胎動
「お父さんはいつ帰ってくるの?」
「もうここには帰ってこないのよ。天国に行ったんだ」
私は五歳、母は二十二歳だった。
貧乏子だくさんの家に生まれ、愛情の欠如した両親に育てられた母は、中学を卒業すると、追い立てられるように近在の工場に働きに出された。自動車の部品を作る工場でのライン作業、朝から晩まで立つずくめの毎日だった。仕事から解放されても待っているのは、意地の悪い先輩女子工員との寮の相部屋だ。
そんな時に出会ったのが同じ工場で働く父だった。
「とても背が高い人だったのよ。よく鴨居に頭をぶつけてね。ほんとにぼんやりした人だったわ……きっとお前は父さんに似たんだろうね」
母は父の思い出を語るとき、とても優しい目をする。
父も似たような境遇の人だったらしい。幼い頃に両親を失い、親戚の家をたらい回しにされて育った。二人は見えない何かに導かれるように惹かれ合い。それぞれがお互いの欠けた一部だと信じるようになった。
やがて母は私を身籠もり、二人は誰からも祝福されない結婚をした。
古い文化アパートで始まった二人の暮らし、それは母の女としてもっとも幸せな時間だった。
しかしそれも長くは続かなかった。父が急死した。心筋梗塞だった。
悲しみに浸っている暇もなく、生活の苦しさが母に襲いかかってきた。僅かな貯金はすぐに底をついた。幼い私を抱えて働くわけにも行かず、実家をあてにすることもできなかった。とうとうアパートの家賃すら払えなくなり、そこを出て行くことになった。
隣の部屋のおばさんが母の手に一万円札を握らせて「どんなことがあっても挫けちゃだめだよ」と励ましてくれた。母はそのお金を持って街に出た。師走のごった返す人混みの中を私の手を引きながら、駅前のデパートに入った。子供服売り場で私に赤いダッフルコートと毛糸の手袋を買い、レストランで食事を取った。そして屋上の遊園地で私を遊ばせ、ベンチでそれをぼんやりと眺めていた。
「閉園の時間ですが?」
係員が母に告げた。
母は私を抱き上げると、屋上を出た。
「ねぇ、お家に帰るの?」
「ううん。父さんのところに行くんだよ」
私たちはバスに乗り、街を後にした。
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それはやはり現実だった。
目が覚めてもそこは砦のゲストルームだった。誰かが運んでくれたのだろう。記憶はすっぽりと抜け落ちていた。起きようとしたが、まるで身体に力が入らない。
絶望、落胆、裏切り、失意、恥辱、今の私の状態を形容するのにどれが一番相応しいのだろう。
母もあの時、ちょうど私と同じ歳だった。幼い娘を道連れにして死のうとした母を責めることなどできない。
私だって同じなのだ。美月のことは半分以上諦めている。この世界では私は無力なでくの坊にすぎない。いや向こうの世界でだって同じか。そう思うと笑いが込み上げてきた。
「良かった。目が覚められたのですね」
長椅子のほうを見ると、レオが微笑んでいた。
「生きていたんだね」
「ええ……でも多くの人が命を失いました」
レオは表情を曇らせた。
「まさか……ティレル公は?」
「祖父は無事です。しかしサー・イーリンは亡くなりました」
「ジョンは?」
レオは首を振った。
「喧嘩ばかりしていたけれど、幼なじみでした。ずっと一緒に育ったのです。兄弟の居ない僕には兄のような存在でした。彼は最後まで勇敢だった……」
最後に私が見たのは彼が殺到するリュロスに突撃する姿だった。あんな小面憎い奴がなんで……一筋の涙が頬を伝った。
「他にも村人が十人以上亡くなりました。砦はなんとか守れましたが、あまりにも払った代償が大きかった……今、温めたワインをお持ちします」
次の間の方に歩き始めたレオが扉の前で振り返った。
「サー・ローランのことはお聞きにならないのですか?」
気は進まなかった。彼が生きているにせよ、死んでいるにせよ、聞くのは勇気が要る。しかし、私には知る義務がある。彼をここに連れてきたのは私なのだ。
レオがホールで助けを求めたとき、彼は他の騎士たちと同じようにやり過ごそうとした。私が煽るような目で彼を見なければ、あんな醜態を晒すこともなかったはずだ。
「彼はどうしてるの?」
少し声が震えていたかもしれない。
「今朝、坑道を通って砦を出て行きました。祖父は彼に馬とお金を与えました。少なくともここに来る勇気を示してくれた謝礼としてね」
哀れなローラン。すべては私の軽率な行動のせいなのだ。
「私も消えるべきかな?」
「貴方がそう望むなら……脅威はまだ去ったわけではありません。リュロスは退却しただけで、再び攻めてくるでしょう。もう次は持ち堪えることはできません。ここを去るなら今を置いて他にはない。しかし、その前に祖父が貴方に会いたいと言っています。目を覚ましたら報せるようにと言われているのです」
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温かい蜂蜜入りのワインのおかげで、少しは気分が落ち着いた。手ぐしで髪を整えると、レオに従いティレル公の部屋に向かった。
ティレルは机に向かい、背を丸めて書き物をしていた。たった一日で十歳も歳をとったように見えた。それでも私に気づくと、快活な笑顔をつくってくれた。
「君はほんとによく眠る。歳を取ると眠れないんだ。眠ったとしても浅い眠りしか訪れない。うらやましいことだよ」
彼は窓際に立ち、外を見た。
「ここには昔、立派な庭があってね。わしとイーリンはよく剣術の稽古をしたものさ。十回やれば七回はわしが勝った。たまにイーリンが勝つと、わしの父、老ティレル公は手を叩いて喜んだ。父はわしのような小賢しい小僧よりもイーリンの真っ直ぐさを愛していた。わしが領地の大半を失い、騎士たちに俸禄を払えなくなったとき、イーリンだけが残った。そのイーリンも今は居ない」
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
「君が謝る必要はない。騎士にとって戦場で死ぬことは本望だ……君を呼んだのはこの剣を返すためだ」
彼は壁に立てかけた剣を取って、私に差し出した。
「それには及びません。その剣は貴方が持つほうが役に立ちます」
「なぜかね?」
「その剣は私には宝の持ち腐れです。だって私には魔操剣を使う才能なんてないんだから……」
ティレルはふっとため息を付くと、椅子に腰を沈めた。
「君はどうやら勘違いをしているようだな。世の中に魔操剣を使う才能のある人間など居ない。使う相手を選ぶのは剣の方なのだよ」
「でもあなたはこの剣を使ってみせたじゃないですか!」
私は声を荒げた。もちろん自分の不甲斐なさに対してだ。
「わしは子供の頃から魔操剣を扱っていた。剣と意思を通じ合うコツを知っているのさ。だからこいつを少しけしかけてやったのさ。このままだとお前が依り代にと見込んでいる娘は壊れてしまうぞってね。それでこいつは渋々力を貸したというわけさ」
ティレルは剣を指先で叩いて見せた。
「依り代? 私が?」
「そうさ。魔操剣の使い手とは、言ってみれば剣に封じ込められた魔獣の依り代になることのだよ」
「じゃあ、私は暁の使徒みたいに魔獣になっちゃうってこと?」
「多少の違いはあるが、原理は同じだ。元はエルフの古魔法なのさ。エルフたちはその魔法で先祖の霊を黄泉の世界から呼び出すことができた。人間がそれを使えるようになったのは、あの渦巻きが空に現れたからだ。あれを通じることで、魔導師たちは魔獣を魔界から召還した。しかし、高位の魔獣ともなれば、そのままの姿でこの世界に顕現することはできない。何故かは知らんがね……それで依り代となる人間が必要になる。依り代が死ねば魔獣も元の世界に戻るしかない。もっとも、そのおかげでオークやリュロスのように高位魔獣が繁殖しないですんでいるわけだ」
少しづつ疑問が氷解していく。
「そうか!魔装剣の場合は依り代を剣に見立てるわけなのね」
「その通り、剣なら魔獣に人格を乗っ取られる心配はない。普段はそこに閉じ込めておき、必要なときだけ魔獣を自分に憑依させれば良い」
「でも何故剣が人を選ぶんですか? それはどういう意味なの?」
「高位の魔獣といっても、所詮は魔だ。強大な力を誇示し、それでもってあらゆるものを破壊することを好む。恐らくだが、彼らは自分にとって最大に力を発揮できる人間を依り代として選ぶのだろう。どういう基準で選んでいるのかはわしには解らんがね」
ティレルの話ではこの剣に棲む魔獣は私を依り代にしたがっているらしい。しかし、私にはそれを知る術はない。彼と話したいと思った。
「魔獣と意思を通じる方法を教えてください」
ティレルは目を細めて、顎を撫でた。
「コツというものを口で説明するのは難しいものだ。一つだけ言えるとしたら、強い感情の揺れかもしれない。相手を殺したい。この世から消滅させたいという強い意志が沸き上がったとき、魔は立ち現れる。もっともそれは己自身を魔にしてしまう危険を秘めてはいるが……」
オークと戦ったとき、私は助けて欲しいと強く念じた。そして剣は効力を発揮した。しかしあれはこの剣が依り代である私を殺させないために過ぎなかったんだ。魔と意思を通じるために、何をすべきかが朧気ながら見えた気がした。
「さあ、受け取りなさい。これでお別れだ」
ティレルは私に剣を差し出した。
「貴方はこれからどうするのですか?」
「ロブが儀式の場を突き止めた。そこを潰す。君は村人たちと坑道を使って逃げなさい。リュロスの数が減っている今が好機だ」
私は大切なことに思い当たった。
「ティレル公、あなたの魔操剣は?」
「祖父は魔操剣を売ったのです。あの戦争で家や田畑を失った領民を救うために」
今まで黙っていたレオが言った。
「いずれにせよ、もうわしには必要のないものだったのだ。さあ行きなさい」
ティレルは扉を指差した。
すでに降魔が完了していたら、彼はどうやって戦うつもりなんだろう。
死のうと思っているんだ。私は直感した。
「その役目は私にやらせてください。貴方にはまだまだやるべきことがあるはずです。レオのことはどうするのですか? 村の人たちは?」
「君はまだその剣を使えるわけじゃないんだ。剣の魔獣だっていつまでも君の命を助けてくれるとは限らないんだぞ」
ティレルは強い語調で言った。
「でもヒントはもらいました。それに私はやらなければならないんです」
「なぜかね? 名もなき村のために、君がなぜ命を賭ける必要があるのかね?」
「私がこの世界に来たほんとうの目的のためです」