老騎士3
騎士たちはつかの間、少年の方に注目したが、すぐに関心を失った。元のざわめきがホールに戻った。
少年はもう一度叫んだが、今度は騎士たちの注意をひくことはできなかった。
それでも彼は諦めず、若い娘と話している赤と黄色の派手な胴衣を着た騎士に近づき助力を乞うた。
「お願いです。助けが必要なのです」
「俺たちは聖都を救出するという大義があるのだ。寄り道をしている暇はない」
面倒くさそうに答えると、女との雑談に戻った。
次に少年は三人の若い騎士たちのテーブルに移り、同じことを言った。
「村など助けて何の功徳がある? 下手に命を落とせば、ここまで旅してきた苦労が、水の泡だ」
立派な口髭を蓄えた男が吐き捨てるように言う。
「俺たちが今から行ったところで、間に合わぬだろう」
別の騎士が横から言った。
「僕の祖父が村人と共に、砦に籠もって戦っています」
「砦があるのか?」
「エルナスで戦いがあったときに築かれたものです。荒れてはいますが、土塁もあれば櫓もあります」
男はどうする?という表情で、他の二人を見た。
「悪いが俺たちはオーロン公に仕える騎士だ。主命がなければ勝手な真似はできぬのだ」
最後まで黙っていた男が口を開いた。
「ではオーロン公にお願いしてみます。どちらに居られるのでしょうか?」
少年のまっすぐな視線に気圧されるように、男は反対側のテーブルを顎でしゃくった。
彼は臆する風などまるでなく、ホールを横切り、示された方に向かって歩き始めた。まだ中学生くらいにしか見えなかった。
眉の辺りで切り揃えた癖のない黒い髪、真っ直ぐな鼻、染み一つない白い肌、紅い唇をギュッと結んで堂々と歩く。
彼が私の側を通ったとき、激励の声を掛けてあげたい衝動にかられた。だが、そんなことに何の意味があるのだろう。
私はローランを見た。
彼は少年から顔を逸らすように、手の中のゴブレットを見つめていた。私は彼が立ち上がってくれることを密かに期待していた。しかし、それをこの放浪の騎士に求めるのは酷なことだとも解っていた。周りには彼より若く、立派な騎士達がいるのだ。
「なぜ誰もあの子を助けないの?」
「教会のために戦うことは名誉なことだ。長くその名を語り継がれる。もし命を落とすことがあっても、天国への階段は開かれている。しかし、哀れな百姓のために戦ったところで誰が覚えていてくれるというのだ」
「そういうもんか……」
やるせなかった。私はワインをあおった。
テーブルをひっくり返し、大声で喚き散らせば少しは気分が晴れるだろうか。
少年は一際大きなテーブルに近づくと、跪いた。
そこにはきらびやかな衣装に身を包んだ男達が、八人座っていた。
どれがオーロン公かはすぐにわかった。
でっぷりと肥満した赤ら顔の男が、ぞんざいそうに少年を見た。
「俺に用か?」
「僕の村が魔獣の襲撃を受けています。祖父が村人を砦に避難させて守っていますが、長くはもちません。公のお力添えを頂きたいのです」
「魔獣の数は?」
「僕がそこを出たときには五十くらいでした。でも今はもっと増えているかもしれません」
「五十だと!」
公は席の面子を見まわした。
「この小僧は俺の騎士と兵卒を五十の魔獣に当てろといってるのか。なぜ俺がそんなしけた村を助けなければならない?」
「しかし、魔獣はいずれエルナスにもやって来ますよ」
少年は気丈にも言い返した。
「その頃には、俺はもう聖都に向けて立っておるわ。いいか小僧、この先そんな村はあちこちに出てくるだろう。魔獣どもがなぜか勢いづいているからな。それを一々助けに向かっていては、聖都に着くまでに五体満足な騎士はいなくなるわ。俺がいったいいくらこの旅に金を使っていると思っているのだ」
無慈悲な言葉に少年はがっくりと項垂れた。
「俺の食卓を騒がせた罪は重いぞ。しかし、今夜はこのカワマスに免じて許してやる」
オーロン公は左右を顧みて言った。
「誰かこの小僧をつまみ出せ」
二人の男がすぐに駆け寄り、少年の両脇を抱えて引き摺った。
それでも少年は声をあげることをやめなかった。
「お願いです。このままではみんな死んでしまう。助けてください。ここには本物の騎士は誰もいないのですか?」
悲痛な叫びがホールに響いた。
冷ややかな冷笑を浮かべる顔、明らかに困惑している表情の者、何も見なかったように顔を背ける男。
私はローランをもう一度見た。しかし、そこにはばつの悪そうな弱々しい表情を浮かべた哀れな老騎士がいるだけだった。彼はあの日、エルデン川に勇気を置き忘れてきたのだろう。
(ブランがここに居てくれたら)
私は強く願った。あの灰色の瞳が無性に恋しかった。
「わかったよ。だからもうそんな目で俺を見るな」
ローランは低い声でそう言うと、ワインを飲み干し、立ち上がった。
「おい! その手を離せ。弱きものを扶けるのが騎士の勤めだ。誓いを忘れたのか? お歴々」
彼はホールの騎士たちをぐるりと見まわした。
「誰も行かぬというのなら、このサー・ローランが義務を果たそう。小僧、案内しろ」
痺れるほどかっこよかった。もし許されるなら、きつく抱きしめて、無精髭の頬に何度も何度もキスしてあげたいくらいに……
ローランは剣をひっつかむと、あっけに取られている騎士達の間を抜け、出口に向かった。
私もあと追った。
彼が出口の扉に手を掛けたとき、給仕女が駆け寄りその手を取った。
「騎士様、あなたに神のご加護がありますよに」
跪くと、彼女はローランの手に口づけをした。
飛び込んできた三人に厩の親父は目を丸くした。
「随分、急なお立ちですね」
「野暮用でね。すまんな」
ローランは言った。
「魔獣を退治しに行くのよ」
アルコールのせいなのか、それとも他の理由なのか、私はとても気分が高揚していた。
「魔獣ですって?」
親父さんは丸い目をさらに丸くした。
「ほんとに付いてくるのか? 王都に行くんじゃなかったのか?」
ローランが聞いた。
「人を煽っていて、私だけお先に失礼しますなんて、そんな薄情な女じゃないから」
「そうか………ならその子はお前の馬に乗せてやれ。俺の馬では二人乗りはきつい。そいつなら少々のことではへこたれまい」
確かにローランの馬は痩せこけて、年老いている。
「君、名前はなんて言うの?」
私は少年に向かって言った。
「レオナルドです」
少年は長い睫毛を瞬かせた。
「まじ?」
「ええ、ほんとうです。でもなぜ?」
レオナルドなんて少年が実在するんだ。いやまあ実在はするんだろうけど、レオナルド少年と関わりを持つことなど、一生ないと思っていたのに……
「そうだ! 馬の名前まだつけてなかった」
肝心なことを忘れていた。
「だったら早く付けろ」
ローランは少し苛立って言った。
そんなに急かされても、すぐには思いつかない。金貨十二枚も叩いて買った馬だ。慎重に付けたい。あとで決めようかと思ったとき、一頭の馬の姿が浮かんだ。
夏休み、毎年遊びに行っていた北海道の牧場で私は馬に乗って一日中遊び回った。私は馬が大好きだった。ただ美月はまだ小さかったせいか馬をひどく怖がった。いくら大人しいから大丈夫だと言い聞かせても、近寄ることすらしなかった。
ある日、牧場のおじさんが大きな黒い馬を連れてきた。
「気性が荒くて競走馬には向かなかったんだ。ただ馬体も立派だしね。良い子を残すと思って買ったんだけど、危ないから近寄ってはだめだよ」
おじさんは言った。
確かにその馬は他の馬と違い、どう猛な顔つきをしていた。
すると、突然美月が握っていた私の手を離し、馬に近づいた。
「危ない!」私がそういう間もなく、彼女は手を伸ばして馬の顔を撫でてやった。
「この子はあぶなくなんてないよ。ただ淋しいだけ」
美月に撫でられながら、馬はやさしい表情を浮かべていた。
「ユリシーズ。ユリシーズがいいわ」
ローランが驚いて振り返った。
「変かな?」
「いや、ハイデン公なら喜んで付けそうな名前だ」
「それって親父の方?」
「ああ、もちろんだ。鋼鉄公の方だ。息子に馬を見る目はない」
彼はそう言うと馬に跨がった。