白い爪
1
「トロイの木馬ってどういうこと? ちゃんと説明して」
外出をする支度をしているエミリアに向かって私は言った。魔道士というのは下準備に時間がかかるらしい。衣装戸棚の中には何種類もの指輪やネックレス、杖などがきちんと収められていた。
「文字通りの意味だ。まさかその故事を知らぬのではないだろうな?」
エミリアは片眉をあげて私を見た。
もちろん知っていた。トロイア戦争でトロイアを攻めあぐねたアテネが用いた策略だ。世界史の授業で習ったことがある。
「それと今度の話がどう関係があるのよ?」
「ブランドンの胸に刺さったレイピアは魔獣の王の爪で作られたものなのだ」
「ちょっと待って、魔獣の王はもうそんなに成長してるの?」
私は驚いた。最終形態にまで成長した王は王都の壁すら圧するほどの大きさになるという。しかし、ホルスの話ではそこに至るまでは二つの段階を経なければならないはずだ。
「いや、そうじゃない。それは過去に倒された魔獣の王の遺体から取られたものだろう」とエミリアは言った。
「その爪がトロイの木馬というわけ?」
「ティロロの異名をベルセリウスから聞いているだろ?」
「白い呪術師」私は答えた。
「そうだ。王の身体の一部はそれ自体が強力な呪術の触媒となるのさ。レイピアにはティロロの呪術がかかっている。そいつが王宮の中で発動する前になんとかせねばならん」
エミリアはずらりと並んだ杖の中から螺鈿の飾りの付いた柄を手に取った。
「でもティロロの狙いはブランの命じゃなかったの?」
「ほんとうは王都を内部から破壊することが目的だったのではないでしょうか?」とレオが言った。
しかし、エミリアはどちらも正しくないというように頭を振った。
「我が師、ソロンは宮廷魔導師として王宮で暮らした経験がある。師の話しによれば、王宮の地下には過去に倒された魔獣の王の遺体が保管されているというのだ。今回の爪のように一部流出したものもあるが、ほぼ完全な王の死体がそこにある。おそらくティロロが必要とするものがそこにあるのだろう」
「それを手に入れて何をしようとしているの? 」
「どうもガランドは王をお前の妹から分離するのに手間取っているようなんだ。私はガランドを追ってダークウッドに向かったが、その時にはまだ王が降臨した気配はなかった。封印の解き方さえわかっていれば、ガランドならそれほど時間はかからないはずだ。今回の狙いはそれに関係があるのかもしれん」
「つまり、王の死体の一部が分離のために必要だということでしょうか?」とレオが訊いた。
「手間取っている原因が何なのか、監視を続けたかったが、途中で思わぬ邪魔が入ってあきらめざるを得なかった……」
どんな邪魔が入ったのか聞きたかったが、エミリアはもう議論は打ち切りだというように、黒いつば広の帽子を被った。
2
すでに夜も更け往来に人の姿はなかった。魔獣が襲った昨日の今頃は人で溢れかえっていたのが嘘のようだった。街の要所に設けられた関も今は開け放たれている。私たちは夜の街を駆け抜けた。
王宮前の広場に着いたとき、すでに異変は起こっていた。紫色の霧が宮殿全体を覆っている。
堀にかかった橋を大勢が渡ってくるのが見えた。宮廷に仕える侍女や使用人たちだ。
「ちっ、遅かったか」エミリアは言い捨てると、橋に向かって駆け出した。
狭い橋を人の流れに逆らって進むうちに、サラを見つけた。よほど慌てていたのだろう、彼女は薄い寝巻きのままだった。
「何があったの?」呼び止めると、彼女は目を丸くして私の顔を見た。
「魔獣よ! 魔獣が王宮の中に突然現れたの」サラはヒステリックに叫んだ。
どうやらエミリアの予想は的中したらしい。
「ウルスラはどこ?」
「王女様は私たちに逃げるように命じたあと、ご自身は王宮の中に留まっておられるわ。あなた強いんでしょ! ウルスラ様をお救いして」
サラはボロボロと涙を流しながら訴えた。
やがて門からの人の流れがさらに加速すると、サラはそれに押し流されるように離れていった。
ようようのことで私たちは門に辿り着いた。
警護の衛兵の姿はどこにも見当たらない。二重の堀を備え、いくつもの堅牢な鉄の門扉に守られた要塞のような王宮といえども、内部からの攻撃は想定されていない。
がらんとした門は王宮の混乱を物語っていた。
三つ目の門を抜けたところにある中庭には、三体の氷のゴーレムが暴れていた。王宮の守備兵たちがその周りに群がっていたが、三メートルを超える巨体には剣も槍も歯が立っている様子はなかった。「邪魔だ、離れろ!」エミリアは兵士たちに向かって怒鳴った。
彼女は杖を両手で持つと、口の中で短い呪文を唱えた。
一体のゴーレムを炎が包む。ゴーレムは炎から逃れようと、巨体を揺すって辺りを走り回っていたが、その体は見る間に溶けていった。
兵士たちが歓声を上げる。エミリアはさらに呪文を唱え、たちまち残りのゴーレムを溶かしてしまった。
「三体一遍はやはり無理か……」
エミリアは悔しそうに言った。
彼女はトニアを蘇生させるためにかなりの魔力を消費したばかりだが、さすが大魔導士の名は伊達ではない。
肩で荒い息をしている魔道師を見ながら、ふとある疑念が私の中に芽生えた。
あの公園からラムラスに乗って、美月を掠ったガランドを追いかけたとき、エミリアは烏ごと美月を焼き払うこともたできたのではないのだろうか?
そうしなかったのは最初から彼女は美月に危害を加える気はなかったのかも知れない。
「行くぞ」エミリアが私を振り返った。
喉まででかかった疑念を飲み込んで、私は頷いた。今はそれを確かめている暇はないのだ。
謁見に使われる大広間では王の盾の騎士たちが、氷のゴーレムと戦っていた。
中庭の守備兵たちとは違い、騎士たちはゴーレムを圧倒していた。騎士の剣はゴーレムを氷の山に変えていく。
しかし、氷が砕かれる音は派手だが、広間の中のゴーレムは一向に減る気配はなかった。百人以上は収容できる部屋を埋め尽くすほどの勢いでゴーレムがひしめいている。
次々と襲いかかるゴーレムを相手にしている騎士たちは誰も私たちに注意を払う余裕はなかった。
ウルスラの姿を求めて部屋中を見渡してみたが、あまりの多くのゴーレムに視界を遮られて断念した。
「ウルスラ王女はどこ?」私は近くで剣を振るっている騎士に大声で訊いた。
「わからんが、きっと奥の間に居られるのだろう。我々もお救い申し上げようとしているのだが、この通り次から次と沸いてきて、前に進めぬのだ」彼は振り向きもせずに答えた。
目の前で砕けちったゴーレムの氷片が磁石に吸い寄せられるように集まると、一本の氷柱となり、それが鑿で彫られるように元のゴーレムが再生されていく。
騎士はやれやれという調子で、そいつを再び相手にし始めた。
これではいくら倒したところでキリがない。
「さっきの炎で溶かしちゃいなよ」と私が言うと、「そんなことをしたら宮殿が火事になりますよ」レオが慌てて止めた。
なるほど燃える材料には事欠かない。
「だったら、ほらあのときみたいに雷の魔法はどう?」
ヴィーブルを一瞬で黒焦げにした魔法を私は思い出して言った。
「あれは野天じゃないと無理だ。室内では使えん」エミリアは首を振った。
「じゃあ、どうするのよ」
「お前の出番だ。道を開いてくれ。さらに奥に進まなければならん」
「それは構わないけど、奥にいってどうするわけ?」
「ブランドンのところに行く。レイピアをあいつの胸から抜かないとこの騒ぎは収まらん」
「わかった」私は魔操剣を構えると、氷の魔神の群れに飛び込んだ。
奥の間へ続く扉まで道を開くだけなら造作もない。再生する速度より早く倒せば良いだけだ。
私は高速で剣を振るうと、たちまちゴーレムをシャーベットにしてみせた。
「これだけ細かく砕けば、元に戻るのも手間取るでしょ」
私が笑うと、エミリアは目を細めた。
3
奥の間は王族のための私的なエリアだ。私が十日ばかりブランと暮らしたのもこの場所だった。
しかし王宮の主である王はここにはいなかった。彼はザルンの南郊にある離宮で療養している。
迷宮のようにはりめぐらされた廊下が部屋を連結していた。敵の襲撃に備えてこのような作りになっているのだ。
「夏美さん、道案内をお願いします」とレオが言った。
この場所に足を踏み入れたことがあるのは三人の中で私だけだ。
幾筋もに枝分かれしている廊下を前にして、私はブランの寝室の場所を懸命に思いだそうと務めた。実を言えば、私は謁見の間からこちらに入ったことがないのだ。外に出るのにも奥向きの使用人が使う出入り口をつかっていた。
「夏美さん、ここに住んでいたんじゃないんですか?」
キョロキョロと行く先を探っている私にレオがあきれたように言った。
「しょうがないじゃない。私は囚われの身だったんだから。自由に歩き回っていたわけじゃないもん」
「適当に進んでみるか」
口を尖らせる私を置いてエミリアは歩き始めた。
謁見の間の喧騒が嘘のようにここは静まり返っている。踝まで埋まるほどの絨毯のせいで足音すらしない。どこもかしこも見たことのあるようなないような眺めだった。
しばらく進むとはっきりと見覚えのある一画に出た。
壁に何枚もの肖像画が飾られている。そんな場所は他にもあるのだけれど、そこに飾られているのは皆貴婦人の絵だったので覚えていた。歴代の王妃の肖像画だとブランが教えてくれた。
「もしお前が俺の妃になれば、お前の絵もここに飾られるはずだ」冗談めかして言ったブランの顔を思い出してしまった。
「どうかしましたか?」ぼんやりと立ち止まった私にレオが声をかけた。
「こっちだ」私は先に立って歩いた。
王太子の寝室はすぐ近くにあった。見覚えのある扉を開けて中に踏み込んだが、ブランの姿はそこにはなかった。
「どこか別の場所に移したのでしょうか?」とレオが言った。
「それもあり得るな」
エミリアが同意するように頷いた。
この広い宮殿のどこにブランは居るのだろうか。あきらめた私たちが立ち去りかけた時、目の前の書棚が横に滑り始めた。
ぽっかりと壁に空いた穴から出てきたのは弓を構えたララノアだった。




