襲撃
ララノアは小屋の横に積み上げた薪の上に腰掛けていた。私に気づくと、なんとか笑顔を作ろうとしたけれど、それはみるみるうちに崩れてしまい、私の胸に飛び込んできた。
「行かないでよ! 夏美とレオにお別れするなんて、やだよ」
泣きじゃくるララノアに私はただ「ごめんね」と繰り返すしかなかった。
短い間に私は多くの別れを経験した。そのどれもが身を切られるような思いをさせられるものだった。気がついたら、あまりにも濃密な人間関係にどっぷりと浸っている。いつの間にかもうこの世界は私にとって仮そめの場所ではなくなっていた。
「王都にまだしばらく滞在するから、一緒にくる?」
私の言葉にララノアは首を振った。
「余計に別れが辛くなるからいい……レオの食事の支度をしてあげないと」ララノアは袖で涙を拭って笑顔を作った。
「泣いたこと、レオには言わないでね」ララノアはそう言うと小屋に入っていった。
せめてレオを置いていってあげられたら良いのだが、彼は絶対に納得しないだろう。あの朴念仁はララノアの気持に気づいているのだろうか。それとも他の人間のようにウッドエルフを恋愛の対象と見ていないのだろうか。
次の朝早く、私たちは居住区の人たちに見送られて門を出た。ララノアはいつもと同じように明るくはしゃぎながら、レオの旅仕度を手伝った。
ここに来てから、彼女はレオの身の回りの世話をずっと見ていた。調べ物でレオが街に泊まり込んでいるときも往復の道を苦にせず通っていた。仕事を持たないウッドエルフは夕方の刻限を過ぎて、街に留まることを許されない。見つかれば鞭打ちの刑に処せられる。
金狼が消えたとは言え、街はウッドエルフにとってやさしい場所ではないのだ。レオがいくら危ないからと言っても、彼女は聞かなかった。だがそれも今日で最後になる。
去り際にララノアはレオに軟膏の入った貝殻を手渡した。
「いいの? これはもう残り少ないんでしょ」レオは驚いたようにララノアを見た。ダークウッドから持ってきた薬草で作った軟膏は、おばば様が孫たちに少しづつ分け与えた貴重なものだ。
「だから持っていて欲しいの。レオは危険なところに行くんだもん。それに……貝殻を見るたびにボクを思いだしくれるでしょ」ララノアははにかんだように言った。
レオはお礼を言うと、ポケットから布袋を取り出して、ララノアの手にのせた。
中にはナラの実を数珠のように繋ぎ合わせたネックレスが入っていた。ララノアは手の上の無骨なネックレスをじっと見つめていた。
私は自分の剣帯のバックルに手をやっている自分に気づいた。ブランはあのスタジャンをまだ持っていてくれるだろうか。名残惜しい別れを皆に告げると、私たちは馬に跨がった。
居住区が小さく遠ざかると、レオはポケットから貝殻を取り出して見つめていた。
「貴公子ならもっと気の利いたものをあげれば良かったのに」
「ウッドエルフにとってナラの実は永遠に変わることのない友情の象徴なのです」
「愛情じゃなくて?」
「異性に贈る場合は違う意味にもなると聞いたことがあります」
レオはそれだけ言うと、馬を走らせた。その背中は少しだけ大人に見えた。
王都に着くと、私たちは狭い路地裏を抜けてレストンの家に向かった。
頑丈な鉄の扉の前には青い帽子を被った男が、前と同じように腰掛けていた。男は帽子の庇をすこし持ち上げて私に挨拶すると、丸めた羊皮紙をレオに手渡した。
「坊や、頼まれていたものだ」レオはそれを受け取ると、もどかしそうに広げた。黄ばんだ羊皮紙に描かれていたのは地図だった。
「まさかほんとうに手に入るとは……どうやってこれを手に入れたのですか?」
「世の中には聞かないでおいた方がいいこともある」男は片目をつぶって見せると、一杯引っ掛けてくると通りの向こうに消えていった。
「それはなんなの?」食い入るように地図に見入っているレオに私は聞いた。
「ダークウッドの地図ですよ。書物でその存在は知っていたのですが、サー・レストンから旅に必要なものがあれば彼に頼めと言われたので、ダメ元で頼んでみたのです。まさか実物が手に入れてくるとは……」
男の様子からして、まっとうな手段で手に入れたものではないのだろう。
「彼はいったい何者?」
「サー・レストンの友人です。なんでもここら一帯の路地裏を仕切っている人らしいです」
裏社会のボスといったところだろうか。王の盾の騎士でありながら、そういう方面にも繋がりを持つレストンという人物の奥の深さを垣間見た気がした。
当のレストンは相変わらずの好々爺然とした風情で、私たちを迎えてくれた。通された二階の部屋には料理がずらっと並べられていた。
「厄介になる身でこんなにしてもらって悪いよ。それに船賃まで出してもらって、なんとお礼を言っていいやら……」私は恐縮して言った。
「おい坊主! しゃべっちまったのか……まあ仕方ない。あれは餞別だ。気にすることはない。それに市警の司令官様ももうすぐお見えになるんだ。シケたもてなしはできんだろう」レストンは豪快に笑った。
「ロイスも来るの?」
「お前が来ると教えてやったら、なんとしても時間を作ると言ってたよ。寝る間もないほど忙しいといつもぼやいているがな。だが奴の寝る時間が削られるほどこの街のドブもきれいになっていくってものさ」
レストンとロイスが交流を続けていることが私は嬉しかった。レストンの胴には包帯が巻かれている。ロイスが刺した傷だ。しかし、レストンはそんなことはまるで気にもとめていない。さすが豪胆のレストンだなと私は思った。
「でも、こんな怪しげなところに市警の司令官が出入りして大丈夫なのかな」冗談めかして私は言った。
「法の建前だけでこの街の治安を維持することはできんよ。裏の事情にも通じておく必要がある。時にはその力を借りなければならないことだってある」
「その見返りに犯罪のお目こぼしをしたりするわけ? あの表に居る男みたいに」
「あれは泥棒の元締めだ。手下が盗んできたものの上前をはねる。世間からすればとんでもない悪党かもしれんが、奴のような男が存在するにはそれなりの意味がある」
「どんな意味?」
「奴は病人の布団を剥ぐような盗みは絶対に許さない。盗むのは金の唸った連中からだけだ。あの男はその仁義を守らせるために存在する。あいつが目を光らせている場所では、その日暮らしの人間の飯を横取りするようなことは起きない。それにああいう男と付き合いがあれば、耳寄り話をもたらしてくれる」
「たとえば?」
「実は気になる噂を奴から仕入れたのさ。聖騎士団がなにやらきな臭い動きを見せているらしい」
「聖騎士団?」初めて聞く名前だった。
「教会に所属する魔装剣使いだ。試金石のことは知っているな?」私はうなずいた。
ノーラスでは身分や性別に関わらず、一定の年齢に達したものはその石に触れる儀式を行わなければならない。魔操剣使いの資質のあるものが触れると石は反応する。
とはいっても魔操剣使いとは畢竟、剣に封じ込められた魔獣に気に入られるかどうかだけの話で、それだけで剣を使えるわけではない。石はあくまでも魔獣と意思を通じ合える素質があるかどうかをはかるためのものらしい。
「聖都の近くにライナルという島がある。そこに聖騎士団の本部があるんだが、教会はそこに試金石が応えた孤児たちを集めて訓練を施しているのさ。そこで孤児たちは、神への忠誠と武技を徹底的に叩き込まれるんだ。そうしてできあがるのが聖騎士だ。異端と異教徒の殲滅を使命とし、たとえそれが女子供であっても眉一つ動かさずに殺す。どんな痛みを与えられてもそれが神への奉仕になると喜ぶような狂信者の集まりだ」レストンは苦々しく言った。
「その狂信者たちがどんな動きを見せているというの?」
「一ヶ月ほど前に奴らを乗せた艦隊がライナルを出航した。どうやら行き先はダークウッドらしい」
「彼らは魔獣の王がダークウッドに降臨することを知っているのね」
「ウッドエルフの婆さんが知っていることを教会が知らぬはずはないさ。聖騎士どもが乗り込んでいけば、お前の妹から魔獣の王が離れていようがいまいが、関係なく殺されるぞ」
「美月のことを心配してくれているの?」
「俺が今ここでこうして居られるのも、お前の妹のおかげだ。ほんとうならエルデンの川に骸を浮かべていたさ」レストンはジロリと私を見て言った。
「でも……まだ美月が王を身体に宿しているとしたら? 彼女ごと殺してしまう方が多くの人が命を落とさずに済むんだよ」私は重ねて訊いた。
「無辜の人間の命を二度まで犠牲にするのは、たとえどんな理由があっても正当化できんさ。今度は俺たちの手できっちりととどめを刺してやる。どれほど血が流れてもな。だからお前は遠慮せず妹を助け出せ。それでどうこううなったところで、お前にケツを持っていくのはお門違いってことだ」
レストンはゴブレットのエールを飲み干すと髯についた泡を手の甲で拭った。
目の前に立ち込めていた霧が晴れていく気がした。今夜はとことん飲もう、私はエールの入った陶器の瓶に手を伸ばした。
ロイスがやってきたのは、夜も更けた時分だった。慌ただしく階段を上がってきた彼の顔色は、久しぶりの再会を喜ぶようなものではなかった。
「遅かったじゃないか。司令殿」すっかり上機嫌にできあがっているレストンが声を掛けた。
「魔獣が街を襲っている」
ロイスは震える声で告げた。




