砦1
ユリシーズは夜を駆け抜けていく。
二人を乗せているにもかかわらず、ペースは少しも衰えなかった。
軽く馬腹を締めてやるだけで、すぐに反応してくれる。
ローランは気性の荒い馬だと言ったが、むずがることもなく、背を預けてくれた。きっとこの馬とは相性が良いのかもしれない。
ローランが後方から追ってくるのが見えた。
彼の老いた馬は少し走らせると、すぐに息があがる。それをなだめながら何とか走らせている。さすが人生の半分以上を馬上で過ごしただけのことはあるなと感心した。
「砦はまだ遠いの?」
覆いかぶさるように手綱を操りながら、少年に尋ねた。
「あと少しです。あの林を抜ければ見えてくるはずです」
黒い木立を指さして言った。
すでに一時間ほどは馬を駈けさせている。少年はこの道のりを走ってきたのだ。かなりの距離のはずだ。それだけ必死だったのだろう。
「レオナルド君、君はいくつなの?」
「レオで構いません。今年の生誕日で十三歳です」
私の胸が背中に当たるのを気にしているのか、小柄な体を余計に小さく丸めて、彼は答えた。
「ということは中一か」
「ちゅういち?」
さすがにこういう言葉は翻訳されないらしい。
「私の国の学校のことよ。君くらいの歳になれば通うの」
「それ以前はどうのようして学ぶのですか?」
「うんやっぱり学校かな。四歳くらいから幼稚園、小学校、中学校みたいに年齢に応じて通うの」
「そんなに幼い頃から、学校に行くのですか。この国では考えられないことです」
「レオは勉強が好きなの?」
「将来は祖父のような学者になりたいと思っています。そのためにはメイスターを養成する大学に入らないといけませんが……」
「だったら早く魔獣を退治しないと、受験勉強に差し支えるわね」
「その点は心配ありません。自信はありますから」
可愛い顔をしているわりに、肝が据わっている。クラスに一人か二人はいるきちんと人生の目標を設定し、脇目も振らずそれに邁進している子というところか。
私とは真逆のタイプだ。
「あなたも騎士なのですか?」
レオが聞いた。
「夏美でいいよ。残念ながら私は騎士ではないの。かといって、何かと聞かれたら困るけれど、まあ、ただの庶民ね」
「庶民はこんな立派な馬を持っていませんよ。それにあなたの持っている剣は騎士が使うものです」
「なるほど、君の目から見れば怪しさ満点ってわけね。これには事情があるのよ。今それを説明しろっていうのは勘弁してね。でも後ろのおじさんは本物の騎士よ。だから安心して」
「ええ、サーローランは立派な騎士です。さっきは感動しました。あれだけの騎士がいる中、僕の呼びかけに応じてくれたのは彼だけでした」
「そう、本物の騎士よ。彼はエルデン川の英雄なんだから! あの鋼鉄公の兜を敵の真っ只中から持ち帰ったのよ。少しくたびれてはいるけれど、魔獣の五十くらいどんとこいよ」
自分の父親を褒められているように私ははしゃいだ。
「その話は知ってます……でも僕が聞いた話では、兜を持ち帰ったのは豪胆のレストンでしたけど」
「誰よそれ?」
「ハイデン公に仕えた騎士ですよ。若い頃、ハイデン公の愛馬を勝手に持ち出し、戦場に出て見事敵将の首を取って帰ってきたことから豪胆のレストンと呼ばれるようになったんです。魔操剣の使い手でもありました」
「その人が兜を持ち帰ったということになってるの?」
「ええ。魔獣の陣に深く入り込んだハイデン公を追いかけたレストンは、公がアマイモンの爪に捕まっているのを見て、魔操剣でその右腕を斬り落とし、公を助けたんです。でも公はすでに息絶えていて、レストンは仕方なく兜を脱がせて、それを腰に括り付けると、魔獣を蹴散らしながら帰陣したのです」
ローランの話と全く同じだった。
「それをだれに聞いたの?」
「エルデン川の戦いの話は有名です。吟遊詩人の歌にもなっているし、それについて書かれた本もあります。ハイデン公の兜の話はその中でも特に有名なエピソードです」
ひょっとしたら、そのレストンがローランなのかもしれない。彼にとって不本意な思い出を、英雄譚のように喧伝されることが迷惑で名前を偽っている可能性がある。あの話を語りながら、彼は泣いていたんだ。きっとそうに違いない。
「そのレストンという人は今どこにいるの?」
「ハイデン公の息子は、自分より父親に可愛がられていたレストンを憎んでいたので、父の形見の品を持ち帰ったレストンに褒美だといって金貨を放り投げたのです。レストンは『真の騎士が仕えるのは真の君主のみ』と傲然と言い放ち、立ち去ったとか。彼ほどの騎士ですから仕える君主に事欠くはずはありません。今は確か王家に仕えているはずです」
私は愕然とした。そんな馬鹿なことがあるはずがない。それではローランが他人の武勇伝を我が事のように偽ったことになる。
「そんなの間違いよ。だって私は本人から直接聞いたんだから……ローランが嘘なんてつくはずない!」
自分でも感情的になっているのはわかっていた。レオは自分の知っている事実を言ったに過ぎない。
でも私は強く否定せずにはいられなかった。
「そうですね。あの人は立派な騎士ですから嘘などつくはずはありません。戦場の話には誤聞がつきものです。有名な騎士の逸話には、実は他の人の話だったなんてことはよくあるそうですから……」
レオが私に同意してくれたのは気を遣ってくれたのだろう。彼の歯切れの悪い口調からそう感じられた。
木立の手前でユリシーズを止めると、ローランを待った。
低く立ちこめる霧の中に砦の篝火が浮かんで見える。ここからでは魔獣の姿は確認できなかった。
「そんなに先走るな。俺の馬はお前の若駒とは違うんだぞ」
ローランが馬を横に着けた。
私は慌てて彼から目を逸らした。
「あっちに秘密の抜け穴があるんです。馬も通れます」
レオが木立の反対側にある小さな小屋を指した。
入り口の前に黒い影が三つ見えた。霧のせいでよく見えないが、どうやら魔獣らしい。
「グールです」
レオが言った。
「あの屍体を食らうってやつ?」
「連中は魔獣の屍体すら食べるんです。きっと屍体の臭いを嗅ぎつけて来たんでしょう」
とすると、砦の正面にいるのとは別口ということか。
ローランは剣を抜くと姿勢を低くした。
そして振り返り、「俺が二匹を仕留める間、お前達はもう一匹を引き離しておけ。けして無理はするなよ」と小声で言った。
彼は向き直ると獲物に狙いをつけた蛇のようにスルスルと這うように進んでいった。
「行こう」
私はレオの肩を叩いた。
魔獣までは二十メートル程の距離だ。剣を握る手が汗ばむ。
魔装剣のことはローランには話していない。私自身、本当にそうなのか確信がなかったからだ。あの時、確かにこの剣は青白く光り、オークの魔法を跳ね返した。しかしどうすれば再びその効果を発動できるのかわからない。今、私の手の中の剣は鈍い色をした金属でしかない。この中に宿る命を感じることはできなかった。
ローランが一匹のグールに躍りかかった。他の二匹がそれに気づいたの見て、私はその背後に回った。
「こっちだ!」
黒い影が振り向いた。
金色の目には瞼がなかった。頭蓋骨に青白い皮をはりつけ損なったような歪な顔を傾けて、ゆっくりとこちらに向かってくる。
この鈍さなら何とかなりそうだ。
剣を構えると、一息に肩口めがけて振り下ろした。
浅かった、刃先は肩をかすめただけで、グールの前進を阻むことすらできなかった。
もっと踏み込まなきゃ。
びびるな!自分を叱咤する。もう一度剣を構え直すと、右足を大きく踏み出した。今度は手応えがあった。グールの二の腕を切っ先が抉る。傷口から緑色の汁が吹き出してきて、顔にかかった。
ねっとりとした液を袖口で拭おうとした瞬間、グールの反対の腕が延びてきて
肩を掴まれた。
グールは唾液の糸を引いている剥き出しの歯で私の肩を噛もうと顔を近づけてきた。
剣を振るうには距離が近すぎる。身をよじって逃れようとしたが、恐ろしく力が強い。
観念しかけたとき、ローランがグールの腰を蹴飛ばした。
「お前の長い足も武器だということを忘れるな」
「ありがとう。油断しちゃった」
「両手剣は肩に担ぐように構えるんだ。右手を支点にして、梃子のように振れ!」
なるほど、梃子のようにか。
私は剣を握った両手を耳の横辺りまで上げた。そして腕の力を抜き、手首を柔らかくした。
「夏美さん、頭を落としてください」
レオが叫んだ。
よろよろと両手をついて立ち上がろうとしているグールの首に狙いを定めると、
一度大きく深呼吸した。右手に乗せた剣を左手に力を込めて、思いっきり振った。鞭がしなるように剣先が走る。
剣の軌道はグールの首を捉えた。
嘘のような切れ味だった。
「よくやった」
ローランは微笑むと、最後の一匹に立ち向かった。
(やっぱり彼は英雄だ、誰がなんと言おうが本物騎士だ!)
心の中のもやもやが晴れていくようだった。