その笑顔はいりません
「好きだよ」
向かい合うように座る彼、椋木 理一が言った。
教室の窓から見える夕日が眩しくて私、小堀 優奈は思わず顔を顰めた。
「今日もいい天気ね」
そう言って何度目かの挨拶を聞き流す。そうして机の上のノートとまた睨めっこする。
ここ最近の彼は挨拶するように告白する。最近まで殆ど会話したことがないのに、いきなり名前を呼ばれてこれだ。それも毎日、好きだと言ってから付け足すように「ここの公式間違ってるよ」とか言うのだ。好きになるほど会話もしてないのに、お互いのこともあまり知らないのに、おかしくない?その言葉を他の子に言ったらもっと喜ぶ子はいるのに。
彼は顔もいいし、頭もいいし、性格はよく知らないけど、よく笑顔なので外面はいい。
それに対して、私は平均をかろうじて歩くみたいな、顔も頭も平凡。どうして私なのか分からない。
私はもう、彼のその言葉を挨拶と思うことにした。
だってほら、笑ってるのだ。向かいに座りながら面白そうに彼は笑って私のノートの端を指差して。
「ここ、間違ってるよ」
綺麗な指が視界に入ってきて思わず顔を上げた。
彼の、きらきらと色素の薄い髪が揺れ、整った顔で微笑んでる。たぶん、彼のファンなら見つめられるだけで、ぽっと頬を染めるんだろうけど私はまた顔を顰めた。
「…もしかして、こっちの公式?」
教科書を見ながら私が聞くと、彼は頷いた。それを見て溜息を吐く。
「また間違えた」
「間違えやすいから仕方ないよ。大丈夫、いくつか解いたら覚えるよ」
そりゃあ、君はね。難しい公式もすらすら解けるのだろうけど、私は頭に入っていかないのよ。それでもこうして机に座り続けてるのは、もうすぐテストがあるからだ。
二週間前、私はインフルエンザにかかった。もう元気だし、それは良いのだけど三日後にテストがある事を思い出して、がっくりうな垂れた。タイミングが悪すぎる。
二週間分の勉強を頭に入れなくてはならない。暗記系はどうにかするとしても数学だけは意味が分からない。久しぶりに授業を受ければ全然違うページに飛んでるし、そもそも前ってどこをやってたっけ?と考えるぐらい。教えてもらおうと職員室に泣きつきに行ったら、椋木くんがいて話は流れて私は椋木くんに教えてもらうことになった。
そりゃあね、椋木くんは成績優秀かもしれないけどね。日曜日も学校に来てくれて、今日だって午前中のテストが終わってからずっと教えてくれている。こんな面倒なことどうして引き受けたの?
彼を見ると視線が合った。
「ん? どうしたの」
「ここが分からない」
「あぁ、そこはね…」
その笑顔が崩れるときなんてあるのだろうか。
パタンと教科書とノートを閉じた。
「おわった…」
って、数学のテストは明日だからまだ、だけど。一通りのことはやった。家に帰ったらまた復習しないといけないけど。
「お疲れ様。明日の放課後はどうするの?」
「えっと…明後日は暗記系だし、家で勉強しようと思ってるけど」
「そっか。じゃあ、今日で終わりだね」
終わり…。言葉の響きが寂しく聞こえて、彼の目も何だか寂しそうに見えてしまった。
「優奈」
彼が私を呼ぶ。勉強を教えてもらう初日に名前で呼ぶことは了解したんだけど、まだ慣れない。
「テストが全部終わったら話したいことがあるんだけど…」
「今は駄目なの?」
「うーん…。…終わってからでいい?」
「…わかった」
もしかしたら、という期待とそんなはずない、という否定が胸の中で混ざって心臓がドキドキと煩かった。そうか、私期待してたんだ。
*
勉強は終わって、テストも終わった。
ほっとすると言うより何だか心に隙間ができた。テストが終わったら、って言われたから
金曜日かと思ったんだけど、土曜、日曜、が過ぎて月曜日のお昼休みになった。
からかわれた?冗談?
否定的な感情がふつふつと出て来て、じっとしていられなくて校舎をふらふらと歩いていた。前を歩く人が彼に見えるなんて重症かな。そっと溜息を吐いていると、会話が耳に届いた。
「椋木くん、私にも勉強教えて。ねー、いいでしょ?」
甘ったるい声が聞こえて吹きそうになった。私、あの欠片も可愛く言えないよ。
「うーん…ごめんね。テスト勉強で疲れたから暫くは…、ね」
やんわりと断る声を聞いて、どこかほっとした。でも、そうだよね。あれだけ私の勉強まで見てたんだから、疲れるよね。…私まだお礼も言えてないな。そう考えながら視線を上げると彼と目が合った。
「じゃあ、どっか遊びに行こうよ」
気付いていない彼の隣にいる女の子が言う。
「ごめん、ちょっと…」
「待って、どこ行くの?」
彼女が彼の腕に絡まった。一瞬彼が顔を顰めた。それも一瞬だけで、すぐ笑みを浮かべる。
「離してくれる?大事な用事があるから」
彼が嫌がってることに気付いていないのか、彼女はまだ何か言いたそうだった。それを遮る様に彼の笑顔が消え失せた。
「離せ」
乱暴に振りほどくと、私の方に近付いてきて手を取った。
「え?」
いつも優しい笑顔はどこにいったの、とか。どうして手を引っ張るの、とか聞きたいことはあったけど
私の心臓はドキドキして、そんな事はどうでもよかった。
校舎を出たところで息を整えた。
「大丈夫?」
心配そうに顔色を窺うのは初めて見る表情だった。私は何だか嬉しくなった。
「椋木くんって、猫かぶってたんだね」
「…あれの方が都合が良かったんだよ」
居心地悪そうにむっとした。確かに、誰にでも優しかったら嫌われることも少なくなると思う。
「優奈も、あれの方が良いよね」
はぁ。と溜息を付かれたけど、私は首を傾げた。少し驚いたけど
「私、今の椋木くんの方が好きだよ」
表情が色々変わって見てて飽きないし。
「え」
惚けた顔の彼を見て、また笑みがこぼれそうになったけど、自分が言った意味に気付いて慌てた。
「ま、まった!今のなし!」
慌てて取り消すけど、私の顔はたぶん真っ赤だ。何言ってるんだろう。これじゃあ冗談だって言って取り消せない。きっと好きだって冗談で何度も言われてるから、つい「好き」って言ってしまったんだ。そう説明しようとしたら繋いだままの手が彼の両手に包まれた。
「優奈」
優しい声に名前を呼ばれて心臓が止まりそうになった。
「優奈、好きだよ」
「じょう…だん」
その目に見つめられると口は思うように動かなくなってしまい、私はゆっくりとしか言い返せなかった。
「冗談じゃないよ。本気だよ」
どうしよう。何か言わないと、口を動かさないと。頭が真っ白になりそうなのを、必死に動かして考える。ふと、さっき思っていたことを思い出した。
「ありがとう。ごめんなさい」
「……」
「あぁ、違う!えっと…勉強、教えてくれてありがとう。すごく助かった。でも、椋木くんが勉強する時間をとってごめんなさい。それから、お礼を言うのも遅くなってごめんね」
「お礼なんてそんな…俺は迷惑だなんて思ってないし、チャンスだと思ったんだ」
「チャンス?」
「うん、優奈と仲良くなるためのチャンス。だから、嬉しくてつい初日から告白してしまったし、言った後で慌てて冗談に聞こえるようにした。戸惑わせて、ごめんね」
力なく彼が微笑むので、私は慌てて首を横に振った。
「からかわれてるのかなって思ったけど、今は全然気にしてない」
必死に説明すると、彼がくすくす、とやわらかく笑った。
「少しは気にしてほしいな」
「え」
彼の右手が私の頬にそっと添えられた。途端に自分の鼓動が速くなるのがわかる。
「こうやって触れさせてくれるって事は自惚れてもいいのかな」
その瞳を離したくなくて、彼の右手に自分の手を重ねた。
「いいよ」
彼の瞳が少しだけ驚いたように揺れて、ゆっくりと近付いた。鼻先が触れそうなギリギリの距離で
反射的にぎゅっと目と閉じると、頬に何かが優しく触れた。目を開けるとまだ近い距離で彼が微笑んでいた。
「ゆっくりでいいよ。ゆっくりでいいから好きになって」
今までと違う微笑みに見えて、なんだか胸の中がいっぱいになった。
ほらまた、私の知らない顔をする。
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