時空の裂け目
大鷲は時空の裂け目に突入していく。
何億、何十億だろうか、いやもっとだろう、無数の光の粒子が私の身体を突き抜けていく。占い師の身体は鍍金されたように金色に輝いていた。ふと自分の手を見ると、同じように金色に覆われている。これから自分の身に何が起こるのだろう。正直、怖かった。
美月を助けなければという思いが恐怖を覆い隠していたけれど、裂け目は私の恐怖心をむき出しにしてしまった。
自分の住んでいる世界とは別な世界が存在する。そのこと自体は一向に構わない。多少の驚きはあるにせよ私の日常と関わりがなければ無いのも同じなのだ。私は元々冒険心などとは無縁の人間だ。
しかし厄介なことに、そいつは向こうから私に干渉してきたのだ。美月というかけがえのないものを人質にとり、無遠慮に荒々しく私の中に押し入ってきた。私は身を固くして待った。
風が止まり、音も消えた。さっきまでの冷気が嘘のように失せて、手に汗が滲む。感覚が鋭敏になり、やがてそれは一点に収束していった。
痛みと熱を伴いながらそいつは私の中に侵入してきた。抗う心とは反対に、身体が勝手に反応し始める。その律動が鼓動が私の中に広がっていき、別な者へと私を染め変えていく。
固く閉じた瞼から涙がにじみ出て、占い師の背中に顔を押しつけた。
「いつまでそうやって私の背中に顔を押しつけているつもりだ? その三白眼を開けて、景色を見てみろ」
澄んだ空気の匂い、頬に当たる風の感触、どうやら外に出たらしい。
私は恐る恐る目を開けてみた。
さっきまでの夜の世界が一変して、そこには雲一つない青空が広がっていた。
「ここがノーラスなの?」
「そうだ。私の麗しの故郷だ。美しいだろ」
紺碧の空の下にグリーンの絨毯をしきつめたような大平原が広がっていた。その上を銀色の鱗を持つ大蛇のような大河が水面を煌めかせている。私は今別世界に居るのだ。大鷲に跨がり、魔法使いの腰にしがみつきながら、未知の世界を見下ろしているのだ。
「烏はどこに行ったの?」
私はぐるりと染み一つない空を見回した。
「さあな……一秒でも裂け目に入る時間が違えば、出口も変わる。時空の裂け目とはそういうものなんだ」
占い師が「もう遅いよ」と呟いた意味がわかった。
「見つけることはできないの?」
「見つけるさ。少なくともこの世界のどこかには居るはずだからな」
「世界っていうからには、かなり広いんでしょ」
「それほど遠くには行っていないはずだ。それに見つける手立てはある」
この女は美月を連れ去った男を知っている、そう直感した。
「あの男は美月のことをリアナと呼んでいた。いったい誰なの?」
背後からでは表情が読み取れなかったが、占い師が答えを逡巡していることは背中越しにもわかる。
「ガランド、あの娘の父親だ」
占い師はようやく口を開いた。
美月が普通の人間ではないことは薄々感じてはいた。私も母もあの滝のことをけして話題にすることはなかった。しかしいつか月から迎えが来たかぐや姫のように、美月が自分たちのもとを去る日がやって来ることをいつも恐れていた。きっと母も同じだったはずだ。
何を聞いて良いのかわからなかった。頭の中に疑問がちらかりすぎて、どれを手にして良いのか戸惑っていた。
それまでのんびりと滑空していたラムラスが急転回した。振り落とされそうになって、私は占い師にしがみついた。
「何ごと?」
「ヴィーブルだ。厄介なのに目を付けられた」
ラムラスよりも一回りも大きい怪鳥が追いすがってきていた。
火のように紅い舌を吐き出しながら、不快な鳴き声で威嚇している。全身を緑色の鱗に覆われたその姿は、空飛ぶ蜥蜴のようだった。
占い師は半身を捻り剣を振った。今度は翼に命中した。怪鳥の片翼が燃え上がる。バランスを失った怪鳥は螺旋を描きながら落下していった。
「やった!」
自然とガッツポーズがでた。
「安心するのは早い。よく周りを見てみろ」
さっと首を動かすと、斜め上方からもう一匹のヴィーブルが猛然と突っ込んできていた。
「下からもお迎えが来ているぞ」
占い師が言った。
地上からさらに数匹が飛び上がってくるのが見えた。
「奴らは集団で狩りをする。相手を倒すまであきらめない」
翼はあっても執念深さは爬虫類のままらしい。
「火の玉でやっちゃえば?」
「そういきたいところだが、生憎この魔法は連射がきかないのが難点でな」
占い師は苦笑した。
「意外と不便なものなんだね……ってどうすんのよ!?」
「仕方ない、あれをやるか。ラムラス、天高く舞い上がれ!」
占い師は腰を浮かし、ラムラスの背中に這い上がった。目の前に形の良いお尻を突き出すと、四つん這いになる。いったい何をやらかすつもりなんだろう。
「デカ女!私が落とされないようにしっかりつかんでろ」
「いや待って、つかまえてろって、こんな支えもないところでどうやるのよ」
「しっかりと股でラムラスを挟み込め」
言い放つと、占い師はすっと立ち上がった。
両手で捧げるように持った剣を天に向かって突き上げた。向かい風に煽られて、占い師の体がぐらっと揺れる。あわてて占い師の太股を抱えた。
下からは七、八匹にまで増えたヴィーブルたちが迫っていた。連中の鋸状の鋭い歯まではっきりと見える。私はラムラスの胴を挟んだ足をさらに強く締めた。
占い師は天空を見上げたまま口の中でぶつぶつと何か言っていた。多分魔法を使うための呪文を唱えているのだろうけど、正直な話、魔法って意外に面倒くさいものらしい。あんな無防備に身体を晒していたら、飛び道具を持った相手にはイチコロだ。いや待てよ、アニメやマンガの魔法使いってこういうときどうしてんだろ。
「なぁ、結界とか魔法のシールドみたいなの張ってるの?」
「いや。そんなもの張ってる暇なかったろ。気が散るから黙って押さえていろ」
あるにはあるんだ。ただこいつが間抜けなだけらしい。もはやラムラスのがんばりに期待するしかない。しかし大鷲の羽ばたきも気のせいか、さきほどまでの勢いがなくなっている。無理もない、鳥に航続距離があるのかどうかしらないけど、飛び通しに飛んでいるのだ。
餌を求める雛鳥みたいに口をぱくぱくさせながら一頭のヴィーブルが足下まできていた。
まずい、このままだと足に食いつかれる。かといって引っ込めるわけにもいかない。そんなことをすればたちまち占い師もろとも転落してしまう。
私はスタジャンのポケットに手を突っ込むと、ベーコンマヨネーズをつかんだ。
「これでも食っとけ!」
投げつけてやると、フリスビー犬のように器用に空中でキャッチした。
下からは別の五匹が急上昇してきた。反対側のポケットからダブルメロンロールをつかむと、それに向かって投げた。
ヴィーブルたちは争うように一つのパンに殺到した。激しく奪い合いながら、空中で組んずほぐれつしている。
占い師は相変わらず呪文を唱えている。
「早く何とかしてよ!」
抱えた太股を揺すってみたが反応はない。怪鳥どもは再び狙いをこちらに向けた。観念しかけたとき、占い師が絶叫した。
「キタぁ、来たー!」
気でも狂ったのかと顔を上げると、頭上に黒い雲が集まり始めていた。
「デカ女、耳を塞いでろ!」
次の瞬間、目の前でストロボを炊かれたみたいな閃光が走った。耳をつんざくような轟音とともに、幾筋もの稲妻がヴィーブルたちに襲いかかる。
ヴィーブル達はあっという間に炭化物の塊と化し、黒い粉を風にまき散らしながらゆっくりと地上に落ちていった。
ラムラスの上ではドヤ顔で腕を組む占い師が、風にスカートを煽られ、パンツ丸出しの姿で誇らしげに立っていた。