プロローグ
母は私を連れて死のうとしていた。もう生きていることに意味がないと思ったからだ。
夜逃げ同然にアパートを引き払うと、駅前からバスに乗り、終点で降りた。バスはそこからまた駅に向かって引き返す。
「ここら辺りはなにもないよ。もうこれが最終だけど大丈夫かい?」
降り際に運転手が声を掛けた。
小さく会釈を返すと、母は私を抱き上げて逃げるようにバスから降りた。母の肩越しに遠ざかっていく赤いテールランプを私は見つめていた。
たったひとつある売店はもう閉まっていた。
「滝があるのよ。お父さんと行ったのを覚えてるでしょ」
母は山道の入口を見ていった。
私たち家族がまだ幸せだった頃、父と母の三人で出かけたことを思い出した。その父も今は居ない。
慌ただしい冬の夕暮れは、すっかり闇に変わろうとしていた。
私と母は竹藪の中の小道をひたひたと歩いた。母は何も言わなかったし、私も何も聞かなかった。風が笹の葉を揺らすたびに、私は母の手を強く握った。
しばらく歩くと、滝の落ちる音が遠くから聞こえてきた。それが段々と大きくなるにつれ、視界が開けていき、やがて暗幕のような滝が姿を現した。
「あれはなに?」
私は滝の一点を指さした。
暗い滝の流れの中に、そこだけがスポットライトを浴びたように明るい。
「行ってみよう」
母は私の手を引いた。
滝の側まで走ると、母は私を抱き上げて川に入った。踝まで水に浸かりながら、光の一点を目指した。
「この向こう側だわ」
母は滝の裏側から漏れてくる光を見ていった。
ダッフルコートのフードを私に被らせると、私を抱えて、勢いよ流れに飛び込んだ。
滝の裏側は小さな洞になっていた。火星の表面のような岩肌はぬめぬめとしていて、生き物の内臓の中にいるように温かい。
光はさらに奥から届いていた。岩と岩が迫った細い裂け目の向こうだ。
私は母の手を離すと、裂け目の間を進んだ。
裂け目を抜けると、畳一枚ほどの空間があった。光で満たされたその空間の中に横たわっている人をみて、私は息を呑んだ。
そこには今まで見たことのないほど美しい人が横たわっていた。銀色の髪、白い肌、いつか絵本で見た月の女神様のようだった。
彼女は呻き声をあげていた。顔は紅潮し、額には汗が滲んでいた。
私は彼女が着ている純白のドレスのお腹が不自然なくらい膨らんでいることに気がついた。
「陣痛が始まっているのね」
母は合点がいったようにつぶやいた。
「じんつう?」
私が聞くと母はその日初めて笑顔を見せた。
「赤ちゃんが産まれるのよ」
母は女の人の額の汗を掌で拭うと、「大丈夫よ。私が取り上げてあげるから」と、耳許で囁いた。
どれくらい時間が経ったのだろう。一生懸命に励ます母の声が途絶えたとき、赤ちゃんの泣く声が狭い洞の中に響いた。
「女の子よ」
母は愛おしそうに抱え上げた。