絶望
魔獣は泥水の中にうつ伏せに倒れていた。
この中にどれだけバリャドリーがまだ残っていたのだろう。変わり果てた友の姿を見下ろしながら佇むロジャーに、掛ける言葉が見つからなかった。
「俺は騎士の家の出じゃないんだ。百姓の小倅で、ほんとうは鍛冶屋に奉公に出されるところだったんが、村に立ち寄った放浪の騎士にこのガタイを見込まれて、従士にして貰ったのさ……こいつも似たような生い立ちだ」
ロジャーはポツリと言った。
「二人で組んで魔獣退治をしてたんでしょ」
「俺たちは最強のコンビだった。しかし、それも終わった。いつかはこうなると思っていた。だから奴は言ったんだ。『俺が魔獣になったら、お前の手で殺してくれ』とな」
それが魔操剣使いの宿命だとロジャーは言いたかったのだろう。しかし、彼は何も言わずに友に背を向けた。
「おい!ロジャー、化け物退治が終わったんなら、早くその女を始末しろ」
カイルが叫んだ。
「俺はこの女に降参した。あとはあんた一人でやってくれ」
ロジャーはチラリとそちらを見ただけで、バリャドリーの剣を拾うと、そのまま出口に向かって歩き始めた。
「そんなことをしてただで済むと思っているのか! また放浪の騎士へ逆戻りだぞ。化け物になるまで戦い続けるはめになるんだぞ」
カイルは叫び続けたが、ロジャーは振り向きもせず広場から出て行った。
私はへたり込んでいるロイスの肩を叩くと「レストンを頼む」と声を掛けた。あとはあの外道の頸を刎ねて、このクソ忌々し茶番の幕を引くだけだ。
カイルはスタンドの塀にとりついてよじ登ろうとしたが、防具が重すぎた。
「お前の勝ちで良い。降参だ」泥水の中に尻餅をついたカイルはプロテクターを脱ぎ捨てて言った。
「降参が認められるのは介添えの騎士だけだ。まあ、認められたってお前だけは許さないけどね」
泥の中を這いずりまわっているカイルに剣を突きつけた。
「待て! 俺のオヤジはハイデン公だ。西部総督なんだぞ!」
「だからお前も偉いと言いたいのか?」
「あの能無しどもに代わって、お前をお抱え騎士にするようオヤジに頼んでやる」
泥で汚れた包帯の間から、媚びるような笑みをカイルは浮かべた。
殴ってやりたいと思った奴はたくさんいたが、殺したいとは一度も思ったことはない。しかし、今は心底こいつは地上から消えるべきだと思った。
「立て! 立って戦え」
「たっ、頼む。殺さないで」
カイルはぬかるみに額を擦りつけ、伏し拝むように哀れみを乞うた。
「そこまでだ!」
スタンドに通じる入り口から、オーギュストが武装した市警を率いて姿を現した。魔獣が暴れている間、こいつらはどこにいたのだろう。
「邪魔するな! これは勝者の権利のはずだぞ」
私は怒鳴り返した。
「この決闘は無効だ。お前には勝者の権利などない」
オーギュストは自信たっぷりに言った。
スタンドにはいつの間にかハイデン公とその取り巻き、金狼たちが戻っていた。
「この決闘は戦の女神デュロスの名において行われたはずだぞ」
「私はお前が騎士ではない証拠をつかんだのだよ」
オーギュストは私に向かって指を突きつけた。
「いったいお前は何を言ってるんだ!」
「ならば聞くが、お前はその剣帯をどこで手に入れた?」
オーギュストは腕を後ろに組み、私の顔を覗き込んだ。
「これは人から貰ったものだ」
「ほう? 誰にもらったのかな?」
罠の匂いがプンプンするが、真実を答えるしかない。
「ブランドンという騎士だ」
私の答えを聞いて、オーギュストはニヤリとした。
「お前はそのバックルに刻まれた紋章をだれのものか知っているのか?」
私は返答に窮した。実際のところブランについて知っていることなどほとんどないのだ。この紋章が彼の家のものであるかどうかすら。
「知らなければ教えてやろう。それは王族の私的な紋章だ。王族に連なるもの以外が身につけることは許されんのだよ。王都の治安が不安定なのに便乗して、近頃盗賊どもが横行している。大方そのブランドンとやらもその一味であろう」
一介の騎士に過ぎない男があれだけの金貨を所持し、宝石を散りばめた剣帯を惜しげもなく、その日出会った女にプレゼントする。そんなうまい話が世の中にあるはずがない。
もっと早く気づくべきだったのだ。残酷な真実は私を打ちのめした。 いきなり私の唇を、奪い、私を抱えてはしゃぎ回っていた男はこそ泥だった。そして私はその男とまた王都で再会できると心の奥で期待していたのだ。
「もう一度聞くぞ、お前はその剣帯をどうやって手に入れたのだ? 真の騎士なら盗品を身に帯びているはずはない。答えられないなら、私が言ってやろう。お前はそのブランドンという盗賊の情婦かなにかだろう。いや、盗みにも手を貸しているはずだ。それは盗みの分け前に違いない」
私の心に黒いものが渦巻きはじめた。
これまでの人生で、挫折を味わったことは何度もある。むしろその連続だった。そんなときいつも私は耐え忍んできた。そうするより身の処し方がなかったからだ。
しかし、今の私には思い通りにならない状況そのものをぶち壊してしまう力がある。
やってしまえば良い。どうせこんな連中に魔獣になった私を退治することなどできるはずがない。そういえば、美月にも魔獣が宿っていたんだっけ。姉妹仲良く魔獣になりこの世界を破壊してやる!
「何やってる! 目を覚ませ」野太い声が響いた。
ロイスに肩を支えられたレストンが荒い息を吐きながら、私を見つめていた。
「魔獣になるつもりなのか?」
彼は静かに言った。
「もう何もかもいや!」
「お前はロジャーがどんな気持ちでかつての友を討ったと思う? ローランが再びアマイモンに立ち向かったのはなぜだと思う? 彼等を突き動かしたものはなんなのか考えてみろ」
レストンはよろめきながら、私に近づいてきた。
「あの人たちは強いのよ。私はそうじゃない。そこらに転がっている石ころみたいなものよ。だからもう放っておいて!」
私は後ずさりした。しかしレストンはその私の両肩をしっかりと捕まえた。
「人間の価値は困難に直面したとき、どういう態度を取るかで決まるんだ。最初から宝石である者など誰もいない……まだ何か手はあるはずだ。俺が王に嘆願してみる」
「どうして、あんたたちはそんなに勇敢で、真っ直ぐで、やさしいの?……ずるいよそんなの」
私はレストンの分厚い胸板に顔をうずめて泣いた。
「愁嘆場はその辺りにしてもらおうか。その女は騎士を騙った罪で、この場で処刑する」
「そうはさせん」
レストンは剣を構えると、振り向いて言った。
「ロイス、彼女を連れて逃げろ」
ロイスが私の腕を引っ張り上げた。
「英雄かなにかは知らぬが、今のお前はただの老いぼれだ。たいした力も残っていまい」
オーギュストが部下に彼を殺すように命じた。
そのとき、一頭の黒い馬が柵の間の通路から広場に躍り出てきた。それに跨がっている黒髪の少年の姿をみたとき、私は思わず嗚咽してしまった。
「遅くなって申し訳ありません。でも、もう大丈夫です」
レオはユリシーズを私の傍で止めると、微笑んで言った。
広場の中に続々と、馬に乗った騎士たちが入ってきた。そしてその中の一人が私の方にやって来るのを見て、思わず私はつぶやきを漏らした。
「ブラン?」




