老騎士2
老人は長身を折り曲げるようにして、切り株の上に腰を掛けていた。髪はすっかり白く、顔に刻まれた皺は深い。かつては深く澄んでいたであろう青い瞳は白く濁っていた。擦り切れた鎖帷子、ひび割れた革のブーツ。すべてが彼のこれまでの人生が容易なものではたかったことを物語っていた。
ひょっとすると彼は老人というほどの歳ではないのかもしれない。四十代半ば、せいぜい五十に、手が届くかどうかと言ったところかもしれない。仔細に見れば、肌にはまだ張りがある。
私はなんとなく彼に興味を持った。枯れた色気とでもいうのだろうか、細くて長い指先で顎を撫でる姿はちょっとセクシーだった。
「おい!横から余計な口出しをしないでくれ。こちらのご婦人はこの馬が気に入ったんだ。あんたには関係のない話だ」
馬商人はさっきまでの仏顔をかなぐり捨てて捲し立てた。
「良かったら、この馬を買ってはいけない理由を教えてもらえませんか?」
私は彼を押しのけて、男に訊ねた。
「その馬の後ろ脚を見てごらん。飛節が湾曲しているだろう」
男は言った。
私は馬の後ろに回った。
両方の脚が内側に曲がってくっつくくらいになっている。
「それじゃとても長い旅には耐えられない」
男は言った。
「いい加減なことを言うな。馬のことなら俺が一番よく知っている。人間にも脚の形は色々あるように、馬も同じだ。走る分には支障はない」
馬商人は老人に食ってかかった。
男はそれには答えず、肩をすくめただけで、立ち去った。
「あんな放浪の騎士の言葉を真に受けちゃいけないぜ。多少見てくれが悪いんで値引きしてるんだ」
馬商人は懸命に私を引き留めようとする。
「ごめんなさい。買うの止めるね」
後ろで金貨五枚、いや三枚でどうだと叫んでいる商人をあとにして、私は老人を追いかけた。
「ご助言感謝します」
私は男に追いつくと、礼を言った。
「気にすることはない。馬の目利きのできない素人と見られたら、連中のいいカモだ。気をつけなさい」
私は男の言葉に深く頷いた。当たり前のように感じていた定価などという概念はこの世界にはないのだ。すべては駆け引きだ。
「もしお時間があるようなら、馬を選ぶのに付き添って頂けないでしょうか?」
あつかましい頼みかと思ったけれど、思い切って頼んでみた。
「私はサー・ローランだ。南部の生まれだが、人生の大半を馬と共に旅してきた身だ。馬を見る目には多少の自信がある。ご婦人の役に立てるなら光栄なことだよ」
ローランは気さくに引き受けてくれた。芝居がかった言い方が様になっていた。笑顔がとてもチャーミングだ。若い頃はさぞかしモテたことだろう。いや今だってそんなに悪くはない。もし彼が私の父なら、写真を撮って「これが私の父さんだよ」って自慢したいくらいだ。
私が名乗ると、ローランは私の顔をしげしげと眺めた。
「この大陸の人ではあるまい。どこから来られたのかな」
私は黙って空を指さした。
「あの渦巻きを通って、異世界から来たのです」
適当な故郷をでっち上げるのも面倒だった。ローランはしばらく口をあんぐり開けて、空を見上げていたが、カラカラと笑い出した。
「そいつはいい。あんたみたいな美女を降らせるとは、あのクソ忌々しい裂け目もたまには気の利いたことをしやがる」
美女などという、それまでの人生で一度も受けたことない称賛を、こちらの世界に来てから、二度も受けた。それもとびきりのいい男たちからだ。
ひょっとすると、私はこの世界の美人の基準に適合しているのかもしれない、そんな風に考えたとしても、どうか笑わないで欲しい。だって私たちの世界だってうんと太った女性が美しいと考える地域だってある。時代が変われば美人の尺度だって違って当たり前だ。
「あれはいつ頃からあるのですか?」
私は渦巻きについて尋ねた。
「いつかは知らないな。俺が生まれる前からあったのは間違いない。ただ子供の頃見たあいつはもっと小さかった。それが今や月をも飲み込むほどに膨れ上がっている」
「聖都か包囲されているのもそれと関係あるのでしょうか?」
「そいつはどうかはわからない。十七年前にもあいつが今くらいの大きさになったことがあった」
「魔獣の王の降臨?」
「ああそうだよ。多くの者が勇敢に戦い、命を落とした。生き残ったものにとってもそれは人生で最も重要な日々になった」
「あなたにとっても?」
私は彼の人生に少し興味を持った。
そんなことを訊かれるのは意外だという顔で、彼は私を見た。
「変なことを訊いてごめんなさい」
「いや構わない……わしはあの頃ハイデン公の下で戦っていた。息子の方ではない。鋼鉄公の方だ。あの人は俺のような領地を持たぬ放浪の騎士にも分け隔てなく接してくれた。戦の間は同じ飯を食い、酒を飲み、友のように語らった。王の従兄弟で、西方を束ねる太守がだぞ。いろんな諸侯の下で戦ったが、あの男こそ真の騎士で英雄だった」
ローランは一息つくと、話を続けた。
「あれは忘れもしない魔獣の王が死んだ日だ。俺たちは王都の近く、エルデン川の畔に陣取り魔獣の大軍を迎えうった。
すでに反対側のエルナスには魔獣の王が率いる軍が迫っていた。要するに俺たちは、挟み撃ちに会い絶対絶命だったわけだ。王都が陥落すればすべてが終わる。ハイデン公は陣頭に立ち、雷鳴のような声で叱咤した。魔獣を一匹たりとも渡河させるなと。騎士も兵卒も皆奮い立ったさ。俺たちは勇んで川に馬を乗り入れ突撃した。川はあっという間に血で染まった。最初のうちは数えていたが途中から面倒になるくらいの魔獣を仕留めたときには、俺は敵の陣の奥深くにいることに気づいた。いくら倒しても魔獣の数は減らない。ふと見ると前方に牡鹿の角の前立てが目に入った。ハイデン公の兜だ。彼は自慢の大斧を振るい当を幸いに魔獣を次々と血祭りに上げていた。しかし俺たちはあまりに深入りしすぎている。周りには味方の姿は見えなかった。俺は公のそばに寄ろうと馬を走らせた。危険を知らせようと思ってね。だがその時だった」
そこでローランは言葉を切った。私は彼の身振り手振りを交えた話術にすっかり魅せられていた。
「それからどうなったの?」
先を促す私をまあ待てというように、手を上げると、彼は再び話し始めた。
「大きな地響きとともに黒い影が空から降りてきた。そいつの背中には奇怪な翼があり、額には馬の腹さえ一差しで貫けるほどの角が生えていた。灰色の肌と火の玉のような目。かぎ爪はバリリア鉱の剣のように鋭く長かった。魔獣の王の右腕、アマイモンだった。俺はハイデン公のほうを見た。彼は大斧を構えていた。戦うつもりだと気づいた俺は彼を止めようとした。とても普通の人間の勝てる相手ではない。だが勇敢なハイデン公は怯むことなく、アマイモンに挑んだ。一撃だった……斧が届く間もなく、アマイモンの爪は公の腹を抉った。そして頭をつかむとそのまま放り投げた。ハイデン公は壊れた人形みたいに俺の足元に転がった。驚いたことにまだ彼は息をしていた。俺は馬から下りて、駆け寄った。抉られた内臓からは腸がはみ出していた。俺はそれを腹の中に押し込もうとしたが、血糊で手が滑ってうまくいかない。すると公は薄く目を開けて言ったんだ。『腰から下の感覚がないんだ……わしはもう助からない。いいからお前は行け』。アマイモンが近寄ってくる足音が聞こえた。俺は公の兜の紐を短剣で切ると、それを腰にくくりつけて、馬に跨がった」
ローランは嗚咽していた。
「俺の話はこれでお終いだ、お嬢さん。あの戦いで勇敢な男は皆死んだ。生き残ったのは屑ばかりだ。なんとか王都に帰り着いた俺は、公の息子にその兜を差し出した。奴はそれをチラッと見た後、俺の足元に金貨を投げた。『とんだ無駄死にだな。エルナスで魔獣の王は死んだ。戦いは終わったんだ』……仕えるに値する主君もいない。俺はあの戦いでハイデン公とともに死ぬべきだったのさ」
私はローランの話に感想めいた言葉を差し挟もうとは思わなかったし、できもしなかった。ただ彼の震える背中をさすり続けた。
「これなら間違いない」
ローランが太鼓判を押した馬が見つかったのは日も落ちかかった頃だった。漆黒の牡馬だった。馬体も大きく、精悍な面構えをしていた。
彼は金貨二十枚より下では売らないと首を振る商人を根負させて、金貨十二枚で売らせた。
「気性は荒そうだが、馴らすことができればこれほど頼りになる馬はない。金貨二十枚でもけして悪くない買い物だ」
「こいつはなんで売れ残っていたんだろう」
そんなに良い馬なら買い手がついてもいいはずだ。
「皆、懐に余裕がないのさ。それなりの領地を持つ騎士ですら、聖都までの旅の負担はきつい。馬一頭に金貨二十枚も出せるのは諸侯並の領地を持つものに限られる」
私はふとブランのことを思った。ブランがくれた袋の中には金貨にすれば三十枚分ほどのお金が入っていた。彼も諸侯と呼ばれるようなたいそうな身分なんだろうか。
街に戻り厩に馬を預けると、私は彼を食事に誘った。お礼の意味もあったが、実を言うと、もう少し彼と一緒に居たい気分だったからだ。
「それならカワマス食わせるうまい料理屋があるんだ。昔ここを通ったときに食ったことがあるが、あの味が忘れられない」
彼は喜んで誘いを承諾してくれた。
店は表通りにあった。昨日の安宿とは比べもにならない立派な内装に私はちょっと気後れがした。
壁に掛かったタペストリーには、魔獣と戦う騎士たちの姿が描かれていた。本物のキャンドルを使ったシャンデリアが高い天井からいくつもぶら下がっており、店の中を明るく照らしている。
床に敷かれた毛足の長い絨毯は、くるぶしまで埋まるほどふかふかしていて、泥の付いたスニーカーで踏むのが躊躇われた。
ドレスコードがあれば一発でアウトな店だった。
広い店内を占めているのは立派な身なりの騎士ばかりで、その間を女達が給仕に、注文取りにと忙しく行き来している。
私たちのようなみすぼらしい格好の二人連れは他にはいなかった。
宿を出るとき、手に入れた大きな革袋に剣帯を仕舞い込んだことを少し後悔した。この場にこそあれは相応しい。
席に案内されると、ローランは慣れた調子で飲み物と料理を注文してくれた。こういうエスコートはありがたい。
あちらの世界であれこちらの世界であれ、私は高級なお店には縁がない。
彼は今は落ちぶれているようだけど、かつては周りにいるような立派な騎士だった時代もあったのだろう。
私たちはワインで乾杯した。香りは強いが、まろやかな味の口当たりのいいワインだ。
やがて運ばれてきた焼きたてのカワマスは、この世界の食には期待すまいという私の考えを撤回させるに十分な味だった。
塩焼きの魚の身にはさっぱりしたバニラソースをかかっているのだが、これがまた絶品だった。魚好きの美月に食べさせてやれたらなと、私は思った。
「しかし、随分とたいそう剣を持っているんだな」
ローランが傍らに立てかけた剣を見て言った。
「女の傭兵かなにかなのかな? それとも騎士? 東の大陸には女だけの騎士団があると聞いたことがあるが……」
「どちらも違う。私は人を探しているの。そのために王都に向かう途中」
「なるほど、確かに最近は魔獣があちこちに出没して物騒だからな」
「女の騎士ってノーラスにはたくさんいるの?」
「俺の生まれた南部にはあまりいない。しかし北部に行けば女の戦士は珍しくない。あの辺の女はあんたみたいに大柄で逞しいからね」
「じゃあ私も北部に行った方が目立たなくてすむね……」
店にいる給仕女達は皆、小柄だ。私より背が高い女は一人もいなかった。
「背が高いことを気にしているのか?」
私の視線に気づいたのかローランが尋ねた。
「少しね」
「あの給仕女たちは近在の農民の娘ばかりだ。君の国のことは知らないが、この国では背の高い女は高貴な出身の証だ。高貴な出の女は武芸のたしなみがあるのが普通だし、馬にも乗る。それにそんな長い剣を振り回すには君くらいの身長がなければ持て余すしな」
「でも所詮は女でしょ。男に比べたら筋力で劣る。女の騎士になんの意味があるの?」
「魔操剣は使い手に男か女かを選ばない。高貴な家柄の娘達が武芸を習うのも自分が魔操剣を扱う才能があるかどうかを確かめるためだ。もしその才能があるなら、それは特別な意味を持つ」
ブランは私を魔操剣の使い手と呼んだ。どうやら私にはその才能があるらしい。ローランの言う特別な意味について尋ねようとしたとき、私は店に入ってきた少年に目を止めた。
少年はつかつかと店の中央まで歩くと、良く通る声で言った。
「騎士の方々、助けてください。僕の村が魔獣に襲われているのです」