秘密
大鷲は小高い丘の上に舞い降りた。
「ラムラス、ごくろうさま」
私はうずくまって翼を休めている大鷲の頭を撫でてやった。この子の頑張りがなければ、今頃あのモンスターたちの餌になっていた。
「この世界の鷲ってみんなこんなに大きいの?」
私は占い師を振り返った。
「ラムラスは魔獣だ」
占い師はいった。
「マジュウ?」
「異界から魔法で召喚された獣だ。さっきのヴィーブルのようにな」
「さっきのみたいなのはわかるけど、こんなおとなしいラムラスも魔獣だなんて……」
「魔獣は召還した魔導師をマスターとして仕える。ちょうど雛鳥が初めて見たものを親と思うようにな。しかし魔獣の中には人に馴れぬものもいる。そんなときは魔力の力によってねじ伏せなければならない。だが未熟者ほど己の手に余る獣を召還し、その果てに殺される。そうして残った魔獣が野山に棲み人を襲う」
「酷い話だ。でもなぜそんな危険な魔法が許されているの?」
「許されてはいないさ。教会によって禁じられてる。今居る魔獣たちは昔、魔導師どもが召還したものの子孫なのさ。もっとも今でも禁を破るものは跡を絶たないがな。いずれにせよ魔獣はこの世界の災厄だ。もうわかったと思うが、ここはお前が居るべき場所ではないのだ。元の世界に帰るが良い。ラムラスが送り届けるだろう」
この女の言うとおりだ。私にはあんな化け物から身を守る術などなにもない。一人になればたちどころに殺されてしまうかもしれない。しかし、私は美月のいない世界に戻る気など毛頭なかった。
「あんたは見かけと違って好い人だと思う。親切で言ってくれているのもわかってる……でもね。私は美月を連れ戻すまでは帰らないよ」
「あの娘はもうお前が知っているような少女ではないんだ」
占い師は憐れむような目で私を見た。
「どういう意味?」
「人には知らない方が良いこともたくさんある。妹との美しい思い出だけを持って、帰りなさい。傷や痛みもいずれは消える」
「勝手なことを言わないでよ!美月は私のたったひとりの家族なの。生きているとわかってるものを、死んだなんて思えるわけないでしょ。お願いだから教えて。あの男はなぜ美月を連れ去り、あんたはなぜ妹を殺そうとしているのか?」
占い師は私の顔をじっと見つめた。碧い瞳に吸い込まれそうになり、思わず目をそらしそうになった。でも踏みとどまった。彼女は私の覚悟を試しているんだ。私は細い目を精一杯見開いて見返した。占い師は仕方ないとでも言いたげに一つ溜息をついた。
「あの娘は魔獣の王なのだ。正確に言うと魔獣の王をその胎内に宿している」
正直いって言葉が見つからなかった。占い師は私の混乱などお構いなしに話を続けた。
「さっき魔獣は魔導師が異界から召還したものだと話しただろ。普通の魔獣なら野生化したところで、人間の力でなんとか対応可能だ。しかし、とんでもない大物が釣れてしまうことがある。そうなると厄介なことになる。退治には数千もの兵士が必要になる。その間に村や町が焼かれ、多くの人が命や家を失うのだ。しかしそれとて、人の世をたまに襲う天災と思えば思えなくもない。真に恐ろしいのは魔獣の王なのだ」
占い師はそこまで言うと、丘の下を指差した。
見渡す限り平原が続いている。
「かつてここには大きな町があった。今はもう痕跡すら残っていない。魔獣の王が破壊したんだ。魔獣の王は普通の魔獣とは違う。それ自体、強大な力を持つが、他の魔獣を支配することができる。一度、降臨すれば他の魔獣どもを従えて、あらゆるものを破壊してまわり、文明そのものが滅亡の脅威にさらされる。我々の世界はそんな悪夢を長い歴史の中で何度か体験した。そして最後の魔獣の王の降臨が十七年前のことだった」
心臓が激しく脈打っているのがわかった。十七年前、私と母は美月と出会った。きっとそのことと繋がりがあるのだろう。私は生唾を飲み込んだ。
「私たちはこの場所で、雲霞のごとく押し寄せる魔獣の軍を迎えうった。絶望的な戦いだったが、たった一つだけ状況を覆す方法があった。私と師はそれをエルフの古書の中に見つけた。無垢なる魂の器に魔獣の王を封印するという秘術だ。問題は器となる無垢なる魂だった。それは要するにまだ母親の胎内にいる赤子のことだ。町の中で身籠もっている女を集め、師は問うた。『この中で、世界を救うために赤子を差し出してくれる者は居らぬか』と。もちろん応えるものなど居なかった。無理矢理にでも選ぶしかないなと思ったとき、一人の女が進み出た。リアナ、ガランドの妻だ」
「じゃあ、あの男が美月をリアナと呼んでいたのは……」
「もはや妻と娘の区別も付かなくなっていたのだろう。前線で戦っていたガランドはその事実を知り、私たちが封印の儀式を行っている場に押しかけてきた。師はガランドを引き留めるために戦い殺された。私は儀式を終えると、リアナを異世界へ飛ばしたのだ。それから先はお前の知っての通りだ。私はリアナの行方を捜すために石を持たせた。だが死んでいたとはわからなかった。しかし石があの娘に反応するとはな……」
「ガランドって何者なの?」
「我が師、ソロンの高弟であり、私の兄弟子だ。あの男なら封印を解き、魔獣の王とあの娘を分離することができるかもしれない……だからあの男に見つかった時点で殺すしかなかったのだ」
美月があの夜、あの場所に居た理由。そしてその背負った宿命。私は今、それを知った。どれも私の手に負えるものではない。しかし、私の決意は少しも揺らがなかった。
どんなことをしても美月を連れ戻す。そりゃ殺されるかもしれないけど、おめおめと生きて戻って、美月の居ない人生を送るなんて真っ平だ。
私は占い師のほうを見た。
「私には自分の運命を自分自身で切り開く力がある。そう言ったよね。私は美月を探す。どんなことをしても」
「あきれた奴だ。だがそういうと思ったよ。勝手にするが良い」
占い師はいきなり私の肩を抱き寄せた。甘い香りがした。
濡れそぼった唇が私の頬をかすめる。(別れの口づけ?まさか私に股間をまさぐられてへんな趣味に目覚めた?)
私は腕から逃れようと身を引いたが、占い師は強い力でそれを阻止する。
「じっとしてろ」占い師は低い声でいった。
豊かな胸が押しつけられる。私は早鐘のように心臓が鼓動を打っているのを気づかれそうで、どうにかなってしまいそうだった。
女は構わず私の耳元に唇を寄せると、吐息を吹き込むようになにかを囁いた。それは聞いたこともない言葉だったが、脳髄の隅々まで染み渡っていくようだった。
「これで言葉には不自由しまい」
占い師は私を突き放すと、背を向け大鷲の方に歩を進めた。
「何をしたの?」
「餞別だ」持っていた剣を放って寄越した。
「それから私はエミリアだ。占い師ではない。大魔道師だ。運がよければ王都で会おう」
「なあ……まだ美月を殺すつもりなのか?」
私は去って行く背中に問うた。
「一応な。だが次にあったときは私が殺されるかもしれない」
占い師、いやエミリアは大鷲に跨がると、空に舞い上がった。