
そんなことを言う母さんの表情はちょっとだけ幸せそうだった。
母さんが亡くなったのはそれからしばらくしてのことだ。
お葬式を終えて、文化アパートに帰り着き、お姉ちゃんが布団を二つ並べて敷いた。わたしが母さんの布団も敷こうとすると、お姉ちゃんはそれを止めて、「これからは私が美月を守ってあげる。だからなにも心配しなくていい」と、抱きしめてくれた。
川の字が一本ずつ抜けていき、とうとうひとりぼっちになってしまった。これからわたしはどうなるのだろう。
お姉ちゃん、逢いたいよ。助けてよ。
意識がどんどんぼやけていき、お姉ちゃんの顔までぼやけていき、まるで泥沼に引きずり込まれるように眠りに落ちていくのを感じた。
2
攻撃性を帯びた気配がアンテナに引っかかった。混濁した美月の意識を押しのけて、私は自分のそれを表出させた。体を起こして集中を高める。鎧のこすれる音、草を踏む長靴の足音、……五人か。
しつこい連中だ。奴らを始末するくらいは片手をあげるだけで十分だ。しかし、魔力は極力使いたくない。背中の鈍痛が羽化が近いことを教えている。それだけは絶対に避けなければならない。
私は頭上にある枝に飛び上がった。
一息つくまもなく炎の塊が襲ってくる。生身のガランドとちがい、やわな火で私を焼くことはできないことはこれまでの戦いでわかっているはずなのに、魔導師というのはまるで学習しない連中らしい。しかし攻撃に反応するたびに背中がズキンと痛む。こんなことですら羽化を促進するのだ。
枝から枝に飛び移り脱出を図る。突然の闖入者に極彩色の鳥たちがけたたましい叫びをあげて、飛び散っていく。
距離はかなりとれたはずだ。地上に降りて、下生えの中に身を横たえて。蛇口を絞るように魔精気を抑える。
姉さん……今、何処にいるの?きっとまだこの世界だよね。姉さんが私を置いて元の世界に帰るわけはない。
姉さん……美月の心の片隅で身じろぎもせず、息を潜めていた私があなたをそう呼ぶようになったのはいつのことだろう。あなたが妹に注ぐ愛情は、地底の奥底で震えている私まで暖めてくれた。
王都で姉さんを見たときは驚いたよ。
ティロロの目を通して映し出されたあなたは、鎖帷子に身を包み大きな剣を持っていた。いったいなにがあったの?どうやってここに来たの?
でもそんな疑問は吹き飛んで、すぐにでも駆けよりやさしい腕に飛び込んでいきたかった。自分の中にそんな感情があることが不思議だった。美月のあなたに寄せる愛、信頼、憧憬をいつのまにか私は共有していた。
だから、姉さんには帰って欲しかった。この世界はあなたが居る場所ではないのだから……そして、私は誓った。美月だけはなんとしてもあなたの元に帰そうと。
低い獣の唸りが私の思考を遮った。
黒い犬の影が下生えの間からすがたをのぞかせた。微かな魔精気の痕跡を追ってきたらしい。
犬の背後には二十人の聖騎士が控えていた。この狂戦士たちは腕をもがれて、目を潰されても戦うことを止めない。敵が与える痛みはすべて彼らの法悦なのだ。こいつらを止めるのは死しかない。
私は立ち上がった。
騎士たちの目が光り、私を取り囲んだ。一斉に抜き放った剣が強い太陽の光に反射する。
神に捧げる感謝の言葉を口にしながら、彼らは包囲の輪を縮めた。
私の右手がすっと上がる。
「あの世でお前たちの神の唄でも聴いてくるが良い」
私の魔精気を体内に送り込まれた騎士たちは金縛りにあったようにその場で動きを止めた。
全身の血が逆流し、内臓を強い力で押し潰され、体中の穴という穴から鮮血を吹き出しながら息絶えていく。
断末魔の叫びを後にしながら、私は歩きはじめた。
白い翼の一端が卵の殻を破るように皮膚を突き破るのを感じながら。




