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勇敢な追跡者の物語  作者: tori
エルナス編
3/88

夜の公園

「やっと見つけた!」

美月が公園の入り口で手を振っていた。赤いダッフルコートにジーンズ、何気ない格好なのに特別な衣装でも纏っているように輝いている。白い息を弾ませながら走ってくる姿についうっとりと見とれてしまう。スラリとした手足、小さな顔、艶やかな長い髪、すべて私にないものばかりだ。

 華やかなものとは縁の遠い私の人生にあって、美月は一点の朱を差すような存在なのだ。彼女に向けられる憧憬や称賛、あるいは嫉妬の視線すらも私にとっては誇らしいものだった。

姉の欲目というだけでなく、この子には私たちが持っていない特別な魅力がある。子供の頃、美月を産んだ母親は月の女神様だと私は信じていた。今は女神の存在を信じるほどの無邪気ではないけれど、それでもあの女の人はどこか別の世界から来た人だという思いは変わらない。美月はその娘なのだ。


挿絵(By みてみん)

 

 時計を見ると一時半、いつも帰宅する時間より三十分ほど遅い。起きて待っていなくても良いと、いくらいっても美月は聞かない。私の顔を見るまでは落ち着かないというのだ。 それはそれで可愛いのだが、やはりここは姉としての威厳を見せつけておく必要がある。


「女子高生がこんな時間に出歩いちゃだめでしょ」

 つい緩んでしまいそうな表情を引き締めて、私は叱った。

 「ごめんなさい。でもいつもより帰りが遅いから心配になって迎えにきたんだ」

 隣に腰を下ろした美月の紅潮した頬を両手で挟んでやる。

「あったかい」

 美月は目を細めた。


 子供の頃、私たちはこの公園で母の勤めの帰りをよく待ったものだった。母は私たちを見つけると、「家で待っていなさいといったでしょ。仕方ないわね」といって顔をしかめた。それから順番に冷たい頬を暖めてくれた。今ならわかる、母はきっと嬉しかったんだって。


「お月様があんまり綺麗だったから眺めていたんだ」

「そうなの? なんだかお姉ちゃんすごく疲れてるように見えたけど、大丈夫?」

「そりゃバイト帰りだもん疲れてはいるさ。でも可愛い妹の顔見たら元気が戻ってきたよ」

 私は妹の髪を手で梳いてやった。指の間を抵抗もなくするりとこぼれ落ちていく髪の感触が心地よい。

「バイトの掛け持ちとかお姉ちゃん無理しすぎだよ。そのうちからだ壊しちゃうよ。私ね、大学には行かない……卒業したら働こうと思うの」

「いきなりどうしたの? 三者面談でも進学って決めたでしょ。それに推薦だってもらったし、あんなに喜んでたじゃない」


 美月は近所にあるミッション系の女子大を志望していた。

 彼女が中学に入ったばかりの頃、私たちの住むアパートにその大学通う女子大生が引越してきた。髪の長い、いつもおしゃれな服を着こなしている素敵な人だった。

 私たちはすぐに仲良しになった。残業で母の帰宅が遅いときには彼女の部屋によく遊びに行った。

 美月は彼女によく懐いていたし、彼女も美月のことを可愛がっていた。二人が一緒に居るとほんとうの姉妹のように見えた。美月が髪を伸ばし始めたのもその頃からだ。彼女に憧れていたのだ。

 彼女が卒業して通訳の道に進むと、美月は同じ大学に行きたいと言い出した。美月の成績なら国立大学にも進学は可能だ。金持ちの家ならともかく、わざわざくそ高い授業料を払ってまでお嬢様学校に行く必要はない。しかし、母は美月の希望を聞いてやった。まだ中学生だったから、そのうちまた気が変わるだろうと高をくくっていたのかもしれない。


「香住さんみたいに通訳になるんじゃなかったの?」

 俯いている美月に私は尋ねた。

「大学に行かなくても通訳にはなれるよ。それに今はそんなになりたいわけじゃないの」

「じゃあ何になりたいのよ。……ひょっとしてお金のことを心配してるの? それなら心配ないさ」

「心配ない?」

 美月は顔をあげた。

「今まで内緒にしてたけど、学資は母さんが積み立てておいてくれたんだ」

 私は嘘をついた。母が私たち二人の名前でお金を積み立てていたのはほんとうだ。でもそれは母の入院費と葬儀の費用で大半は消えてしまった。

「そうだったんだ」

「だから美月は余計なことを考えずに勉強だけしていればいいんだ。油断してると推薦から外れされることもあるって先生も言ってたでしょ」

「はーい。でも、あんまり無理しないでね。なんか私はお姉ちゃんにばかり苦労させている気がするんだ」

「そりゃあ私はお姉ちゃんなんだから仕方ないよ。もし逆の立場だったら、美月はお姉ちゃんのために頑張るだろ?」

「うん! 頑張るよ。すごい頑張る……だけど歳は追い越すことはできないよ? お姉ちゃんはずっとお姉ちゃんのままでしょ」

「だったらお姉ちゃんが歳とって動けなくなったら介護してよ」

「そんなのやだよ! いつまでも元気で居てくれないと」

 美月は私の腕を取り甘えるようにもたれかかった。シャンプーの香りが鼻孔をくすぐる。いつもの明るさが妹に戻って私は一安心した。

 

「ねぇ、さっき何を見ていたの? すごく真剣な表情だったけど」

「ああ、これ?」

 私はジーンズのポケットに突っ込んだ石を取りだした。

「見せてよ」

 一瞬躊躇したが、私は手のひらに石を置いてやった。

「ターコイズ?」

 瑠璃色の石を手の上で転がしながら美月が聞いた。

「さあ、なんだろう?」

 私は首を捻った。今まで石の材質については考えたことがなかった。この石もあの人同じでこの世界のものではないのだろうと漠然と考えていた。


 それにしても、今日は不思議とあの日の出来事を思い出す。あの洞窟の景色、匂い、音、母の表情、些細な会話の端々までが鮮明に甦る。

 美月に話すなら今なのかもしれない。不意にそんな考えが浮かんだ。

 しかし美月はどう思うだろう。あの夜の出来事を話せば、ばかばかしさに笑ってしまうかもしれないし、第一あんな奇妙な出来事をうまく説明する自信はない。仮に信じてくれたとしても、美月は今までと同じように私を姉と見てくれるだろうかという不安もある。

 私の心は振り子のように行ったり、来たりしていた。

 

「見て!お姉ちゃん」

 石を月の光に翳していた美月が肩を叩いた。

 彼女の指先にある石はさっきまでの濁ったような青から透明度の高い湖のように透き通っている。

「これどういう仕掛けなの?」

 今までこんなことは一度も起こりはしなかった。美月が石に触れたから反応したのだろうか。月光を取り込んで、それを複雑に屈折させて輝く石になぜか薄気味の悪いものを感じた。

「わからない。帰ろう。風邪ひいちゃうよ」

 私が立ち上がると、名残惜しそうにしていた美月も腰を浮かせた。


「リアナ!」

 男の声が何処からか聞こえた。

 いつの間にか黒い雲が月を隠し闇が辺りを覆っている。

 やがて夜の帳を破って声の主が公園の入り口に姿を現した。男だ、それもかなり背が高い。闇に溶け込んでしまうほどの黒い服に身を包み、こちらに向かって歩いてくる。

 私は妹の肩を抱き寄せた。

「誰なの?」

 美月が不安げに聞く。

「わからない。でも危ない奴かもしれない」

 間違いなく危ない奴だ。私の本能がそう叫んだ。

「来ないで! 来たら警察を呼ぶわよ」

 携帯を取り出して男のほうに向けた。しかし男は制止など無視してずんずん近づいてくる。

「逃げよう!」

 美月の手を取り、入り口の反対側に向かって走り出した。

 しばらく来たところで、様子を伺おうと振り返ると、なんと男は手を伸ばせば届くほど近くに居る。距離はまだ十分あったはずだ。ワープでもしたのか? それとも疲れすぎて距離感を誤ったのだろうか。

 私は男と対峙した。自分より背が高い男を見ることは滅多にない。確実に二メートルは超えているだろう。

 男は私など見ていなかった。その緋色の瞳は美月を捉えていた。私は反射的に妹の前に立ちはだかった。

 一瞬、男の表情に怪訝な色が浮かんだ。今、初めて私の存在に気づいたように視線を移した。感情の動きの見えない目だ。きっとこの男はハエを叩きつぶすように躊躇いもなく私を殺す。自分でも足が震えているのがわかった。

 

 フウッ、息を吐き出す音が聞こえた刹那、男の拳が私の腹にめり込んだ。呼吸が止まり、膝から崩れ落ちた。

「お姉ちゃん!」頭上で、美月の声がぼんやりと反響している。

「来るんだ。リアナ。お前はこんな不浄な世界に居てはいけない」

 男が美月を連れ去ろうとしているのが目の端に映った。

 殴られたことで少しだけ恐怖を振り払うことができた。要するにムカついたのだ。

 私はそのままの体勢で男の足に向かってダイブした。だが空を掴んだだけで、顎を地面でしたたかに打った。男は美月を肩に担いですでに十メートルぼど先を歩いている。

 間違いない、あいつはワープしている。

 どうやら顎を切ったらしい。血が地面に滴り落ちた。

「美月!」

 私は叫んだ。肩の上の美月はピクリとも動かない。男が私の方を振り返った。そして片手をすっと差し上げた。するとどうだろう、手品みたいに巨大な黒い烏が闇の中から現れた。烏に跨がった男が美月を連れて飛び立っていく。一連のシーンをあざやかなイリュージョンショーのように、私は呆然と眺めていた。

 

 自分の背後からする獣の唸り声が私を現実に引き戻した。ゆっくり首を回すと、黒い大きな影が私に狙いをつけて低く構えていた。もうそれを犬と呼んでいいのかわからないが、セントバーナードを一回り大きくしたようなその獣は闇の中に白い大きな牙を光らせていた。

 私はゆっくりと立ち上がると、スタジャンを脱いで、丸めて右手に被せた。人間なんて軽く引き裂いてしまいそうなあの牙の前では、大して役に立ちそうもない。

 しかしフットワークを軽くして、最初の一撃をかわして、首をつかむことができたら、なんとかなるかもしれない。

 闘牛士のように身を翻し、犬の首にスリーパーホールドを決める動きを頭の中でシミュレートした。

 犬の目が殺意を帯びて光る。つんざくような雄叫びを上げてそいつが飛び上がったとき、シミュレーションは崩壊した。私は思わず目を閉じ、自分を抱え込むようにその場にしゃがみ込んだ。

「助けて……お母さん」


 断末魔の悲鳴が夜の公園に木霊した。私のではなく犬のだった。焼けた肉の匂いが鼻を突く。黒焦げになった犬の向こうに立っている人の姿をみて、私は声を上げた。

 今はもうフードを被っていなかった。腰まで届くブロンドの髪を風にたなびかせているのは、さっきの占い師だった。



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