老騎士1
ブランと別れたあと、私は宿屋を探して歩いた。どこも聖都に向かう騎士で溢れていた。
夜も更けてきたし、なんとか寝床を確保したかった。表通りの宿をあらかた回ったが、どこも空きはない。最後に訪ねた宿屋の亭主が、裏通りにも宿屋はあると教えてくれた。
「ただし貞操の保証はできないが」と付け加えることを忘れなかった。
それでも野原で寝るよりはましだ。砂袋のように疲れた体を引きずるのも、そろそろ限界だった。早く横になりたい。私は裏通りを回ることにした。
狭い路地の入り口で、マントの前をもう一度しっかりと合わせた。別れ際にブランが掛けてくれた羅紗のマントだ。
「その剣帯を人目に立たないようにしておけ」
彼はマントの紐をしっかりと縛ってくれた。
暗くて狭い通りを十メートルも歩くと、もっともなアドバイスだとすぐに実感した。
お世辞にも人相が良いとは言えない連中がそこかしこに屯している。
騎士に付き従ってきた兵士たちだ。彼らは宿に泊まらず、通りで寝起きしているのだろう。四、五人が車座になり鍋を囲んで飯を食っていた。酒盛りをしている連中もいる。
皆、着ている服と同じように垢でずず汚れた黒い顔をしていた。体を洗うことなんてめったにないのだろう。ひどい臭いがした。
暗い路地裏の方々で、野獣のような目がギラギラと光っている。
さしずめ武装したホームレスといったところか。ブランの言うとおり、ルビーやサファイアを散りばめた金のバックルは、彼らに変な気を起こさせるには十分な代物だ。
傍らを通ると、剥き出しにした尻をボリボリと搔いている男が卑猥な言葉を投げつけてきた。あちらの世界では大抵の男のナンパリストから除外されている私でも性的な対象になるらしい。
手招きしている別な男のほうを見ると、陰部を露出させていた。目が合うと男は腰を前後に振り始めた。それを見た周りの連中がヤジを飛ばす。
彼らにとっては退屈を紛らわす手頃な玩具が飛び込んできたようなものだろう。
(まあいい。見るくらいなら存分に見てちょうだい。ただし指一本でも触れたら、あのオークと同じ目に合わせてあげるから)
私は顎を上げて、胸を張った。
法や秩序はこの世界にも当然あるのだろう。ただ何かが起こっても、誰かが電話一本でサイレンを鳴らして駆けつけてくれるわけではない。自分で自分の身を守る。それがこの世界の基本ルールだ。
宿を示す看板を見つけると、私はそこに飛び込んだ。
表通りにあるような立派な構えではない。貧相な宿だ。あちらが高級シティホテルなら、こちらはビジネスといったところか。
五、六人の男がテーブルを囲んで酒を飲んでいた。表の連中と違い身なりが良いのは、彼らが騎士だからだろう。ここでも突き刺さるような視線を感じる。さすがに表の連中ほど下品ではないが……
「宿を取りたいのだけど」
カウンターの向こうの太った亭主に声をかけた。
亭主は私を値踏みするように見た。懐具合を気にしているのだ。聖都へ向かう騎士たちでごった返している今は稼ぎ時だ。少しでも気前の良い客を捕まえたいに違いない。
「相部屋なら空いてる」
亭主は言った。
「一晩、いくらなの?」
「銀貨二十枚、ただし先払いだ」
相場がいくらなのか見当もつかなかったが、かなり吹っかけてるに違いない。
私はブランに貰った革袋から銀貨を二十枚取り出すと、テーブルの上に積んだ。亭主の仏頂面が途端に緩んだのを私は見逃さなかった。
「できればひとり部屋が良いんだけど、なんとかならないかな」
同じ高さの銀貨をもう一つその横に置いた。
「あと十枚はずんて頂ければ、騎士様にお出しするのと同じ食事も出せますぜ」
亭主は今や当たりを引いたという表情を隠しもしなかった。
「じゃあ食事は部屋に運んで貰えるかしら、とても疲れているので」
私はできるだけ世慣れた口調で言った。これ以上舐められてはたまったものではない。
案内された二階の部屋は八畳くらいの広さで、思ったよりは小綺麗だった。一晩泊まるだけの部屋にしては上等なくらいだ。
ベッドに腰掛けると、袋の中を確認してみた。銀貨だけでなく、金貨も混じっていた。円に換算したらいくらくらいになるのだろう。ぼったくりのこの宿でさえ、銀貨二十枚だ。五十万?百万?いやもっとか。
そんなお金を惜しげもなくポンとくれた上に、高価な剣帯までプレゼントしてくれたブランはいったい何者なんだろう。
騎士だということはわかっているが、ただの騎士ではあるまい。口の利き方はぞんざいではあったが、物腰は優雅だった。お金の苦労など一度もしたことのない育ち方をした人間特有の大らかさを、彼からは感じた。
きっと身分のある人なのだろう。
いずれにせよ当面お金の心配はしなくて済みそうだ。
一人になったら泣いてしまうんじゃないかって思ったけれど、案外冷静だった。宿のおかみが持ってきた食事もすべて平らげた。
パンと塩がうんときいたソーセージ、豆を煮たスープ。どれも今ほど空腹でなかったら、食えた代物ではなかった。
騎士様にお出しする食事がこの程度なら、庶民が食べる食事はどんなものなんだろう。
ぬるい発泡酒のようなお酒を飲み干しながら、食のほうはこの世界にあまり期待しないほうがいいなと私は思った。
泥のように眠った。こんなに眠ることだけに集中できたのは久しぶりだった。すでに日は高かった。
エルナスに長居する必要はない。とにかく王都へ急ごう。
宿の亭主の話では王都までは十日ほどかかるという。
私は馬を商っている場所を尋ねると、まずそこに向かった。馬ならもっと早く着けるに違いない。
幸い私には乗馬の経験があった。町工場の奥さんの実家が北海道で牧場をやっていた。夏になると里帰りする奥さんに連れられて、私と美月はそこで過ごすのが夏休みの恒例になっていた。
私たちはそこで馬に乗せてもらった。子供が自転車に慣れるように、私たちもすぐに馬に乗ることに慣れた。
見たところ、こちらの馬も北海道の馬も大差はないようだった。多少こちらの馬の方が大柄で脚も逞しかったが、北海道のそれは競走馬だったからだろう。
街には続々と騎士達が到着していた。それが皆聖都に向かうのだという。
聖都がこの世界でどんな地位を占めている場所なのかはわからないが、中世のキリスト教徒にとってのエルサレムのようなものなのだろう。
それが魔獣に包囲されている。
魔獣の王は他の魔獣を支配し、あらゆるものを破戒して回るとエミリアは言った。聖都が包囲されているというのもそれと関係があるのだろうか。ひょっとすると、ガランドは美月と魔獣の王を分離することに成功したのだろうか。とにかくエミリアに早く会いたい。
街外れの広々とした野原に近在の馬商人たちが集まっていた。売り物の馬がずらりと並ぶ光景は壮観な眺めだった。
ここもご多分に漏れず、騎士達で賑わっていた。
ブランの話では聖都はここから遥か北にあるらしく、一ヶ月の旅を要するという。騎士達は長い旅の間に馬を乗り潰さないように、何頭かの馬を乗り換えるのだ。
馬の嘶き、取引のやり取り、喧噪が取り巻く中を私は良さそうな馬を探して歩いた。馬商人だけでなく、武具の修理をする鍛冶屋も出張ってきていて、賑やかなことこの上ない。
「そこのお嬢さん、馬を探しているならちょうど良いのがあるよ」
気のよさそうな馬商人が声を掛けてきた。
葦毛の雌馬だった。毛並みが雪のように白い。一目で気に入った。
「金貨十枚と言いたいところだが、七枚でどうだい?」
三枚はどういう根拠で値引かれるのか解しかねたが、袋の中には金貨は二十枚ある。
「買った」と言いかけたとき、鎧の修理を待っている老人が私に向かって言った。
「そいつに金貨をはたくのはあまり賢い買い物ではないな」