砦3
「随分と立派な部屋なのね……」
案内された二階の寝室は高級ホテルのスィートかと見紛うほど豪華だった。砦の中にこんな部屋があるとは予想だにしなかった。
「気に入って頂ければ幸いです」
黒いシルクのベストとズボンに着替えたレオが微笑んだ。
白いシャツがよく似合っている。
「ここは元々、ハイマン家の別邸だったのです。僕の曾祖父の老ハイマン公が隠居した折りに建てたもので、素晴らしい庭が自慢だったのですが、あの戦いの時に砦に改造されて、今はその庭もありません。ゲストルームだけはそのまま残りました」
なんとか公ってかなり偉い人だったはずだ。とするとレオはやっぱり相当な家柄の子弟ということになる。道理で、貴公子然とした格好が似合うはずだ。白いシャツが眩しい。
「でも今は戦いの最中なんだから、なんだか申し訳ない気がするよ」
「そんなことは気にする必要はありません。夏美さんはハイマン家の客人なのですから」
レオはベッドのシーツを整えはじめた。
「まさかそのベッドに寝ろっていうんじゃないよね?」
私は真っ白なレースの掛かった天蓋つきのベッドを指して言った。
「何か問題でも?」
「大ありよ。下の広間の雑魚寝で構わない。けが人だっているんだし、その人達にこの部屋を使ってもらう方がいいよ」
正直にいえば、根が貧乏性なのだ。こんな広い部屋では逆に落ち着かない。せいぜい六畳間くらいが、私がゆったりと寛げるスペースなのだ。
ずっとそういう暮らしをしてきた。
母と私と美月の三人の暮らしがスタートしたのは、金型工場の二階の六畳間だった。小さな炊事場とトイレが付いているだけで、お風呂は工場の隣の社長さんの家によばれに行く。すきま風の吹く安普請の狭い部屋だったが、何より家賃がいらないのがありがたかった。
母は夜遅くまで油まみれになって働いた。その間、私と美月は社長さんの家で奥さんと過ごした。子供に恵まれなかったこともあって、社長さん夫婦は私たちをとても可愛がってくれた。夕食をご馳走になり、お風呂に入ったあと、母子三人で部屋に戻る。そんな小さな暮らしが私たちにとって、何よりも平安で幸福だったのだ。
レオは私の抗議などまるでお構いなしにベッドメイクを続けた。
「祖父はあなたとサー・ローランを客としてもてなすように言いつけたのです。我々の苦境に手を差し延べてくれたあなた方への敬意を示したのです。夏美さんを広間で寝かせることになれば、ハイマン家は恥をかくのですよ」
レオはちょっとむっとした調子で言った。
「貴族の面子ってやつ? 厄介だなぁ。私は正真正銘の庶民だから、こんな広い部屋で一人で寝るのに慣れていないんだ。いつもは妹と布団を並べて寝てるんだもん」
「心配入りませんよ。僕は次の間に控えているので、ご用があればいつでも呼んでください。祖父からあなたのお世話をするように言いつかっているのです」
取り付く島もない。
「あっ、それならこうしようよ。レオもこのベッドで寝ればいい。これだけ大きなベッドなら余裕でしょ」
用事を済ませて部屋を出ていくレオに言った。
「なっ……何を言ってるのですか! あなたはレディなのですよ。少しは慎みを持ってください」
レオは顔を真っ赤にして目を伏せた。
「ええ!? お姉さんさみしいなぁ……」
思春期の男の子をからかうのは悪趣味だとわかっているのだが、レオの反応が可愛くて、つい柄にもなく甘えた声がでた。レオはいかにも困ったという風情で、しばらくドアの前に佇んでいる。
「仕方ないですね……では僕はその長椅子で眠ります。夏美さんはベッドで寝てください……それなら寂しくはないでしょ?」
なんとも可愛い妥協案を見つけてくれたものだ。
「ありがとう。そうしてもらうと助かるわ」
私はとびきりの笑顔で答えると、剣帯を外し、トレーナーを脱いだ。パジャマなんてものはないし、かなり汗臭いトレーナーで綺麗なベッドに入るのは気が引ける。
ふと、気づくとレオの大胆な視線に気づいた。少年とは言っても相手は男の子だ。下着姿をガン見されるのはやっぱり恥ずかしい。
レオも私の反応に気づいて慌てて目をそらした。
「申し訳ありません……でも……その……夏美さんは本当に庶民なのですか? 庶民の娘はそんな白くて綺麗な肌をしていないと思います。みんな日に焼けてしみだらけです」
私の肌が特別綺麗というわけでもないのだが、確かにこれまで見かけた女性達はどれも煤けたように汚れていた。入浴という習慣がないせいなのかもしれない。
「庶民といっても、色々あるでしょ? 私の父は商人でお金持ちなのよ。だから労働なんかとは無縁に育ったの」
私は恐ろしいくらいの滑らかさで、嘘をついた。
異世界から来たということは、ニューヨークの街角で、「日本から来たのよ」なんて気軽に言える話ではないのだ。
文化は愚か、価値観すら全く異にする人たちを私は相手にしている。ローランは笑い飛ばしてくれたが、この少年はやけに好奇心が強そうだ。下手なごまかしは、彼を刺激するだけだろう。
それにあの渦巻きは、こちらの世界の人にとっては災いの象徴でしかない。そこを通って来たなんてことは、無用な警戒心を招きかねない。
「では、その剣帯はどうしたのですか? それは諸侯クラスの騎士が持つものですよ」
思わぬツッコミに私はちょっとだけ怯んだ。
「これは私の恋人から贈られたものなの。事情があって今は離ればなれだけど、彼が自分を忘れないようにとくれたのよ」
これは半分くらいは真実だ。
「そうでしたか……疑るようなことを聞いてごめんなさい」
納得してくれたのか、レオはぺこりと頭を下げた。
「いいのよ。どう考えたって私って怪しいものね」
「でも夏美さんのご両親は心配しておられるのではないですか?」
「残念ながら両親は亡くなったの。それもあって家を飛び出したわけ」
レオの表情が一瞬曇った。
「そういえば、レオのご両親はどうされているの? 別の所に居られるの?」
彼は押し黙ってしまった。
「ごめん。余計なこと聞いてしまったかな」
「いえ……構いません。僕の両親は異端信仰に係わったとして処刑されたんです」
二の句が継げなかった。
「暁の使徒というのをご存じですか?」
私は無言で頷いた。
「父は学者で、魔獣について研究していたのです。魔獣の研究は教会により厳しく制限されています。公にされている事実は教会に都合の良いことばかりで、価値のある史料はすべて禁書扱いでした。学者として父はどうしても真相にたどり着きたいと考え、暁の使徒に接近したのです。彼らは魔獣に関する知識を豊富に持っていますから。見返りに父は迫害を受けていた彼らに保護を与えました。彼らを領地に住まわせ、生活の面倒を見てやりました。父は優しい人でしたから、彼らに接するうちに、彼らの身の上に深く同情したのでしょう。父に保護を求める暁の使徒の者たちが二人、三人と増え、かなりの人数になったのです。そのうち密告する者が現れ、ある日父は捕縛されました。そして母も僕も牢に入れられました」
「酷い! どうして家族までそんな目に合わないといけないの?」
「異端に係わった者の家族も同罪なのです。教会は魔獣に関する都合の悪い事実が世間に少しでも漏れることを恐れているのです」
私たちの世界でも同じような歴史があったことを私は思い出した。
「それでどうなったの?」
「父と母、それに捕まった暁の使徒の者たちは火あぶりになりました……」
私は彼の肩を抱きしめた。小さな肩は可哀想なくらいに震えていた。
「もういいよ。わかった」
私の言葉に彼は首を振った。
「いえ……聞いてください。祖父が助命に奔走してくれたお陰で、僕だけが助かりました。祖父は十七年前の戦いの英雄でしたから、教会も無碍にはできなかったのでしょう。その代わりに領地の大半を教会に寄付し、騎士の身分も失いました……祖父はそれ以来、父の研究を引き継いでいるのです。父の書き残したものはすべて焼かれてしまいましたけど……」
「だから君も学者になりたいわけか」
「本来なら異端に係わった男の息子は大学への入学は許されないのですが、父の親友が学長をしている大学に入れることになったのです」
レオは少しだけ笑顔を見せた。
彼の祖父ティレルも、そして彼も強い人だ。禁断の研究を続ければ、いずれ自分たちの身にも危険が及ぶかもしれない。
それでも彼らは、自分の息子の、父親の果たされなかった意思を継ごうとしている。共感を覚えずには居られなかった。
私も受け継いだ大切なものを守るために此処に来たのだ。リアナから母へ、母から私に託されたもののために。
私は彼らのように強くはない。半ばやけくそと成り行きで此処まで来た。それでも彼らは私の同志なのだ。
「ねぇ、やっぱり一緒に寝よう」
私はベッドの方を顎でしゃくった。
「人にはね、どんな言葉よりただ温もりが欲しいだけのときがあるんだ。他人の体温を感じる、それだけで癒やされることもある」
「でも……それは一人前の男子として……」
モゴモゴとまだ何か言おうとする、レオの唇を私は指で塞いだ。
「お母さんというのはさすがに無理があるけど、お姉ちゃんと思えば問題ない」
私は躊躇うレオを抱え上げると、そのままベッドの上に放り投げた。
(君はまだ時には甘えていい年頃なんだ。きっとそのうち、もっともっと強い男になる、その日まではね)