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勇敢な追跡者の物語  作者: tori
白い呪術師編
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トロイの木馬

「少し眠られたほうが良いでしょう」

 レオが温めた蜂蜜入りのワインを手渡した。ささくれだった神経を鈍磨させるにはアルコールの力を借りるべきときかもしれない。長椅子から身を起こすと、それを受け取り一気に飲み干した。胃の腑が暖まると多少気持は落ち着いたが、眠る気にはなれなかった。


 部屋の主の趣味なのか、壁の作り付けの棚には隙間もなく人形が並べてある。精巧な作りのものから木彫りの人形まで、よくぞこれだけ集めたものだと感心するほど見事なコレクションだ。

「人形にはけして手を触れないでください」

 侍女のサラはそう念を押して部屋を出た。


 こんなかたちで王宮に戻ってくるとは夢にも思わなかった。ウッドエルフたちを無事王都まで送り届けたウルスラとレオが、血の臭いが漂う累々たる屍の間を彷徨っていた私を見つけてここに連れてきた。その間の記憶はほとんどない。

 ウルスラは渋るサラに部屋を明け渡させた。侍女の部屋なら使用人が出入りすることもないし、衛兵が立つこともない。

 私はブランに会わせて欲しいと懇願した。しかし彼女は首を縦に振らなかった。

「王太子の生死は王国の存亡に関わる重大事なの。王の許しを得た者以外は部屋に立ち入ることはできない。それにこのことは厳重な箝口令が敷かれているのよ」

 自分が様子を見てくるから、それまでここで待つようにとウルスラは言った。


 二杯目のワインを飲み終えても一向に眠りは訪れなかった。ティロロとの戦いで肉体は消耗しきっているはずなのに、脳は考えることをけして止めない。そして行き着く先はどうして自分はブランを守れなかったという後悔だった。ベルがティロロの狙いは他にあるとヒントを与えてくれていた。私はもっとまじめに注意を払うべきだったのだ。いやそれ以前にエミリアさえブランの傍に居れば、あれは防げたはずだ。思考の隘路に嵌まったように、自責の念から抜け出すことができなかった。


「私はいったい何のためにここにいるんだろう……これじゃまるでこの世界に災厄を持ち込んだ疫病神じゃない」

 私の投げやりなつぶやきにレオが驚いたように顔を上げた。

「そんなふうにご自分を責めるべきではありません」と彼は言った。

「イーリンもジョンもローランも、私に関わった男たちは死んでいく。そして今度はブラン……あんたも早く私の傍から離れた方がいいよ」

「まだ王太子は亡くなったと決まったわけではありません。レストンやロイス、僕の祖父だって生きているじゃないですか。夏美さんは疫病神なんかじゃありません。こんなことを言うのは恥ずかしいけど、あなたはこの世界を救うために神が遣わしてくださった女神じゃないかって思うのです」

「何を馬鹿なことを言ってるの。慰めてくれるのは嬉しいけど、女神はいくらなんでも大げさよ」

「僕だけではない、ウッドエルフたちもそう思っています。いったい他の誰が彼らのことを気に掛けてくれたでしょうか? 村がリュロスに襲われたときもあなたは戦ってくれた。もしあなたが居なければ誰がアマイモンを倒してくれたというのですか?」

 少年は黒い瞳を潤ませていた。

「ごめん……すこし弱音を吐いてみたかっただけなんだ」

 私はレオの頭を抱えると、髪がくしゃくしゃになるほど抱きしめた。

 

 ウルスラが戻ってきたのはもう夜もだいぶ更けた頃だった。身体を深々と長椅子に沈めると、今から話すことを整理するようにしばらく目を閉じていた。彼女の様子から見て、ブランは死んだわけではなさそうだ。かといって事はそれほど単純ではないことはウルスラの形容しがたい複雑な表情が物語っていた。


「結論から先に言うと、お兄様は亡くなったわけではない。ただ生きているとも言い難い状態にある」

 ウルスラは沈黙を破って言った。

「つまりどういうことなの?」

「身体は死人のように冷たいのに心臓は動いている。息もしているわ。でもどんな呼びかけに応じないし、身じろぎ一つしない。そして何よりも厄介なのは深い根を張ったみたいに胸に刺さったレイピアが抜けないことなの。二人の騎士がそれを抜こうとしたけれどびくとしなかった」

「メイスターたちはどう言ってるのですか?」とレオが訊ねた。

 メイスターは医学、天文学、哲学、歴史や地理にも通じているこの世界における最高の知性だ。彼らは学者であるだけでなく、あらゆる問題に助言を与えるアドバイザーとして、王や諸侯に仕えている。この王宮にも四、五人はいたはずだ。

「彼らの意見は王太子の魂は肉体を離れてすでに天に旅立ったというものと、魔獣の術によって仮死状態にあるという二つの意見に割れている」とウルスラは言った。

 ブランは脳死のような状態にあるということなのだろうか。この世界の医療レベルではその状態で生命を維持することができるとは思えない。

「それでブランはどうなるの?」

「結論は出なかった。あとは王である父が判断を下すことになるでしょう」とウルスラは言った。

「宮廷魔導師の意見は?」とレオが再び訊いた。

「この王宮には宮廷魔導師はいないのよ。父は魔導師を信用していない。即位するとすぐに先王に仕えていた宮廷魔導師たちに暇を出したのよ」

「しかし、王太子が目覚めない原因が魔術にあるなら、魔導師の意見を求めるべきです」とレオは強く言った。

 レオの意見はもっともだ。魔法のことは魔導師に任せるべきだ。

「エミリアだ! 彼女は今トニアを蘇生させているはず。あの女ならなんとかしてくれるよ。エミリアはブランを守るつもりだったんだもの」

 私は興奮して叫んだ。

「それはほんとうなの? 魔導師エミリアがお兄様を守ろうとしていたって」

 ウルスラは驚きの表情を浮かべた。


 私はウルスラに、ブランとエミリアが協力関係にあったことを話した。

「それが教会に知れるとたいへんなことになるわ」

 話を聞き終えると、ウルスラは嘆息するように言った。

「でもトニアたちが来てくれたとき、あんたは自分を助けに来たことにすれば問題と言ってたじゃない」

「ええ、そう言ったわ。でも教会が知れば当然眉をひそめるでしょうね。でもお兄様は王の代理人である王太子なのよ。未成年の王女とは事情が違う。下手をすれば破門されるかもしれない」

「魔獣の災厄をもたらしたのが魔導師だってことは知ってる。でも十七年前、魔獣の王を封印したのも魔導師たちなのよ。ソロンは命を賭してそれをやり遂げた。すべての魔導師を悪と決めつけるべきではないでしょ?」

「何が悪で、何が善であるかを決めるのは教会なのよ。十七年前の事件についての教会の公式見解は、暁の使徒と魔導師が結託して引き起こした陰謀というものよ。魔獣の王が倒されたのは神が人に示した最後の慈悲ということになっている。ソロンやエミリア、そしてあなたの妹が犠牲になったことには一言も触れられていない」

「でもあんただって、その事実を知っているじゃない。いくら教会が歴史をでっち上げたところで、真相を覆い隠すことはできないよ」

「もちろん知っている。当時エルナスに居た人々だって知っている。でもそれを公然と口にすることは憚られることなのよ。ソロンの封印の術を許可したトーマス公がその後どうなったと思う? 彼は異端審問に掛けられたわ。異端に力を貸したことを認めて処刑は免れたけれど、東部総督の地位と領地を失い、ノーラスを追放された。ほんとうなら救国の英雄であるはずなのに異郷の地で亡くなったのよ。仮に魔導師がお兄様を救えることができたとしても、私はあの人にそんな不名誉な思いをさせたくないわ」


 教会という高い壁が私の前に突如立ち塞がった。しかしブランを助けることができるとすれば、それはエミリアしかいないという確信は少しも揺らがなかった。その結果、ブランの身に何が起こるにせよ、私は彼に生きていて欲しい。どんな惨めな境遇に落とされてもだ。そのときは今度こそすべてを捨てて彼の傍に居ようと私は決心した。


「言いたいことはわかった。でも私は後悔したくないから、やれることはやってみるつもりだよ」

「何をするつもりなの?」

「エミリアを連れてくる。もし彼女がブランを助けられるなら、王宮に押し入ってでもそうするつもり」

「止めても無駄なようね。勝手になさい」

 ウルスラは部屋を出て行った。


 私とレオはメイジタワーに向かった。

 魔獣の脅威が去ったことで、街には平和が戻っていた。王太子を褒め称える声を途中何度か聞いた。彼らはブランが今どうなっているか知らないのだ。

 港のはずれにあるメイジタワーに着くと、レオが門衛の手に金貨を握らせた。門衛は黙って背を向けた。私たちは急いで門を潜ると橋を渡った。

 あの風来坊のような魔導師がまたどこかに旅立ったのではないかと心配だったが、エミリアは塔に居た。大鷲に乗って助けに来てくれた魔導師の一人が、エミリアの部屋に案内してくれた。曲がりくねった吹き抜けの階段を最上階まで上がる途中、彼女はトニアが無事なことを教えてくれた。蘇生の魔法はしばらく前に終わったばかりで、エミリアは疲れ切って食事も取らずに眠っていると彼女は言った。

「お起こしすると、どんなとばっちりを受けるかわかりませんから、私は部屋の前で失礼します」

 魔導師は茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せた。


 案の定、エミリアは機嫌が悪かった。

「いったいこんな深夜になんの用だ? 私はお前の母親ではないのだぞ。乳房が恋しければ他をあたれ」

 私がティロロとの戦いから生還したことなど彼女にとっては大した意味はないのだろうか。

「それを話す前に、何か着てくれないか? 私の従士が目のやり場に困っている」

 一糸まとわぬ姿で伸びをしながら、あくびをしているエミリアに私は言った。

「まだ子供だろ」

 彼女はそう言ったが私の表情が真剣なのを見て、桜色の薄い襦袢をたぐり寄せた。日本で手に入れたものなんだろうが、襦袢の裾を割って覗く太股や胸の谷間が裸のときよりも妖しく見える。

「とにかく話してみろ」とエミリアは言った。


「しかし奇妙だな……ブランドンには魔獣が付いているはずだ。飛んでくるレイピアに気づかぬはずはないのだが……」

 私の話を聞き終えたエミリアが独り言のようにつぶやいた。

 エミリアの疑問は当然なことのように思える。滅多なことで呼びかけに応じないベルですら、私の身に危険が及んだときには注意を促す。ブランは私よりも魔操剣の扱いに習熟している。魔獣との信頼関係もより緊密なはずだ。


「でもなぜレイピアだったのでしょうか? あのレイピアに魔力が込められているのかな……」

 レオがふと漏らした言葉にエミリアが膝を叩いた。

「小僧! 良いことに気づいた」

 エミリアは立ち上がると、書棚の隅にある箱から羊皮紙の束を取り出した。

「王宮に行くぞ」

 書類の山としばらく格闘していたエミリアは襦袢を脱ぎ捨てて、スーツに着替え始めた。

「何かわかったの?」

「あれはトロイの木馬だ」


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