妨害
1
出航は三日後に決まった。
その日は海の女神シラスの祝祭日で、験を担ぐ船乗りたちにとって絶好の船出日よりだった。
旅の準備は万端整い、集まった傭兵たちはそれぞれ街中の宿で待機している。食料や必要な物資も船に積み込まれた。
ウルスラは約束通り、資金を用意してくれた。彼女は王族の子女に支給される化粧料の一部を返済に回すことを条件に、渋る王室の財務官から金を借りてくれた。足りない分は手持ちの宝石を売って埋めてくれたらしい。
金を取りに行ったとき、ウルスラはそんなことはおくびにも出さなかったが、帰る道すがらヨシュアがこっそり教えてくれた。
彼は念願叶って、ウルスラの馬の世話係の職を得た。
「ウルスラ様は気晴らしによく遠乗りをされるのですよ。ちょっと気を抜くとすぐに置いて行かれるので、追いついていくのがたいへんなのです」
初めてできた親友と別れるのは辛かった。それでもウルスラの話をするとき、これ以上はないという笑顔で語るヨシュアをみて、心の荷が少し軽くなった。彼が孤高な王女の良き相談者になってくれることを私は切に願った。
あとは船出を待つだけだった。出発を前にレストンが送別の宴を開いてくれることになった。
港近くの通りは男たちの発する熱気でむせ返っていた。会場となる酒場はいくつもの買春宿が軒を並べている一画にあった。こんな場所をわざわざ選んだのは、今日の宴が船乗りたちの慰労も兼ねているからだ。
長い禁欲生活を前にして、女を抱かせるのは雇い主の義務らしい。全く男の生理というものは理解不能だ。
値踏みするように私を見つめる男たちを前にして、ララノアを同行させなかったのは正解だと思った。
ダークウッドに彼女を連れて行くことについては、レオと一悶着あった。ようやく彼を説得したばかりだ。男たちの卑猥な視線にあの愛らしいウッドエルフが晒されるのをみたら、確実にキレるだろう。
レストンは船長のドレッドと船の主だつ者を紹介してくれた。どの男も精悍な面構えをしていて心強い。航海中は彼らにすべてを託すしかないのだ。
「あんたが噂の女騎士だな。実物にお目にかかれて光栄だ」
山羊鬚をエールの泡で飾ったドレッドがいかつい手を差し出した。
「がっかりさせていなけば良いのだけど」
私は適当な愛想笑いを浮かべると、いつまでも離そうとしないドレッドの手をようやく振りほどきテーブルに着いた。
「むさ苦しいところで申しわけないな。ほんとうならもっと落ち着いたところで、じっくり飲み明かしたかったのだがな。レオが節約と煩いのだ」
老騎士の言葉にレオはムッとした表情で、
「当然ですよ。魔操剣使いへの支払いがあんなにかかったのは誤算でした。何しろ契約のたびに高い飲み代まで付いてくる……」
と、不平をこぼした。
「これだから子供は困る。お前にとっては、これから戦場で命を預け合う仲間となる相手なのだ。美酒と美女で迎えるのが大人の礼儀というものだぞ」
何かにつけて飲みに繋がるのはあっちの世界もこちらの世界も同じらしい。
「明日に思いを残さぬよう今宵は飲んで旅の門出を祝おうではないか」
レストンはゴブレットに黄金色の泡立つ酒をなみなみと注いだ。酸味が強く仄かに甘い。一気に飲み干すと、別の男が目の前に飛んできて、空のゴブレットをすかさず満たした。
「気をつけろ!これが船乗りたちの流儀だ。腰が砕けるまで吞まされちまうぞ」
レストンが豪快に笑い飛ばした。
樽のように太った酒場の亭主が一抱えもある笊をテーブルの上に置いた。笊いっぱいの真っ赤に茹で上がった大ぶりの赤い海老が白い湯気を吹き上げている。辛子の利いたマスタードソースをたっぷりかけて食べるのが、ザルン流の食べ方だ。
私たちはひたすら食べ、そして飲み、語らった。
「もう少し若ければ俺も一緒に行きたいところだが、さすがに歳には勝てん」
速いピッチで杯を重ねていたレストンがいささか怪しい呂律でポツリと漏らした。
「怪我の具合が良くないの?」
「いや、そっちの方は良くなってきている。ただなんというか気力の問題なのさ。若い頃は一晩眠れば、朝には生まれたてのような気分になれたものだ。それがどうだ、今じゃ目覚める度に墓場に一歩づつ近づいているようで、気が滅入る」
ぐいっと杯を煽るレストンがローランにダブって見えた。使いこなされたなめし革のような独特の味わいが表情に漂う。枯れた男の色気とでも言うのだろうか、私はつい見とれてしまった。
友達が父親の加齢臭について不満をこぼしているのを聞きながら、私は少しうらやましい気になったものだ。私はその匂いがそんなに嫌いではなかった。満員の電車で中年男性に囲まれると、ついこれが父親の匂いなんだと想像してしまう。少し薄くなった油っぽいつむじを見下ろしていると、知らないうちに動悸が早くなるのだ。
それをファザコンと呼ぶなら、きっとそうなんだろう。
「ローランとは戦友だと言ってたよね。若い頃の彼はどんな感じだったの?」
「エルデン川の戦いの時、同じ陣に居た。ほとんど話したことはなかったが、物静かな男だったな。ひとたび剣を取れば勇敢で、賢い戦い方をする男だった。戦場ではもっとも頼りになる種類の男さ」
「彼はあなたのことをとても尊敬していた。自分はアマイモンを前に怯んでしまったけど、レストンは躊躇うことなく斬りこんだ、真の戦士だってね」
「レオから聞いたよ。あいつはそのことをずっと気に病んでいたそうだな。白状すると、素面じゃあんな真似はとてもできなかったさ。これが最後の出撃ってとき、陣にはまだ酒が余っていた。娑婆じゃ吞み納めだろうと思い樽ごと空けてしまったというわけさ」
「ローランがそれを知らなくて良かったわ」
多分、知っていても彼が目の前の飲んだくれを真の戦士と呼ぶのは間違いない。
宴もたけなわだった。すでに床にのびている姿もちらほろ見かける。誰かがだみ声で歌い始めると、それに合わせて船乗りたちも歌い始めた。口にするのも恥ずかしい歌詞だ。
私もかなり飲んだと思う。少しだけその恥ずかしい歌詞を口ずさんでいた。
その男が扉を押し開けて入ってくるまでは、旅の門出にはふさわしい馬鹿騒ぎだった。
「アジスさん、来てくれたのですね」
レオが駆け寄った男はレストンの隠れ家で見かける泥棒の元締めだった。
傭兵を集めをレオは彼に依頼したらしい。
「坊や、悪い報せだ。教会がダークウッド周辺を禁教区に指定した」
「どういうことです?」
「そこに足を踏み入れた者は例外なく異端と見做される。つまりダークウッドには行けないということだ」
「そんなばかな! 出港の準備はもう終わっているのですよ」
「運が悪かったと諦めるしかない」
アジスは肩をすくめた。
馬鹿騒ぎしていた船乗りたちも、杯を止めてこちらを注目している。その間をかき分けて、船長のドレッドが進み出た。表情がこれから彼が何を言おうとしているのか、すでに物語っていた。
「そいつがほんとうなら、この話はなかったことにしてもらうぜ。俺たちにも親も居れば、女房子供もある。異端になるのはごめんだ。悪く思わんでくれよ」
ドレッドが促すと、船乗りたちは杯を置いて戸口に向かった。
レストンはテーブルの上のラム酒の瓶を引っつかむと、茫然と立ち尽くしているレオの胸に押しつけた。
「しこたま飲めばいいさ。次の手を考えるのはそのあとだ」
2
十八人の小人が頭の中でダンスしているみたいな気分だ。二日酔いになるのはいつ以来だろう。
鎧戸の隙間から差し込む光が舞い散る埃を浮き立たせている。薄暗い店内には宴の名残が散乱していた。
膝の上では酔いつぶれたレオが軽い寝息をたてている。彼がラム酒の瓶をラッパ飲みしはじめたとき、私は止めはしなかった。自責の念に押しつぶされる前に、理性を吹っ飛ばすものが今のレオには必要だったからだ。
「お目覚めかな?」
カウンターに腰掛けたアジスが手に持った杯を軽く持ち上げた。
「レストンは?」
「さっき店を出て行った」
「それであんたはどうしてまだ?」
「いくら吞んでも酔うことはない。それなら吞む必要もないんだが、ときには無駄に時間を過ごしたいときもある。酒はそういうときのアリバイにもってこいなのさ」
怖い男だと思った。細身の躰は研ぎ澄まされた刃物のような冷たさを漂わせている。切れ長の目も、薄い唇も、長い指先も、暗殺者のナイフのように、鋭く尖っている。きっと人だって何人も殺しているのだろう。
「ところで、お金はどれくらい返ってくるのかしら?」
「船に払った手付けは返ってこない。禁教区の指定は天災みたいなものだ。あちらの落ち度じゃない。傭兵に払った支度金もだ。戻ってくるのは使った金の三分の一ってとこかな」
アジスはゴブレットを蜘蛛の足のような指先で弄びながら言った。
「知ってたんでしょ?」
「何をかな?」
「教会のお触れのことよ。聖騎士団がダークウッドに向かったとレストンに教えたでしょ。そんなことを知っているあんたなら、今回のことだって何か掴んでいたはずよ」
「ただの男勝りのお嬢さんかと思っていたが、なかなか鋭いじゃないか。確かに噂は耳にしていたさ。だが裏付けは取れなかった」
アジスは少し笑いながら答えた。
「でも、レオに教えなかったのはフェアじゃないわ」
「俺は坊やに傭兵を集めてくれと頼まれた。もちろん手数料をもらってだ。確証もない噂を依頼主の耳に入れて、儲けをふいにするほどお人好しじゃない」
「レオはあなたを信頼していたのよ」
「俺がガキ相手に商売することはまずない。それでも話に乗ったのは、こいつの利口さと胆力が気に入ったからだ。実際、この子はよくやったさ……ただ俺一人に情報を頼りすぎた。もっと耳を働かせるべきだった。信頼するってことは相手の立場も理解するということだ。それがわかれば物事はもっとシンプルになる」
アジスはそう言うと、ぐいっと酒を一口飲んだ。
「高い授業料だったというわけね」
「賢い人間は払った分だけのことは学ぶ。いずれこいつは俺のような男を使いこなすときが来るかもしれん。口の中に砂を押し込まれたような経験も無駄にはならんさ」
アジスは私の膝の上のレオを見た。少しだけ感情のようなものが、その視線に感じられた。
「そうね。この子は実際たいしたもんだ。何度も救われた……むしろ私が疫病神なのよ」
「そうなのか?」
「やることなすこと、みんな裏目に出る」
「俺にはそうは見えないがな……自分は一歩も動かず、人の世話と懐で船を仕立て、傭兵を集めた。そんなことは誰にでもできるわけじゃない」
アジスは皮肉な視線を向けた。
「でも結局、失敗したじゃない」
「それであんたの腹が痛んだわけじゃないだろ。損を被ったのは王女様だ。あんたは妹をさらわれたそうだが、そんな奴はこの国はごまんと居る。俺は親の顔も知らないし、兄弟が居たかどうかも知らない。気がつけば自由都市の奴隷市場に並んでいた。奴隷船に乗せられて海を渡れば、仮に親兄弟が生きていたとしても、一生会うことはないだろう。大抵の奴はそこであきらめる。たまに涙で枕を濡らすことはあっても、いずれ忘れる……だが、あんたは今でも妹を追い続けている」
「三ヶ月も歩いて、大地峡を越えるほどの情熱がまだ私にあるかどうか自信はないけどね」
「あんたの意思など実はたいして関係ないのさ。どう転んだところで、あんたはそこに向かう。それがあんたとその他大勢の違いだ……ご馳走になったな」
意味ありげにアジスは微笑むと、カウンターにゴブレットを置いた。
彼はいったい何を言いたかったのだろう。今の私は頭痛と格闘するのが精一杯で、それを考える余裕はない。とりあえず眠ることだ。
留守番をしているララノアが今頃、心配していることだろう。
「起きな!そろそろ帰るよ」
レオの肩を叩いたとき、建て付けの悪い扉が軋む音がした。
レストンが戻って来たのだろうか。
差し込む朝陽に目を細めて、戸口に立つ黒いシルエットを見た。
その正体が露わになるにつれ、全身の血が逆流しはじめた。
「貴様、何しに来た!」
傍らの剣を引き寄せた。飛び起きたレオが何事かという表情で私を見たあと、入口の男に気づいた。
「カイル…ハイデン?」
ホッケーマスクの男はゆっくりと歩みを進めた。




