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勇敢な追跡者の物語  作者: tori
エルナス編
2/88

占い師

 終業のベルがけたたましく鳴り、コンベアが停止した。機械の一部から人に戻れる瞬間だ。手早く身の回りを片付けると日報に必要な事項を記入した。誰とも話さないし、目も合わさない。ラインに並んでいるのは、臨時雇いの期間工と派遣社員ばかりだ。同じ機械の一部でありながら、私たちは地下鉄の車両に乗り合わせた乗客程度にも、互いに関心を抱くことはなかった。

 

「高原ちゃん、お疲れのところ悪いけど帰りに事務所に寄ってくれないかな」

 ラインを離れようとしたとき、職長が私の肩を叩いた。

 気味が悪かった。口に泡をためて、下から私を見上げている。カニのように目と目の間が離れた顔を歪めているのが、笑顔のつもりだと分かると、余計に気持ちが悪い。

 私は人の好悪を容姿で判断するつもりはない。ただこの男の醜悪な顔つきが、その卑しい心根を映し出していることが、たまらなく嫌だったのだ。


 作業場を出ると狭い廊下の突き当たりにある事務所に向かった。

 いったい何の話だろう。

 いつもは帰り際に、嫌味の手土産をたっぷり持たせてくれる職長が今日はやけに低姿勢だった最近は仕事にミスはなかったはずだ。思い当たる節がないまま私は事務所のドアを開けた。 

「わざわざ呼び立てて悪かったね」

 当直の主任は椅子を勧めた。

「友達と待ち合わせているので」と、私は断った。

 一刻も早く家に帰りたい。長話は勘弁してほしい。それでなくてもこちらは早朝から働きづめなのだ。

「じゃあ単刀直入に言うね。申し訳ないんけど、契約は今月いっぱいで終わり、更新しないことになったんだ」

 主任はそれほど申し訳なくもなく事務的に伝えた。

「話が違うじゃないですか! 前に聞いたとき当分は忙しいって言ってましたよね」

「上の方で生産計画の見直しがあってね。それで現場の人数を調整しろって言ってきたんだ」

 要するに、俺のせいではないということらしい。

「高原さん、よく頑張ってくれてるから続けてほしかったんだけどね。残念だよ」

これからクリスマスに向けてケーキの予約も始まる。忙しくないわけはない。職長の意味深な笑顔の謎が解けた。

 何が気に入らないのか、あの男は最初から私を目の敵にしていた。小さなミスをいちいち大げさに指摘し、影でコソコソと私の悪口を触れ回っていた。私のことを北京原人と呼んでいることも知っている。女にしては並外れて高い私の身長をからかっているつもりなのだろうが、さすがに同僚からそれを教えてもらったときはへこんだ。身長のことではずいぶんとからかわれたけど、北京原人は酷い。

 まあ四の五の言ったところでどうなるものでもない。私たち期間従業員の契約は三カ月単位なのだ。契約を延長するかどうかは向こう次第、こちらの事情など一切斟酌されない。

「失礼します」

 ぶっきらぼうに言うと背を向けた。

 入り口脇のテーブルの上のプラケースに美月の好物のダブルメロンロールとベーコンマヨネーズパンが残っているのが目に入った。輸送中の事故品や誤配品を半額以下で売っているのだ。

「主任、これもらいますね」

 私は振り返ると小銭を机の上に置いた。この恩恵とも来月でおさらばだ。


 狭い廊下に出ると、すでに帰り支度を済ませた連中と出会した。その中に職長がいた。

「何の話だったの?」

 白々しく奴は私に訊ねた。

「望み通り今週いっぱいで首ですよ」

 挑発に乗れば相手の思うつぼ、向こうはこっちの落ち込んだ顔を期待しているのだ。できるだけ冷静な口調で答えた。

「これから忙しくなるってのに、上は何を考えているんだろうね」

 社員に逆らう奴はこうなるんだぞと言いたげに、周りの連中を見まわした。

「そうだ! 窯出しはどうかな? 高原ちゃんのガタイならいけるでしょ」

 焼き上がったパンを竈から出す仕事で男子ばかりの職場だ。

「あっ、そうか高原ちゃん、女子だったよね。つい忘れちゃうよ。めんごめんご」

 私は奴を見下ろすように立った。身長差は二十センチほどある。奴の目に恐怖とも戸惑いともつかぬ色が宿っていた。どうやらこの身長差がコンプレックスを刺激していたらしい。

「おおっ、こわっ!」

 職長は目を逸らした。

 殴ってやろうかと思ったが、どのみちもう関係のない男なのだ。すっぱりと記憶から抹殺すればよい。余計な思い出なんか一筋たりとも残したくないし、残してほしくもなかった。


 むしゃくしゃした気分で工場を出た。どこかでやけ酒でも煽りたい気分だが、私にはそんな余裕はない。今は一円だって惜しかった。

 たった四時間とはいえ、昼間の仕事を終えて一息ついてから入れる重宝な仕事だっただけに、契約を延長してもらえなかったのは痛い。この年末にすぐに仕事が見つかるのかと考えると憂鬱になる。

 女がやれる夜の仕事となると限られてくる。コンビニや終夜営業のファーストフードの店員。どれも経験済みだったが、あまり割の良いバイトとは言えなかった。短時間で稼げそうな仕事といえば、水商売くらいしか思いつかなかった。キャバクラという考えが一瞬頭をよぎったがすぐに打ち消した。身長百八十センチもあるキャバ嬢に需要があるとは到底思えなかった。それに接客業など私にもっとも不向きな仕事だ。


 金が欲しい。妹の大学の推薦も決まった。初年度の払いができる程度の用意はあるが、そこから先の目途は立っていない。授業料や小遣い、諸々の費用を考えれば昼間の弁当屋の稼ぎではとても追いつかない。

 かといって、美月にはアルバイトなんて絶対にさせたくはなかった。あの子には明るくて、希望に溢れた何不自由ない青春を送ってほしい。それはけして私の手には入らないものだからだ。

 商店街のアーケードに入ると、あちこちで酔っぱらいどもが気勢を上げていた。そろそろ忘年会シーズンか、気楽なもんだとひねこびた視線を投げつける。この年末に職を失う惨めさに溜まらなくなり、私は足を早めた。


「珍しい人相をしているな」

 アーケードを抜けて大通り入ろうとしたとき、出し抜けに声をかけられてギヨッとした。

 紫色のフードをすっぽり被った女が私を見上げていた。ビール箱を重ねて上から白い布を被せた台の上には水晶玉やタロットカードといかにもそれらしい小道具が置かれている。占い師らしい。

 こんな寒い夜に道ばたに店を出していても客なんて来るのだろうか。いや来ないから、いかにも気を惹きそうな言葉をかけてきたのかもしれない。


「占いなら用はないよ……どうせ私の人生なんてろくなもんじゃないだろうし」

「さあ、それはどうかな」

 からかっているのか、馬鹿にしているのか表情が見えないから判然としない。

「波風の立たぬ人生、それを良い人生とい呼ぶならお前の人生は最悪だろう」

 イラッときた。

「ケンカ売ってる? こんな寒空に商売してる奴に人生最悪なんて言われたくないよ。他人の人生を茶化してる暇があったら、自分の人生を占いなよ」

 自分で言いながら、嫌悪感がこみあげてきた。もし母が生きていたら張り倒されていただろう。

「そうカリカリするな。ほとんどの人間は波間に漂う小舟のようなものだ。薙いだときには穏やかな人生を送ることができるが、ひとたび嵐に遭えば抗う術を持たない。少なくともお前は自分自身で運命を切り開く強さを持っている。そういう人間は希なのさ」

 ヘッドライトがフードの中の顔を照らした。

 深く碧い瞳が射すくめるように見つめている。それは私の中の何かに焦点を合わせているようで思わず後ずさった。

 ポケットに突っ込んだ千円札を置くと、逃げるように立ち去った。


 自販機でホットコーヒーを買い、近くの公園に足を運んだ。ベンチに腰掛けて、両手で缶を包み込み冷えた指先を温める。

 ——いったいあいつは何だったのだろう。

 あの占い師は私の記憶の扉に手を掛けたような気がした。洞窟を出てから、私も母もあの出来事について一切触れなかった。他人に話すことはもちろん、私と母の間ですら話題にしなかった。母が洞窟のことを口にしたのは亡くなる直前だった。

 学校帰りに病院に立ち寄った私に母は、「いつか誰かが美月を迎えに来るような気がするのさ。どんなことがあってもあの子を手放してはいけないよ。お前と美月はこの世界でたった二人の姉妹なんだ」と、私の手を取り言った。

 結局、それが母の遺言になった。


 月を見上げた。冬の澄み切った空に浮かぶ月は氷ついたように青かった。孤独で寒々しく、哀れなほどに美しかった。美月を抱き上げた母の横で見上げた月と同じだった。

 私はポケットにしのばせた石ころを取り出した。くすんだ瑠璃色の丸い小さな石。こうやってまじまじと見るのは久しぶりだった。美月を抱いていたあの女の人が消えると、この石だけが遺骨のように残っていた。私はそれを肌身離さず持ち歩いている。

 これは美月が持つべきものだ。いつかあの子に渡さなければならない。そのときには私が見たことを話さなければならないだろう。


 


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