2-3 名前
「……謝らなきゃいけないことが、あるの」
その晩。泊まって行ってほしい、という父親の誘いを断り、俺と少女は公園に来ていた。
「なにが?」
「……さっき、あの人たちと話すとき」
少女は食事を終え、ベンチに座って、足を揺らしている。俺は少女の向かいの定位置に座り、少女の薄紫の視線より、ほんの少し下にいた。
「……あなたを、見世物にするようなことを、してしまったから」
「……そうだね。少し、悲しかった」
ごめんなさい、と少女がうつむく。謝られるのはこれで二度目だった。たった二日で二度も女の子に謝られた経験などない。いや、人間だったころ彼女とケンカしたときにあったか?
「いいよ、大丈夫。そんな小さなことより、こんな姿の俺を怖がらずに一緒にいてくれることが大事だ」
「……怖くないよ? “異形のモノ”とは違うから」
「見た目はどう見ても“異形のモノ”と同じだしなぁ」
「……見た目じゃない。大事なのは、中身」
「どこの恋愛小説だよ」
たわいもない話をつづけながら空を見上げると、やはり大きな星空が広がっていた。空はどこも同じだ。田舎でも都会でも、日本でもブラジルでも北極でも、頭の上には同じ空があるのだと思うと不思議だった。星空は、初めて少女と会った夜を思い出す。昨日のことなのに、随分遠く感じた。
「そういえば、名前を聞いてない」
「……名前……?」
「そう、君の名前」
「……名前、ないの」
「え?」
「……名前を付けてくれる相手が、いなかったから」
「君の母は?」
「……名前、必要ないって」
「おいおい」
やっぱり少女の母といえ、“花”の考えることはわからない。いや、少女が“花”を食べるのを目撃し、少女が“花”と話せるということもそのまま鵜呑みにしていたが、果たして本当なのだろうか。
“花”に意思があるというのか。
少女を守ろうとしていたところをみると意思がありそうな気もするが……やめた。こんな世界だ。なにがあろうと、受け入れるしかないのだ。
「必要なくても、『名前』の概念はあるんだな」
「……病院に、本がいっぱいあったから」
「大事なもの、っていうのも、わかる?」
「……知識としては、わかる」
「すごく、大事なものなんだ」
「……そう」
「俺が、君に、名前を付けてもいいかな」
大事なものなんだ、と少女に向けて繰り返す。君の母の了承がいる、とも伝えた。いくら一緒に旅を始めたからと言って、俺はまだ他人だ。名前なんて大層なものを付ける資格などない。
でも、名前を付けてくれる人すらいなかった孤独な少女に、俺は何かを与えてあげたかった。
「……うん。名前、欲しい」
ほどなくして、少女は口元をほころばせた。良かった、と胸をなでおろし、俺は少女のために、思いを巡らせる。
優しい女の子だ。「優」でもいいかもしれない。世界を巡る、ということで「巡」というのも響きが綺麗だ。薄紫の髪と目になぞらえて、「すみれ」なんかもいい。
「……『ソラ』」
しかし、ふ、と口をついで出たのは考えたものとは全然違う名前だった。
「……ソラ?」
「うん。ソラ。「空」っていう漢字は悪い意味もあるから、「宙」だとか「天」だとか、もしくはひらがなかもしれないけどね。君が初めて病院を出たときに見た空も、昨日一緒に見た空も、きっと特別なものだと思う。だから、『ソラ』を君の名前にしたい」
どうかな、と窺う。少女はソラ、ソラ、と口の中で幾度も呟き、ぎゅう、と胸のあたりを強くつかんだ。
「……ソラ」
「うん、ソラ」
「……もう一回呼んで」
「ソラ。そら、ソラ!」
「……ふふ。ねえ、あなたは?」
「ん?」
「……あなたの名前は?」
「かずみ。平和の「和」に「海」って書いて和海っていうんだ」
「……空と海なら、対になってる」
そういえばそうだ。意識していなかったが、言われてみれば空と海、というのはなかなか良い取り合わせだ。
「嫌じゃない? 空でいいの? 悪い意味もいくつかあるんだよ」
「……いいの。『空』がいい。和海と、おそろいだから」
少女は和海、和海、と俺の名前を繰り返し呼んだ。
俺もソラ、ソラ、とそれに答える。
夜はゆっくりと、更けていった。
読んでくださってありがとうございます。
すみません、今回物語はほとんど進んでいません。でも書きたかったところなので満足しています。
これからはもう少し進んでいくと思いますので、ゆっくりお付き合いください。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。