覚醒
ローランはロブを縛りあげると地面に転がした。
「どうしてあなたがここに?」
レオが訊ねた。
「最初は北へ向かおうと思ったんだ」
ローランはレオの縄を解きながら話し始めた。
「お前の祖父さんは金と馬をくれた。これで路銀にも困らない。まあ惨めな思いをしたが、どうせ二度と会うことのない連中だ。気にすることはない。そう思っていた。しかし別の俺がこのままで良いのかローランと問いかけるんだ。気がついたら砦に足が向いていた。かといって、今更おめおめと戻るのは気が引ける。それで儀式のことを思い出したわけさ」
「なるほど、だからこの木立に潜んで居たわけですね。でも僕たちが来たとき、どうしてすぐに出てこなかったんですか?」
「この小僧を見たのさ」
ローランはロブの方を顎でしゃくった。
「こいつが使徒の連中と親しく話してるのを見たときに大方の絵図が見えた。それで後付けてみたら、案の定、砦に戻って行きやがった。罠に掛かりにやって来たのがお前らだったのは予想外だったけどな。今から考えてみるとリュロスどもが攻めてこなかったのも、村人を儀式の場から遠ざけるためだったのさ。端から砦を落とすつもりなんかなかったんだろう。そしてこちらの動きをこいつが逐一報告していたというわけだ」
手足を縛られ地面に転がされたロブはふて腐れたように顔を背けた。
「でも良かった。私、ローランがだめになっちゃったと思った。なんだか責任感じてしまって……」
あとは声にならなかった。
「お前のせいじゃないよ。だめになったのは今更じゃない。この十七年間、ずっと俺はだめな男だった。子犬みたいに無邪気にまとわりついてきたお前につい嬉しくなって、あんな駄法螺を吹いちまったけど、俺はあの戦いで騎士の魂を持って行かれてしまったのさ」
「じゃあエルデン川の戦いの話は?」
「あの場に居たのは本当だ。たがハイデン公がアマイモンの爪に掛かった姿をみたとき、足に根っこが生えたみたいに動くことができなかった。それなのにガタガタと震えている俺の横をレストンの馬が駆け抜けていった。彼は躊躇うことなくアマイモンに挑み、その腕を切り落とした。戦士としての格の違いをみせつけられた思いだった」
「でもそれはレストンが魔装剣を持っていたからではないのですか?」
レオが言った。しかし、ローランは頭を振った。
「いやそれは違うな。レストンが仮に並の剣しか持っていなくても、躊躇なくアマイモンに斬りかかっていったと思う。あの男は生まれながらの戦士なのさ」
彼は肩を落として項垂れた。サイクロプスの巨大さがその時の恐怖を呼び起こさせたのだ。アマイモンは彼にとってのトラウマだった。それを引き摺りながら今日まで生きてきたのだろう。彼は戦士には向いていないのかもしれない。しかし、騎士としてはどうだろう。
「あのね、ローラン。別にそれは恥ずかしいことじゃないよ。戦士としてのプライドは傷ついたかもしれないけど、目の前で尊敬する人を殺されたんだもん。誰だって竦んでしまうよ。でもあなたはこうやって私のところに帰ってきたじゃない。やっぱりローランは勇気のある男なんだよ」
私は彼の背をさすった。
「勇気か……そんなものはとっくに品切れになったと思っていたよ」
突然、ロブが笑いだした。
「まったくおめでたい連中だぜ。絶望がすぐそばまでやって来ているというのにな。空を見てみろ」
上空を見上げると、鬼灯のように色づいた裂け目が月を完全に覆い隠していた。ぱっくりと開いたその中心から流れ出た白い煙が暗黒の空に漏れ出していた。
「魔獣が降臨したんだ……」
レオがつぶやきを漏らした。
崖に上がって、目にしたのは巨大な灰色の獣が逃げまどう暁の使徒たちを惨殺している光景だった。一本角にハエの複眼のような赤い目、茶色い腹はゴキブリのように節があった。四本の脚で大地を踏みしめ、二本の太い腕の先にはハイデン公を引き裂いた爪が鈍い光を放っていた。
「アモイモン……」
傍らのローランの顔からは血の気が失せていた。
不思議なことに目の前の恐怖より、ローランの心が再びズタズタにされてしまうことを恐れた。
私は彼の手を握った。死人のように冷たい手だった。
「あれがエルナスに向かえば大変なことになります。急いで戻りましょう」
ロブが言った。
ローランはまだアマイモンを見つめている。
「行こう」
私は彼の手を引いた。しかし彼は静かにその手を降りほどいた。
「俺は後から行く。お前たちは街に戻り、騎士どもの目を覚まさせてやれ。今度は奴らも重い腰を上げるだろう」
彼の顔には血の気が戻り、目には生気が宿っていた。どうやら私の心配は杞憂に終わったようだ。
「あれと戦うつもり?」
「騎士らしい戦い方はできないが、できるだけ足止めをしてみせる」
彼はそう言うとクロスボウを掲げて見せた。止めても無駄だ。これは彼が乗り越えなければならない試練なんだ。
「絶対に戻ってくるんだよ」
私は微笑んだ。
ローランは口笛で馬を呼び寄せると「行ってくる」と言い残して走り去った。
崖から降りると、レオがロブの縄を解いてやっていた。
「ロブ、君の仲間は皆魔獣に殺されたよ。これでわかったろ。あれは神なんかじゃないんだ」
しかし、ロブはレオを突き飛ばすと、崖に向かって走り、よじ登り始めた。
「だめだ。そっちに行くな。殺されるぞ!」
レオは叫んだ。だが彼は振り向かなかった。
「新しい世界が創造されるんだ!」
ロブの喚く声だけが虚しく耳に残った。
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「僕は砦に報せに行きます。夏美さんは街に向かってください」
「わかった……」
私は手綱を引き絞り、エルナスに向けて馬首を返そうとした。しかし、いつもは素直なこの子が言うことを聞かない。嫌々とするように首を振り抗う。
(お前には嘘をつけないみたいね)
「ごめん。やっぱり放っておけない」
後ろで何か言っているレオを振り切るように、ユリシーズを走らせた。崖に沿って走ると、少し低くなっているところが見つかった。ユリシーズは前脚を小さくたたむと、崖の上に飛び上がった。
ローランはアマイモンの周りをグルグルと回りながら、クロスボウを射かけていた。灰色の魔獣は巨石をなぎ倒しながら、そのあとを追いかけている。
何本もの矢がアマイモンに突き立っていたが、弱っている様子はなかった。もとより彼の狙いは倒すことにはない、出来るだけ長くアマイモンをこの場に引き留めておくことにある。
崖を降りようとしたとき、黒いローブの男がフラフラッと立ち上がるのが目に入った。男はおぼつかない下半身をようやく踏み固めると、ゆっくりと両腕を交差させはじめた。私が倒したオークメイジの姿がダブる。
「魔法だ! ローラン、魔法が来る!」
叫んでみたが、声が届いた様子はない。
「行くよ、ユリシーズ」
私の勇敢な黒い馬は躊躇うことなく、切り立った崖に脚を踏み出した。両足に力を入れしっかりと胴を挟み込むと姿勢を低くした。
(お願い、間に合って……)
私はユリシーズのたてがみに額を擦りつけて祈った。
稲光がした。思わず顔を上げると、ローランが馬から転げ落ちるのが見えた。次の瞬間ユリシーズが脚を踏み外し、バランスを崩した。ガクンと視線が下がる。私は馬の首にしがみついた。ユリシーズはそれでもなんとか体勢を立て直した。ローラン?私の視線は彼を追った。
全身が震えた。アマイモンは黒々とした爪でローランの半身を握り潰そうとしている。
「殺してやる」、私は背中の剣を引き抜いた。
「聞け! 剣に宿りし魔よ。あんたがなぜいつまでも引きこもっているのか知らない。でもお願い、私のすべてを奪っていいから、力を貸して」
何事も起こらなかった。諦めかけたとき、風の音が不意に已んだ。
耳の中が空っぽになり、いままで視界にあったものがすべて消えた。
――まったくめちゃくちゃな女だな。お前が相手にしようとしているのは、魔獣の将軍だぞ
深夜のFMラジオのDJみたいな渋い中年の声だった。
――ビビってるの?
――あんな小僧に俺がビビっているだと? 甘くみるな
――だったら力を貸してよ
――俺がエミリアから頼まれたのは、お前の命を守ることだけだ。勝手に死にに行く奴の面倒まで見切れん
――なんだ、高位の魔獣っていうからもっと凶暴で好戦的なのかと思ったけど、がっかりだな
魔獣はからからと笑った。
――徴発しても無駄だぞ。お前を依り代にすることはエミリアから固く止められている
――なんで?
――さあな、たぶんお前のことを気に入ってるんだろうよ。だから今のお前を壊したくはないんだろう
――依り代になると、私が壊れるの?
――強大な力を手にすれば、自分が自分でなくなる。いずれ俺の魔獣の本性がお前の理性を食い尽くすことになる
――ふふ……甘く見てるのはどうやらあんたの方ね。私はそんなにやわじゃないよ
少なくとも美月を取り返すまではおかしくなってたまるか。
――誰もがそう言う。しかし、悪魔になった自分に気づいたとき、泣き叫び、神に許しを乞う。やがてそれが叶わぬとわかると狂い死にする
――まるで見てきたようね
――一皮剥けば人間も魔獣なのさ。愛だの理性だのごたくを並べてその本質から目を逸らしているに過ぎない。ひとたび大義という便利な言い訳を与えられれば、その本性を剥き出しにする。神のため、信仰のため、国のため、殺し合う。自分たちの愚かな歴史を顧みれば心当たりがあるだろう
言い返す言葉が見つからない。しかしここで引き下がればチャンスを失う。
――魔獣の割にはご立派なことを言うのね。でも、私は人類の罪を背負っているわけじゃない。人間の本性が魔獣だって? それならそれで結構。私は妹を取り返し、ローランを助けるためなら何にだってなってやるさ。もう議論はたくさん、私を依り代にするつもりがないなら、消え失せて!
沈黙が訪れた。さすがに言い過ぎたかと思ったとき、低いため息がその空間に響いた。
――しかしな……あいつがなんというか……
――ずいぶん、エミリアに義理だて、するのね。あれ?ひょっとして、惚れてたりする?
――ばっ! 馬鹿いえ。誰があんなくそ女を。あいつは俺をペテンに、掛けてこのけんに閉じ込めやがったんだぞ!
魔獣はわかりやすいくらい動揺していた。
――じゃ、決まりね。
――ほんとに後悔しないだろうな?お前は魔と精神の一部を共有することになるのだぞ
――構わないよ。でもひとつだけ、聞いていいかな?契約の代償として、具体的に私はなにを支払うの?ほら見た目が化け物ぽくなるとか、力を使うたびに寿命を一日づつ削られるとかさ
――んなもん、ねぇよ!ただ……
――ただ?
――俺を退屈させるな!
風を切る音が再び耳に流れ込んできた。私の意識は馬上に戻っていた。
アマイモンの巨体が近づいている。右手の爪にはローランを引っ掛けていた。彼はそこから逃れようと必死でもがいている。
ユリシーズは脚をさらに速めた。この子は何も言わなくても自分のやるべき事を心得ているのだ。
「ユリ、きついの一発ぶちかましてやろう」
私はアマイモンの右の手首に狙いを定めた。魔獣の左手が振り下ろされるのが見える。
ユリシーズは矢のような早さでそれをかいくぐった。だらりとぶら下がった手首目がけて剣を振るった。ゴロリとローランを掴んだ手首が地面に落ちた。
すぐに馬を返すと、ローランの腰のベルトを掴んで引きずり上げる。
「腹に穴が空いてるんだ。手荒に扱うな」
荒い息を吐きながらローランが薄目を開けた。
彼を連れてこのまま逃げるべきか。しかし今ならこいつを倒せる。
迷っていると、背後から足音が聞こえた。服を赤土まみれにしたレオだった。
「さすがにあの崖を馬で降りる勇気はありませんでした」
どうやらこいつもとびきりの馬鹿らしい。
「ローランを街に運んで、私はあいつを仕留める」
手綱をレオに渡すと、ゆっくりとアマイモンに近づいていった。
小学校の校舎ほどの高さにある魔獣の頭を見上げた。
「左、右、左」私は助走を開始した。動き出すと、身体に叩き込んだ感覚が甦る。何本も何本も足腰が立たなくなるまで、コーチの上げるトスを打ち込んだ日々。
魔獣が大きく息を吸い込んだ。何がくるのかはもうわかっていた。避ける必要はない。
口から吐き出された炎は青い光がすべて跳ね返した。
「左、右、左!」力強く踏み切った。宙に舞った身体を大きく弓なりに反らす。剣を握った右手が耳をかすめた。ブロッカーの頭上を越えた瞬間に見えた相手コートの景色。それと同じものが見えた瞬間、右手を叩きつけた。




