旅の仲間2
「そんなに似ているかしら?」
翡翠色の瞳に見つめられて、私は息苦しさに思わず後ずさりしてしまった。
彼女がリアナでないことはわかっていた。月の女神はあの日、あの洞窟で銀色の砂になったのだ。だとしたら目の前のエルフは誰なんだろう。
「似ていて当然だ。トトはリアナの双子の姉だからな」
戸惑っている私にエミリアが言った。
「でも、彼女に会ったのは十七年前のことよ」
目の前のトトはどう見たって二十歳そこそこにしか見えない。髪の艶、肌の張り具合、澄み切った瞳の色合い、どれも若作りで誤魔化せるものではない。
「エルフは人間と違って、ほとんど老化しないのさ。まったくうらやまし限りだ」
エミリアは肩をすくめた。
「そう? あなただってそんなに昔と変わらないわよ。少し目尻の皺が目立つ程度には歳を取ったみたいだけど」
トトは可笑しそうに言った。そして感情の極まったような表情で私を抱き寄せた。
「あなたが夏美ね。会いたかったわ……リアナの最期を看取ってくれてありがとう」
前からの知り合いのような温かい抱擁だった。
「ねえ、誰なの?」
傍らにいた栗色の髪の少年がトトの袖を引いた。
「お客様がいらしたと、お姉ちゃんたちに伝えてきて」
トトは少年のウェーブのかかった栗色の髪を撫でた。
「お子さんですか?」
「ええ、他にも二人いるのよ。あの子は末っ子なの」
トトは愛おしそうに戸口に向かってヨタヨタと駈けていく息子を見ながら言った。
「美月のこともご存じなのでしょうか?」
「もちろんよ。あなたがここに何をしに来たのかもね。さあ、話は後回し。パイが冷えないうちに食べましょう」
トトは私の手を取ると、家の方に誘った。
キッチンはレストランの厨房くらいの広さがあった。大人二人が横になれるくらいの調理台。石で組み上げた背の高いオーブン。家族のための料理を作るにしては立派すぎる。
併設されたダイニングには十人が一度に食事を取れるほどのマホガニーのテーブルがあった。
その上には、さっきから嫌と言うほど私の鼻腔と胃袋を刺激しているレモンパイが鎮座していた。キツネ色にこんがりと焼き上がったパイ地にふんわりとしたクリームが網がけしてある。甘酸っぱいレモンの香りに、目が細くなる。
トトの二人の娘が私とエミリアのために椅子を引いてくれた。
どちらも美月と同じ年頃のハイティーンの可愛い少女だ。一分の隙もなトトの美しさと違い、ほっとさせられるような親しみを感じる。
トトがパイを切り分けてくれ、私に勧めてくれた。
さっぱりとしたほどよい甘さ、サクサクとしたパイ地の歯触り。ため息が出るほどの見事の味だ。
「満足してもらえたかしら?」
まるで彼氏に初めて料理を食べてもらったような不安気な顔でトトが尋ねた。
「ええ、とっても美味しかったです。久しぶりに日本のことを思い出しました」
お世辞ではなかった。食事にはうるさい方ではないが、甘い物には目がない。普段は出不精なくせに、雑誌やテレビで紹介されたスイーツのお店には美月と二人でこまめに足を運んだ。私の数少ない贅沢の一つだ。
「そう言ってもらえて安心したわ。なにせ本場の人に食べてもらうのは初めてだったから」
「本場の人? そういえばノーラスではこんなお菓子を見たことがありません」
王宮では果物はふんだんに出されたけれど、洋菓子類は一度も見かけなかった。せいぜい硬く焼いたパンに蜂蜜をかけて食べる程度で、私は甘い物に飢えていた。スイーツなんてものはこの世界にはないのだと諦めていた。
「ノーラスでは砂糖は貴重品なの。まあそれ以前に需要もないんだけどね。ケーキはおろか、クッキーやビスケットのようなものすらないのよ。だから、材料は自前ですべて調達しなければならない。この農園にはサトウキビもあれば、牛も鶏も飼っているわ」
トトは少し自慢気に言った。
「じゃあ、レシピはエミリアから?」
トトは頭を振った。
「夫から習ったのよ。彼はあなたと同じ世界から来たの」
「トトはこの味に惹かれて人間の男の女房になったのさ」とエミリアが言った。
「誤解を招くような言い方はやめてよ。たしかに菓子に惹かれたのはほんとうだけど、それは切っ掛けよ。私を置いて先に逝ってしまった以外、アルは申し分ない夫だったわ」
「亡くなられたのですか?」
「ええ、二年前にね。でもあの人は私にこの農園と山のようなお菓子のレシピ、それに子供たちを残してくれたのよ」
私以外にも異世界からこの世界に来た人がいることは、ティレルから聞いて知っていた。そのとき私はきっと彼らは望郷の想いに身を焦がしながら、孤独のうちに死んでいったのだろうと漠然と思っていた。しかし、エルフの女性と恋に落ち、結婚して子供まで設けた人がいる。そんな人生があることに正直驚いた。私は俄然興味を持った。
「良かったら、馴れそめを教えてくれませんか?」
「つまらない話よ。それでもいい?」
もちろんと私は肯いた。
トトはハーブティーを一口飲むと、語り始めた。
「今から二十年ほど前の話、当時の私は辺境の魔獣を狩る放浪の騎士たちと行動をともにしていたの。下品で粗野なところもあったけれど、根は気の良い若者たちだったわ。魔獣退治で名をあげようと、みんなギラギラした目をしていた」
私はローランやロジャー、バリャドリーのことを思い出した。彼らもそんな男たちの一人だったのだろう。
「アルに出会ったのは、北の山脈の麓にある雪深い町の近くだった。出会ったというより、見つけたというべきかな。彼は半分雪の中に埋もれていたのよ。仲間はもう助からないと言ったけど、私はまだ彼を蘇生できると思ったから、町の宿に連れて帰ったわ」
トトはまだまだ幽界を彷徨っていた彼の魂を捕まえることに成功した。目覚めたとはいえ、かなり衰弱していたので放っておくわけにもいかず、トトはしばらくのあいだ、男の面倒を見ることにした。
次第に元気さを取り戻した男はアルバートと名乗った。パリに住むイタリア人で、パティシエをしているのだと言った。ハンサムとは言い難いが、愛嬌のある顔立ちをしている青年だった。
美女の次にフットボールに目がなかった彼は、ワールドカップドイツ大会で母国イタリアがジュール・リメのトロフィーを掲げた夜、仲間たちとしこたま酔っぱらった。セーヌ川にかかるグルネル橋に差し掛かったとき、見えない力が彼の身体を宙に引っ張り上げた。彼はそのまま天空にいつの間にか現れた大きな渦に呑み込まれてしまった。
気がついたときには彼は雪山にいた。自分がどうしてそんなところに居るのか、さっぱりわからなかったが、とにかく彼は人里を目指して歩いた。そのうちに精も根も尽き果てて、雪の中に倒れた。
「きっと腕の悪い魔道師に魔獣と間違って召還されてしまったのね」
トトはいたずらっぽく笑った。
彼女は今彼が居る世界は、元の世界と別な時空に存在するのだということを、丁寧に説明してやった。そして、彼が居た世界の時空が特定できれば、戻してあげることも可能だけど、残念なことに自分にはそれを知る術がないのだと話した。
最初は混乱した様子だったが、アルバートはトトの説明を受け入れた。そして自分が未知の世界で一人で生きていかなくてはならないことも納得した。
別れに際して、トトは当分の間、困らないだけのお金をアルバートに与えた。命を救って貰った上にお金まで貰い、アルバートは感激した。
「何かお礼をしたいと思うのだけど、生憎自分は菓子作りしか能がない。ついてはあなたのために何か作りたい」と申し出た。彼は町に出てトトからもらったお金で菓子作りに使えそうな食材を買いあさり、宿屋のオーブンを借りて、シフォンケーキを作ってくれた。
「まるで魔法でもかかっているような美味しさだったわ。人間社会での暮らしは性に合っていたけど、食べ物だけは受け付けなかった。エルフは生のままの食材を好むのよ。だから調理された料理は臭いからしてだめだったわ。でも彼が作った菓子は全然違ったの。工芸品のような見た目の美しさ、上品な香り、口に入れたときの蕩けるよう甘さ。食べ物一つでこんなに幸せになれるんだって初めて知ったのよ!」
しかし、アルバートはそんなトトを哀れむような目で見た。
「それは代用品の材料で作ったまがい物です。できるだけ似せて作ったけど、やっぱりだめだ。あなたに本物を食べてもらいたかったのに残念です……」
彼は肩を落とした。
それを聞いて、トトは自分の人生を決定づける言葉を発した。
「だったら、本物のお菓子を食べさせてよ!」
「でも、ここには菓子作りに必要な材料が何もないのです。卵も砂糖も……小麦粉ですら僕の知っているものとは違う」
「砂糖については聞いたことがあるわ。小麦も場所によっては種類が色々ある。卵はなんの卵があればいいの?」
トトは夢中で彼を質問攻めにした。
「それから私たちは菓子作りの材料を求めて、世界中を旅したのよ。サトウキビを手に入れるために、大鷲で南海の島に命がけで渡ったこともある。東の大陸にある紅い砂漠を越えて、ようやく手に入れたニワトリを死なせてしまったときには二人で夜通し泣いたこともある」
苦労の末に、二人はこの場所に農園を開いた。小麦を育て、果物を植え、牛と鶏を飼った。何から何まで一から始めるのはたいへんな苦労だった。
アルバートがようやく納得のいく菓子ができあがったとき、二人の間には娘が生まれていた。
エミリアと再会したのはその頃だった。エミリアはアルバートの話を聞き、それが地球のフランスで、ワールカップの決勝が行われた日なら特定は可能だ。そして自分がその時間の地球に飛んで、彼を召還すれば帰ることができるかもしれないと言った。
しかし、アルバートは首を振った。
「僕の帰る場所はここなんですよ。トトと娘がいるこの家こそが僕の故郷なんです」
結局、彼はそのままこの世界に留まり、さらに二人の子供に恵まれて亡くなった。
「私の話はこれで終わり。アルはあの子たちが、やがて結婚して子供を生み、孫たちと自分の焼いたパイを食べることを楽しみにしていたのよ。だからあんなに大きなテーブルを作ったりして……」
トトはかいがいしく後片付けをしている二人の娘をみつめた。
この人がエミリアの言う魔導師ならば、この子たちを置いていくつもりなんだろうか。そんなことを絶対にさせてはいけないと私は思った。
「レイ、エマ。後片付けは私がやっておくから、今夜は早めに寝なさい」
二人の娘は母親の頬にキスすると、きちんと私にも挨拶をして部屋を出た。
「あなたもよ。トーマス」
トトは膝の上の息子に微笑んだ。
「明日出発することに決めたわ」
子供たちの姿を見送ると、トトは言った。
「自分で頼んでおいて、言うのもなんだが、ほんとうにいいのか? 私はてっきりアルが元気でいるものだと思っていた」
エミリアが申し訳なさそうに言った。
「レイはもう立派な大人よ。エマだってもうひとり立ちしても良い年頃。二人の姉がトーマスの面倒を見てくれる。それにエミリア、あなたがこちらに残ってくれるんだもの。だから何も心配はしていないわ」
トトはきっぱりと言った。
確かに二人の娘は私なんかよりよっぽどしっかりしているようだった。あの二人なら弟の面倒をみて、立派にやっていくだろう。でもやはりそれは違うと私は思った。
「トトさん、お気持ちはありがたいですが、やっぱり同行は頼めません。ダークウッドに行けば死ぬかも知れないんですよ。家族は離ればなれになるべきじゃない。私も母子家庭に育ったから、わかるんです。母が私たちを残して、どんな気持で亡くなったのか……」
次第に涙が込み上げてきた。
病院のベッドで母は亡くなる前、私と美月をの手を取り、「お前たちはこの世でたった二人きりの姉妹なんだ。どんなことがあっても離れちゃいけないよ」と言った。それは彼女が残したたった一つの遺言で、心残りだったのだと思う。
「そうね。あなたの言うとおり、家族は離ればなれになるべきじゃないわ。だから、その家族を取り返しに行くんじゃなくって?」
「でも……それは私の問題であって、トトさんを巻き込むような話ではない」
「思い出してちょうだい。あなたの妹は私の姪でもあるのよ」
トトは私の頬を伝う涙を人差し指ですくい取った。
「でも……美月はもう私に探しに来ないでと言ったんです。それに美月は髪の色も目の色も変わちゃって、まるで別の存在みたいになっていて……ほんとうは自分でもなぜダークウッドに行くのかわからないんです。行ってそこで何がしたいのかもわからない。私の気持ちがそんなあやふやなままなのに……」
「髪の色が変わろうと、目の色が違っていたって、あなたは一目見て、それが妹だとわかったのでしょ? 物事はもっと単純に考えなさい。そんな暗い森に妹を置いておけない。理由なんてそれで十分。四の五の言うなら、ひっぱたいてでも、連れて帰ればいいの」
気持がすっと軽くなった。
「それにこれは私が決着つけなければならないことなのよ」
「決着?」
私は問い返した。
「ソロンは私の父なの」と、トトは言った。




