猛獣と女の子6 ~生贄~
わたしがザガート様にアトラスの森で命を救われ、侍女としてこの屋敷に来てから早くも一年になる。
この大きな屋敷には主と、あとはごく僅かな使用人だけが住まっているだけ。たとえ主が一人であってもこの広い屋敷で使用人はみあった数ではなく、新米の頃のわたしですら朝から晩まで仕事は山積みで働き詰めだった。
礼儀作法も大して知らない孤児であったわたしに丁寧に仕事を教えてくれるのは、ザガート様の幼少期に教育係としてお仕えしたという侍女頭のライラさんだった。侍女はライラさんの他にわたししかいない。新しく雇ってもすぐに辞めてしまうらしく、最近は求人をかけても誰も応募させしてこないのだとか。 重労働の内には入るかもしれないけれどけして辛い仕事でもないし、孤児として育ったわたしからすると驚く程の給金もいただける。信用あるお屋敷だし誉れになる就職先だと思うのだけれど謎だわ。
そうそう、ライラさんは何十年もロウディーン帝国の第二王子にお仕えしてきたにも関わらず、微塵も奢り高ぶった所がない優しい方だ。さすがザガート様をご教育された方だと頷ける。そんな方に指導していただけるなんてわたしは本当に幸運だと感謝せずにはいられなかった。
そんなライラさんが最近になって上流階級のなんたら、淑女のなんたら、はては王侯貴族の細かな人間関係に至るまでをわたしに説き出した。終いには執事のグレンさん(かなりのご高齢)がわたしにダンスの手ほどきまで始める始末。
なぜかと問えば、あなたに教えておくのが一番手っ取り早い気がしてと目を泳がせる。もしかしたらそろそろ引退を考え、いずれザガート様が奥方を迎え入れた折にそのお方がご苦労なさらないようにと、ライラさんの持つ知識をわたしに引き継ごうとしているのではないか…不安になったわたしが泣きつくとライラさんは、自分が目の黒いうちは例え階段が登れなくなってもザガート様にお仕えすると胸を張って言ってくれたのでほっとした。
いつものように早朝の仕事を終え、育ててもらった孤児院にお菓子の差し入れを届ける道中、思いがけない事にザガート様の兄であるフェルティオ王太子殿下に遭遇してしまった。
フェルティオ様はザガート様と同じ金色の髪に碧い瞳を持つお方で、あの方同様わたしのような卑しい身分の者にも手を差し伸べご指導下さる尊い方だ。ただそれが必要以上に体に触れたりと思わぬ方法で齎されるので驚いてしまうけれど、わたしが不敬を働いても笑って許してくださるお優しい方であるには変わりない。さすがはザガート様の兄と納得してしまう。
そんなフェルティオ様はわたしが手にする菓子を所望された。わたしなどが作った物を王太子殿下の口に入れてよいのかと迷ったけれど、『民の生活を知るは王太子の務め』とおっしゃられ、一袋を手に美しく微笑んで去って行く。煌びやかで最高の位に有っても奢り高ぶらず民へ思いを寄せてくださるフェルティオ様に、少し変な所があるけれど、さすがはザガート様の兄気味とわたしは幾度となく感嘆してしまうのだ。
フェルティオ様と別れて先を急いでいると「リアさんっ!!」と名を呼ばれ呼び止められた。
声の方に振りかえると、大きなお腹を揺らして息を切らせながら走り寄ってくる白服の中年男性が目に付く。今わたしが手にしている菓子の作り方を教えてくれた菓子職人のジロサロさんだ。
「おはようございます、ジロサロさん。」
「おはようリアさんっ―――!」
息を弾ませるジロサロさんは額に沸いた汗を拭うとわたしの手元を見て満面の笑みを浮かべた。
「それ、上手く出来たようですね!」
それとは、本来は門外不出のレシピで作られた焼き菓子だ。
ジロサロさんは国一番と言っていいほどの腕を持つ菓子職人で、一般市民どころか王侯貴族ですら顧客に抱える超人気者だ。そのジロサロさんがザガート様の下で働くわたしにだけ、極秘にその門外不出であるレシピをこっそり教えてくれたのだ。
超人気者のジロサロさんが門外不出のレシピを差し出してくれる程にザガート様を敬愛して下さっていると知ってわたしは本当に嬉しかった。
それだけではない。わたしが道を歩けば『ザガート様の侍女』としてのわたしに好意を示し、手助けしてくれる。主の人望の厚さに改めて感心し、仕える身として本当に誇りに思える毎日だ。
わたしはジロサロさんに向かって菓子を一つ手に取って差し出した。
「はい、教えて頂いた通りにやってみたのですが…形がちょっと、かなり違って出来てしまったようです。」
「いやいやそんな事は、初めてにしては上出来です。どれちょっと―――おお、味も見事に再現されている。さすがはザガート様の御屋敷に勤めるだけの事はありますね。それにしても味の再現は本当に見事だ。私の指示通りになさっってくれたのですね!」
額に汗し挙動不審になりながらもジロサロさんは、明らかにお世辞と解る褒め言葉をつらつらと並べるので恥ずかしくなってしまう。
一通り言い終えたジロサロさんは経験を積めば形はいずれ整うだろう、解らない所があればいつでも訪ねておいでと両手を擦りながら来た道を戻って行くのだと思ったら―――
「何処へ行くんだい、よければ送って行きますよ?」
と、方向音痴のわたしを心配してまでくれた。
有難いけれど孤児院までの道順はこの一年で完璧に覚えられている。苦笑いを浮かべたわたしにジロサロさんはまたねと手を振り、大きなお腹をゆすりながら来た道を小走りに戻って行った。
ザガート様の御屋敷に勤めるようになってから周りの人、そして見知らぬ人の全てが誰も彼も皆優しい。これも全てザガート様の人望だと思うと誇らしくて胸が熱くなるのを感じる。
そうして完璧に覚えた屋敷から孤児院までの道を迷いなく進んで行くと見慣れない光景に出くわした。
見慣れないというのは語弊があるかもしれない。わたしが孤児の頃は踏み入れる機会のあった貧民街。華やかな表通りと違って朝日も当たらない暗く寂しく汚い場所で、道端には酔いつぶれて眠っている人の姿もある。
孤児の頃は多少の怖さもあったけれど、みすぼらしい身なりの孤児は気を付けさえすれば大して被害には合わない。さらって売りさばこうにも大した値が付かないからだ。でも今のわたしはザガート様の屋敷に勤める侍女でそれなりに身なりを整えている。日のあるうち、しかも午前中は一番安全な時間とはいえ油断はできない。
「おかしいなぁ、何処で間違えたんだろう?」
引き返そうと身を翻すと、すぐそこの角に人の影を見つけた。と同時に『ぐわっ』『ぐえっ』と言う唸り声のようなものが聞こえる。
怖くなったわたしは籠を両手に抱え込んでしばらくその場に佇んだままでいた。でもいつまでもこの場所に突っ立っていては何らかの被害にあいかねない。
勇気を出して元来た道へ一歩踏み出した所でそこの角から人影が現れた。
貧民街の住人かと身構えたけど、やがて見慣れた人物だと気が付きほっと胸を撫で下ろす。
「エルバイン様!」
ザガート様が団長を務める黒騎士団に属する騎士のエルバイン様だった。
エルバイン様はわたしの呼びかけに右手を上げて応えると、優しく微笑んで歩み寄ってくる。
「こんな所でどうなさったんですか?」
「ちょっと害御虫退治に、ね。」
ザガート様が黒騎士団を率いている団長とはいっても、わたし自身は黒騎士であるエルバイン様とそう接点はない。でも何故か街中でよく鉢会う人だった。今日はお仕事がお休みなのか騎士の制服ではなく私服姿で帯剣もされていない。
そう言えばエルバイン様だけではない。わたしが街に出かけると決まって黒騎士団か、魔法師団に属する方々と出会ってしまう。街の巡回中と言う事もあるのかもしれないけれど、彼らは出会うと決まってわたしを目的地まで送り届け、最後には屋敷にまで同行して下さるのだ。
ザガート様の屋敷に勤める人に何らかの危害があってはいけないとか、非番だからとか、ついでだからとか様々な理由はあるけれど、必ず決まって偶然出会ってしまうのだ。結局はザガート様の人望だと言う所だろうけれど、忙しい方々の手を煩わせてしまっているようで心許ないと今更ながら痛感し、完璧に覚えたつもりでいた孤児院までの道のりを今日も肩を並べて歩く羽目になってしまった。
エルバイン様は孤児院からの帰路も同行して下さるつもりらしい。わたしが建物の中に入って院長に菓子を渡して来ると、エルバイン様は小さな孤児たちに纏わりつかれ、それを嫌がるでもなく枝を片手に剣のまねごとをして下さっていた。
本当にザガート様の周りには人格者ばかりが揃っていて、孤児の頃に貴族やお金持ちに抱いていた嫌な思いが本当は間違いであったと気付かされた。
菓子を届け、エルバイン様と肩を並べて御屋敷に戻る。住まうのはザガート様お一人でも大きな御屋敷なので仕事は山の様にあるのだ。掃除に洗濯、調理場の手伝いをしているとあっという間に夕暮の時を迎えた頃に、主であるザガート様がお早いご帰宅となった。
ザガート様は本当にお忙しい方だ。戦争がない今であるけれど他国との小競り合いは時々あると聞く。国を守る為に奔走し、剣の訓練に魔物退治、民の治安に心を配って事務仕事まである。早朝から深夜まで働き詰めでお身体が心配でならない。だからお早いお帰りはとてもうれしいのだけれど、いつもは深夜になる事の方が多いお帰りが夕刻とあっては何かあったのかと不安に駆られる。
執事のグレンさんとライラさんに続いて並び、ご帰宅になられた主をお迎えする。
出かけた時の馬車ではなく騎乗での帰宅は急ぎの何かがある時だ。不安を覚えながら無言で歩み寄ってくるザガート様を見ていると大きな黒影がわたしの目の前で止まり、そのまま剣を掴む武骨で大きな手に両腕を掴まれた。
「―――っ!」
掴まれた個所があまりにも痛くて思わず悲鳴を上げそうになるのを必死に堪える。
黒騎士団を率いる団長であるザガート様はとても大きな体をしていて力も強い。わたしのように非力な女などが相手なら指の先で首を捻ねるのなど容易いのだと、いつだったがフェルティオ様が教えて下さった事があった。実際指を骨折してしまった事があったけれど、その時見せたザガート様の悲しそうなお姿を思い出すとこの程度の事で声を上げてしまっては申し訳がない。
だってザガート様は国をお守りになる重要な任にあり、それに相応しい力をお持ちなだけなのだ。例え骨を折ったとしてもそれは非力すぎるわたしの責任。何の力もないわたしのせいなんだ。
だからわたしは鬼気迫る表情で掴んだ腕に力を込めるザガート様を、痛みに耐えながらだまって見つめていた。
いったい何があったんだろう?
わたしの腕を掴んで無言のまま耐えがたい表情で見つめている。碧い瞳は恐ろしい程に赤く血走り、眼病にでもなったかと心配になってしまった。
そう―――きっとそうだ。目の調子がお悪くてそれを訴えようとなさっているんだわ!
目を患うのは騎士であるザガート様にとっては一大事。一刻も早く医師を呼ばなくてはと隣に立つライラさんの方へ向くと、グレンさんと一緒になってあわあわと蒼白になっていた。お二人はわたしなんかよりもずっと早くこの異変に気付いていたのだ。わたしはなんて駄目な使用人何だろうと落ち込んでしまうけれどそれは後。まずはザガート様に治療を受けて頂く事の方が先決だ。
「ザガート様、まいりましょう!」
痛みに震える腕でザガート様の腕を掴み返す。
医師を呼ぶよりも直接行った方が早いと思ったわたしは、ザガート様に馬に乗っていただき目を患う主に変わって手綱を引こうと思ったのだ。
「やはりその方がよいだろうか?」
いつの間にやら全身にびっしょりと汗をかいているザガート様が赤く充血した目で見つめるので、わたしの心臓が不謹慎ながらも早鐘を打ってしまう。
嫌だわ、聞かれてしまったらどうしよう―――
恥ずかしすぎて俯き「その方がよろしいかと思います。」と返事をすると、突然ザガート様は「うおぉぉぉぉ―――っ!!!」
と雄たけびを上げた。
そんな…そんな大声を出さなければならない程わたしの心臓は大きな音を立てていたのですか?!
恥ずかしさのあまり涙腺が緩んでしまい涙が零れ落ちる。
するとザガート様の手が緩みわたしから腕を離してくれたので、わたしは赤くなった頬を隠すように顔を両の手で覆った。
恥ずかしすぎて死にそうです。
でも主の大事にわたしの羞恥心なんてどうでもいい事。
「まいりましょう…」
小声で呟くとどうしたことかザガート様は両腕をわたしの背と膝裏に回し、あっという間に抱えて馬に飛び乗ると全速力で駆け出してしまった。
背後からライラさんとグレンさんの焦る声が聞こえたがあっという間に聞こえなくなり、馬のひづめの音だけがわたしの心臓の音をかき消す。
猛烈に揺れる騎乗では、その揺れに合わせ先ほどザガート様に掴まれていた腕の場所がズキズキと痛みを訴えてきていたがそんな事はどうでもいい。
ザガート様の大事だと言うのにこんなに近くにいられて幸せで、もう死にそうだと思ってしまったわたしは本当に死んでしまうのかもしれない。
せめて馬を止め手綱を引かせてほしいと懇願しようとしたら舌を噛んでしまった。
ザガート様の手綱さばきであっという間に街の広場に到着する。すると今まで混雑して賑わいを見せていた広場からは蜘蛛の子を散らすように人がかき消えてしまった。
みんなザガート様の為に道を開けてくれているんだ。
そう思っているとザガート様が馬から降りてわたしの手を引いて広場の中央に立たせる。
『舌を噛んで抵抗したみたいだ、可哀そうに―――』
『でも死なれちゃ俺たちが―――』
静まり返った広場でそんな囁きが耳に届き慌てて唇を拭うと、荒れた手に乾き始めた血が滲む。先ほど噛んだ舌からの出血だろう。恥ずかしいなと頬を染めると、大柄な筈のザガート様の視線が目の前にあり、ザガート様がわたしの目の前に跪いているのだとようやく理解した。
驚いたわたしは腕の痛みもわすれてザガート様に手を差し伸べる。
突然膝を折られたザガート様に不安を覚えた。目だけではなく他にもどこかお悪いらしい。先ほどの囁きにもあったように、ザガート様に死なれでもしたらとんでもない事になってしまう。広場にいる誰もがザガート様を案じ見守っているのだ。わたしはザガート様に仕える身として彼らに変わり、精いっぱいおささえしなければと使命感に駆られた。
一刻も早く医師の下へ急がねばと、失礼ながら跪いてしまったまま動かないザガート様の肩に触れる。するとその大きく広い肩がかすかに震えていた。
「ザガート様?!」
わたしはあまりの驚きに声を上げてしまう。
いったい何があったというのだろう。俯き気味にしておられるその顔色は青褪めて今にも倒れてしまいそうだった。
屈強な武人で向かう所敵なしの御方。相手が魔物であっても蹴散らしておしまいになられる、それ故に無敵だと思われてしまうのだけれど、この方も人なのだ。
青褪めていると言うのに今度は真っ赤になったかと思うと、次は大量の汗が吹き出しぽたぽたと石畳に落ちて行く。
いったい何の御病気なんだろう?!
焦ったわたしがお支えしようと屈みこむと、突然顔をおあげになったザガート様に両手を取られ、わたしの倍も大きな手にその手を包みこまれた。
熱く汗ばんだ手のひらから熱が伝わってくる。
何て高熱だ。今にも倒れてしまうのではないかとわたしは声にならない悲鳴を上げた。
そんなザガート様が苦しそうに言葉を紡ぐ。
「これから先、私と共にいて欲しい―――」
充血した熱く鋭い眼差しがわたしを捉えて来る。
こんなに素敵な方に見つめられてはいつものわたしなら頬を染めてしまっていただろう。でも今はそんな不謹慎な感情は捨て去られていた。
「勿論ですっ!」
「―――っ、それは本当か?!」
「嘘偽りなんてありません、何処までもお供いたします!」
病人を前に大きな声を出してしまった自分にさえ気づかない。今のわたしは一刻も早くザガート様を医師に見せなくてはと言う使命に支配されていた。
ザガート様はぶるぶると震えながら握りしめたままになっているわたしの手を額に押し付ける。驚いたわたしは思わず手を引こうとしたが、それと同時にザガート様がその手を離したせいで後ろにつんのめり尻餅をついてしまった。
すると何を思ったかザガート様はわたしのスカートの裾を大きな指でつまむと、それに口を押し当てる。さらに驚いた事にザガート様の宝石のように美しい碧い瞳から大粒のダイヤが零れ落ちる如く…涙が―――溢れ出したのだ。
「いついかなる時も永遠にそなたを守り、慈しむと誓おう。」
落涙し咽び泣きながらスカートの裾を唇に押し当てるザガート様の姿に周囲が歓声を上げる。
これはまるで―――
ふと自分にはあり得ない筈の出来事がおきてしまったような感覚に襲われ唖然としていると、横から伸びて来た第三者の手によって目の前に白い紙が差し出された。
つられるように紙を差し出した腕の主を見上げると、今朝方お会いしたフェルティオ王太子殿下が神々しいまでの麗しいお姿で微笑まれておいでにいなった。
なのに何故だろう、背に悪寒が走るのは。
慌てて頭を垂れたわたしにフェルティオ様は何処から取り出したのか筆を差し出し、わたしはそれを条件反射で受け取る。
「ここにサインして。」
「―――は?」
唖然とするわたしにフェルティオ様は「契約書」だ言ってと微笑まれる。台にする物がないのでフェルティオ様は契約書を四つ折りにして紙に厚みを持たせた。
これでサインをし易くなったけれどいったい何の契約書だろうと首を捻り、そう言えばザガート様の御屋敷で働く雇用契約書にサインをしていなかったことに思い至る。
もう一年にもなると言うのに未だに忘れてしまっていた。でも何故今なのだろうと、ザガート様の容体が心配なわたしはさっと名を書き連ねる。
「ではこちらにも。これにはリア=ゲルハルクで記入してもらうよ。」
もう一枚の契約書はかなり厚みのある紙でできていて、それは綺麗に二つ折りにされていた。
なんで二枚、それもどうして『リア』ではなく『リア=ゲルハルク』なのだろうと考えていると、またしても思考を遮断される。
「今のはゲルハルクが君の後見になるという書類、こちらはザガートとの契約だ。」
さぁ早くと急かすフェルティオ様に言われるまま筆を持ち、『リア=ゲルハルク』と記入を済ませる。礼儀知らずなわたしの後見を引き受けて下さるなんて、きっとお優しいアルフォンス様の助言があってに違いない。なんて有難いと思うと同時に、わたしがザガート様のお屋敷にお勤めさせて頂くにはきちんと身分のある後見人が必要なのだと痛感し、やはり自分とザガート様では住む世界が違いすぎるのだと否応なしにも気付かされ、心がつきりと痛んだ。けれど―――
いやいや、こんな感傷に浸っている暇なんてなかったのを思い出す。
兎にも角にも今は調子がお悪いザガート様を医師に見せるのが先決と我に返ったわたしの目の前に、とても大きな山がどっしりと影を落としていて、見上げるとそれはザガート様だった。
わたしが声を発するより先にザガート様はわたしの右手首を掴むと、そのまますごい速さでどこかへ向かって突き進んでいく。辺りから悲鳴が上がったけどそれはわたしの耳に届かなかった。
だってこの時、わたしはザガート様に腕を引かれ足は地面に付かず体は宙に浮いた状態。しかも腕を引かれた瞬間ずきりと鋭い痛みがわたしを襲って息を止めていたのだ。
とても周囲に構っていられる状態ではなかった。
足が地面に付いてからもズキズキと痛む腕を庇い、それをザガート様に知られるのが怖くてずっと俯いていた。だからすぐ側で何やら口上を述べる老人の声も、ザガート様の声も何も聞こえなかったのだ。
「―――ァ、リア、聞いているのか?」
「え、あ…はいっ!」
「では誓いの口付けを。」
「えっ―――?」
突然の声に目を向けると、そこには高齢の為にすっかり腰のまがっている筈の神官様が背筋を伸ばし、いつもは優しい慈愛に満ちた灰色の瞳を驚愕の様に見開いている姿があった。
ここは教会?
なんで自分がこんな所にいるのだろうと首を捻ると、大きくごつごつした手が頬に触れる。
あっと思った瞬間―――
わたしの唇にザガート様の唇が重ねられていた。
この後すぐにわたしはザガート様と二人、ロウディーンの北にある美しい湖畔の別荘に七日間ほど滞在して帰って来る事になる。
ゲルハルク家の養女となり、ザガート様との婚姻契約書にサインしていたなんて全く知らなかったわたしは、それが新婚旅行なるものだなんて思いもしないまま、湖畔の別荘で主と侍女として過ごし帰宅した。そこへお忍びでお屋敷にやって来たフェルティオ王子が旅行での出来事を知るや否や、こんこんとお説教されながらも頭の中は真っ白で、王太子殿下の有難いお言葉も全く耳に入る事はなく。
これが夢ではないと気付かされた後、わたしはそのまま程昏睡状態に陥ってしまった。