1-3 薄紫色の少女
あのあと、俺は狭い洗面所からどうにか外に出てきていた。部屋にいると、一歩踏み出すごとに、床の心配をしなくちゃならない。
靴は履けなかったけど、アスファルトの地面からは、硬さも熱も感じない。
尻尾は扱いきれなくて、ずるずると引きずったままだ。尾てい骨のあたりに力を入れると、思ったよりも力強く、ぶん、と空気を切って振れる。
夕立でもきた後なのか、ところどころにある水たまりに顔を映して回るが、どれも同じ、“異形のモノ”の鼻づらが映るだけだった。
こんな姿じゃ彼女に怖がられてしまう、なんて的外れなことを考えながら、あてもなく彷徨う。時間の感覚は無くなっていたが、もう少しで町から出ることが出来そうだった。
しかし、出て行ったところで何をする? どこに行こうが、この姿じゃ怖がられて、駆除の対象になるだけだ。いや、そもそも近隣の町に人が残っているかどうかも怪しい。
何の目的もなく歩いていた俺は、微かな物音を聞いた。
馬鹿な。俺以外誰もいないこの町に、いったい何が物音を立てるというのか。
風の音や、花のさざめく音ではなかった。誰かが、アスファルトの地面を、堅い靴底で踏みしめながら歩く音。今の俺のような“異形のモノ”よりもずっと軽い、まるで子供か、女性のような足音。
隠れることも、走り寄ることもできず、呆然と突っ立っている俺の前に現れたのは、予想通り、紛れもない女の子だった。
薄紫色――花と同じ色――の髪を肩のあたりで乱暴に切りそろえている。同色の目はどこか眠たげだ。
どこかの学校のセーラー服を身に着け、そこの厚いブーツを履き、腰のあたりに銃を一挺携えていた。
しかし、それよりも驚いたことは、少女が歩くと、その周辺の“花”がざわめくことだった。まるで、彼女に付き従うかのように、蔓を彼女へ向けてうごめかせる“花”もある。
「な、ん……」
俺が耳触りの悪い声を出すかどうかといった瞬間、俺を視界にとらえた少女が、ざっ、と音を立てて数歩分後ろへ飛び退った。周囲の“花”が彼女を守るように左右に伸びる。少女はむせ返るような“花”の香りと共に、がちゃん、と銃を構えた。
M4A1モデル979にACOGとダットサイト、フォアグリップを装着。米軍御用達の小型ライフル。
昔得た知識を引っ張り出す間に少女は俺に向けて、引き金を何度か引いた。撃ちっぱなしじゃなくて、ダダン、ダン、ダダダ、と2,3発づつ弾が吐き出される。
少女の狙いは正確だったが、俺が本能的に避けたおかげで、わき腹と、左の肩口をかすめるにとどまった。
「うわっ、ちょっと、俺、あの……っ」
終始眠たげだった目を微かに開き、少女が肩に銃を当て、安定させて狙いを定める。
「うわ、あ、ああああああ!?」
耳には「オルウウウウウウウッ」と聞こえる訳のわからない叫びをあげながら、俺は頭をかばって座り込んだ。
と。焼けるような痛みを覚悟した体には、何の衝撃もない。かちゃん、と音がして、腕の隙間から少女が銃を下ろしたのが見えた。
「……あなた、残ってるの?」
少女は、つかつかと近寄ってきて、とがった鱗や棘が刺さるのにも構わず、俺の腕をつかんで俺の顔を日にさらした。
また眠たげに戻ってしまった瞳が、俺を真正面からみつめている。よく見れば、“花”の蔓も、彼女を手助けするように、俺の腕に巻きついていた。
「……あなた、人間の脳が、感情が、残ってるの?」
俺はそのまま大粒の涙をぼたぼた、と垂らし、首を激しく縦に振った。
少女が誰かなどどうでもいい。この姿の俺を、まだ人間の心が残っていると言ってくれる人がいる。それだけが重要なことだった。