白い呪術師
ウッドエルフたちはすでに安全なところまで逃げている頃合だ。あとはブランたちが罠に掛かったことに気づくまで、騎兵を引き止めておくことが残された私の仕事だ。
おそらく彼らも伏兵の存在を承知しているに違いない。メイジたちの炎の壁は遠目にも目立っていたはずだ。それに対する備えをしていないのは、将帥を倒すことに全力を注いでいるからだろう。
しかし、真の将帥は私の目の前に居る。こいつを倒さない限りは戦いに勝利はない。
ティロロは雪の精霊を思わせた。腰まで届く髪も睫毛も新雪のようだ。桜色の唇が雪の上に散った花びらみたいに微かな彩りを加えている。
印象的なのはその瞳だった。淡い紫色の瞳に見つめられると、アイスピックで突き刺されたような痛みを覚える。ベルの言うように、発しているオーラが今までの魔獣とはまるで違う。
私はユリシーズから降りると、愛馬のお尻をポンと叩いてやった。一瞬彼は立ち止まったけれど、私の気持ちを察するように走り出した。この子を負けるかもしれない戦いに巻き込みたくはなかった。
白い呪術師が私の目の前に立った。立ちこめる冷気に背中がぞくっとする。
「お姉さんはこの世界の人間じゃないよね? だったら余計なことに首を突っ込まない方がいいよ」
小首を傾げてティロロは言った。
いつの間にか私は後ずさりしていた。背丈が私の肩にも満たない少女に完全に呑まれている。剣を握った手が微妙に震えていた。
(ビビるな)自分に渇を入れる。
「ご忠告ありがとう。でも、こっちにも色々としがらみができてね。はいそうですかって引っ込むわけにはいかないのよ」
「そう、大人って面倒くさいのね」
ティロロはそう言うと、サッと私の前に手を突き出した。鋭い切っ先が喉の皮を僅かに突いた。彼女の手にはいつの間にか細身の剣が握られている。レイピアというやつだ。まるで見えなかったし、気配すら感じることもできなかった。
「本気でやったら、お姉さんすぐに死んじゃいそうだから、私も剣で相手してあげるね」
ティロロがレイピアを引っ込めようとした瞬間にできた隙を私は見逃さなかった。
繰り出した剣は確実に白い身体を捉えたはずだった。しかし聞こえてきたのは断末魔の悲鳴ではなく、背後から聞こえる笑い声だった。
「結構速かったのにね。残念」
ティロロは芝居がかった様子で悲しげな表情を作ってみせた。
私はさらに振りを速くした。精度は犠牲にしても、こちらの攻撃が通じるのだという確証がほしかった。しかし逃げ水を相手にしているように、剣は空を斬るばかりでかすりもしない。
美月が掠われた夜の公園のシーンがよみがえる。あのときのガランドと同じだ。魔法か何かはしらないが、こいつはワープしている。
滴り落ちる汗が目に浸みる。口は渇き、心臓は限界まで鼓動を早めている。
――いったいこいつはどうなっているの?
――だから言ったろ、こいつは魔界でも少々厄介な奴なのさ。幸運なことに本気でお前を殺す気はないようだ。逃げるなら今のうちだ。
――要するになめられているってわけね。 力を貸してもらうわよ。
――向こうっ気が強いのは結構だが、誰彼なく喧嘩を売っていては身が持たないぞ。
――あんたは黙って力を貸してくれたらいい。あとはこっちでなんとかするから。
――無駄だ……といっても聞かないか。どうなっても知らないぞ。
これだけの力の差を見せつけられて、倒せると思うほどおめでたくはない。ただ手傷の一つでも負わすことができれば、後からやってくるブランたち魔操の騎士の援護にはなる。
剣を大きく振りかぶると、魔獣の力が私の中に入ってくるのを感じた。体中の血が滾るように熱い。今の消耗した状態では使える渾身の一撃は一度きりだ。
ティロロは私が魔獣の力を開放したことに気づいたのだろう、明らかにさっきまでの舐めた表情とは違い警戒の色が伺える。
私は振りかぶった剣をさらに大きく後ろに反らした。ティロロの視線はその剣先を注がれた。さっきから漫然と空振りを繰り返していたわけじゃない。彼女はワープのタイミングを剣の軌道で判断しているのだ。
私は最後に残った一枚のコインを投じるように、爪先に引っ掛けた小石をティロロに向けて蹴り出した。
顔に向かって飛んできた石をティロロは反射的に手で払う。
「もらった!」
ティロロを見据えると、袈裟がけに振り下ろす。ティロロは僅かに身体を捻ってかわした。
さすがに将帥クラスともなると反射神経も驚異的だ。
私はわずかにバランスを崩したティロロの首を返す刀で横に払った。今度は確実に手応えがあった。大根をスパッといく感じだ。
ティロロの首がゴロリと地面に落ちた。
やった!そう思った次の瞬間、私は信じられない光景を目にした。
首のないティロロはしゃがみ込むと、自分の首を拾い上げた。そして丁寧に髪に付いた枯れ草を払うと、再び元の場所にくっつけた。
「嘘だろ!」
私は思わす叫んだ。
――なんで? こいつアマイモンよりはるかに強いの?
――勘違いするな。お前が倒したアマイモンは所詮は人間が召喚したものだ。本来の力の十分の一も出していない。
――じゃあ、どうすればいいのよ!
――どうにもできんな。忠告はしたはずだぞ。いっそすべてを解放して、魔獣になってみるか。もっともそうなれば、お前が守ろうとしたものを俺がすべて破壊するがな。
ベルセリウスは、高笑いを残すと気配を消した。
「あらら、魔獣にも逃げられちゃったのね。お姉さんの剣、もう青く光ってないよ」
ティロロが首の座りを直しながら言った。
魔獣なんか信じた自分が愚かだった。今はただ目の前の少女が心底怖かった。哀れみを乞えば許してもらえるだろうか。そんな考えすら頭をよぎる。
「あのね、お姉さんと遊ぶのもう飽きちゃった」
ティロロはそう言うと、レイピアを構えた。
かわすことなどもちろんできなかった。両肩と股の付け根に鋭い痛みが走った。しかし、身体は痛みに対して、正常な反応ができない。
「いったい何をしたの?」
「お姉さん、ウドの大木になっちゃったんだよ。でも安心してすぐに楽にしてあげるから」
ティロロの身体が宙に浮いた。それを合図に魔獣の騎兵たちが動き出した。もがこうとしたが、身体はぴくりとも動かない。騎兵が動きを早める。
「自分が踏み殺されるのを待っている瞬間ってどんな気分? 怖い?」
ティロロが頭上から問いかける。
「やっぱり怖いよね……でも、私は他の魔獣と違ってやさしいの。だからお姉さんがごめんなさいすれば許してあげてもいいよ」
まさに悪魔の囁きというやつだ。ここでもし受け入れてしまえば、自分を支えてきたもの一挙に崩れ落ちてしまう。しかしそれがどうだと言うのだ。今までだって、理不尽なことを受け入れてきたはずだ。
「夏美さん、大丈夫ですか?」
喉まで出かかった言葉を吐きだそうとしたとき、トニアの声がした。
「だめだ! はやく逃げて」
間に合わなかった。トニアが呪文を詠唱する間もなく、ティロロはレイピアを一振りした。
氷の彫刻のようになったトニアと鷲が地上に降ってきた。
「くそぉっ、なにやってんだてめぇ!」
私は叫んだ。叫んだら涙がぽろぽろ溢れだしてきた。
「もういいわ。死んで」
ティロロが魔獣たちを振り返った。
魔獣の騎兵は今や砂塵を巻き上げて、私目がけて突進してくる。千頭もの馬が私を踏みつぶしていくのだ。
――人は困難に直面したとき、どんな態度をとるかでその価値が決まる。
レストンは言った。でも私には無理だ。
死にたくない!
もっと生きたいよ!
「お母さん、助けて!」
突然、地面がグラッと大きく揺れた。目前まで迫っていた魔獣たちがどんどん遠ざかっていく。何が起こったのだろう。
よく確かめようと涙で霞んだ目を何度もしばばたかせた。
私と魔獣の間にぽっかりと大きな地割れができている。地割れの向こうに魔獣たちの呆気に取られた様子が見えた。
「クソ長い呪文だったからアウトかと思ったけど、ギリギリ間に合ったようだな」
頭上を白い大鷲が通り過ぎた。
「ラムラス!」
大鷲は私の呼びかけに応えるように、ぐるりと旋回した。
「小便ちびってないか?」
大鷲の背からあの懐かしいドヤ顔がのぞいて見えた。




