四時間十二分
朝七時四十分、わたしは夫に「もう帰ってこなくていい」と送った。
送信ボタンを押したあと、端末の画面に、いつもの表示が出た。
トリトン観測所宛 到着予定 11:52
四時間十二分後。
光の速さで、わたしの言葉は海王星まで飛んでいく。止める方法はない。光より速く走れるものは、この宇宙のどこにもないからだ。
そのときのわたしは、止めたいとも思っていなかった。
*
夫の遼は、海王星の衛星トリトンの観測所で、ひとりで働いている。
三年の契約だった。来月、地球に戻ってくるはずだった。それが昨夜、メッセージの最後に、こう付け加えてあった。
『延長の打診が来た。あと二年。考えてる。ここは、風がなくて静かなんだ』
考えてる、というのは、もう決めているという意味だ。結婚して八年、遼の「考えてる」が「やめる」になったことは一度もない。
だから、わたしは怒った。
朝のコーヒーを淹れながら、録音もせずに文字だけで打った。顔を見せたくなかった。声も聞かせたくなかった。
『そんなに静かなところが好きなら、もう帰ってこなくていい』
四時間十二分。
喧嘩は、いつもこのくらいの間をおいて届く。怒っても、相手が怒り返してくるのは八時間半後だ。そのころには、たいていこちらの怒りは冷めている。
遠距離の夫婦は、喧嘩が下手になる。
わたしたちは、謝るのも下手だった。
*
午後一時五十分、宇宙機関から電話があった。
画面の向こうの職員は、わたしより若い女性だった。彼女は、言葉を選ぶのに失敗しないように、ゆっくり話した。
「トリトン観測所が、微小隕石の破片による損傷を受けました。地球時刻で、午前九時三十分の出来事です」
九時三十分。
わたしは壁の時計を見た。今は十三時五十分。
「私たちがそれを知ったのは、十三時四十二分です。観測所からの信号が届くのに、四時間十二分かかるので」
「夫は」
「水城遼さんは、生存して退避区画に移られたことを確認しています。退避区画の酸素は、およそ三時間分です」
わたしは計算した。
九時三十分に事故。三時間。十二時三十分。
今は、十三時五十分。
「……もう、過ぎてますよね」
職員は、少しだけ黙った。
「救助船は、最も近いものでも到着に十一日かかります。申し訳ありません」
夫は、わたしがこの電話を受ける一時間二十分前に、たぶん、もう死んでいる。
そして、わたしはそれを、確かめることさえできない。確かめるための光は、まだ宇宙のどこかを飛んでいるのだから。
*
「水城さん。観測所からの個人宛の記録が、まだ届き続けています」
職員が言った。
「退避区画から、ご主人があなた宛に送信したものです。こちらで中身は確認していません。転送してよろしいですか」
「……届き続ける、というのは」
「ご主人が送信した時刻から、四時間十二分後に、ひとつずつ届きます。最後の送信がいつなのかは、まだ分かりません」
わたしは、頷いた。
電話が切れたあと、わたしはもう一度時計を見て、計算をした。
わたしの朝のメッセージが観測所に着いたのは、十一時五十二分。
遼が退避区画にいた時間だ。
酸素が尽きる、四十分前。
遼は、読んだのだ。
最期の四十分のうちに、わたしの「もう帰ってこなくていい」を、読んだのだ。
*
今から何を送っても、届くのは十八時二分だ。
そのとき、観測所には誰もいない。
謝罪も、取り消しも、愛しているも、何ひとつ追いつかない。光は光を追い越せない。朝のわたしの言葉は、正しく、速く、何の手加減もなく、夫に届いてしまった。
わたしは、取り消し方を探した。
機関に電話をかけ直して、観測所の受信記録を消せないかと訊いた。若い職員は、それができたとしても、命令が届くのは四時間十二分後だと答えた。
分かっていて、訊いた。
*
十四時五分、最初の記録が届いた。
画面に、遼の顔が映った。退避区画は狭くて、オレンジ色の非常灯がついていた。遼は、カメラに向かって片手を上げた。
『美澄。ちょっとやられた。今、退避区画にいる。心配しないで、と言いたいところだけど、たぶんこれが届くころには、全部分かってると思う。だから先に言っておくね』
送信時刻は、地球時刻の九時五十三分。
四時間十二分前の、遼だ。
わたしが知らない、まだ生きている遼。
『ここ、思ったより寒くない。それと、窓がある。海王星が見える。青いよ。きみに見せたかった』
記録は、それで終わった。
わたしは画面の前に座ったまま、次を待った。
*
記録は、ぽつりぽつりと届いた。
十四時四十一分。遼は、観測所の植物の話をした。トマトを育てていたこと。最後の一個を、さっき食べたこと。
十五時十六分。遼は、結婚式の日の話をした。わたしが式の途中でくしゃみを三回したこと。神父が笑いをこらえていたこと。
十五時五十八分。遼は、少し咳をしていた。酸素の数字の話は、しなかった。
どの記録にも、わたしの朝のメッセージの話はなかった。
まだ、届いていないのだ。
遼の時間では、まだ十一時五十二分になっていない。わたしの「もう帰ってこなくていい」は、まだ宇宙を飛んでいる途中だ。
画面の中の遼は、それを知らない。
知らずに、笑っている。
記録が届くたびに、次が来るのが怖くなった。
次の便で、遼はわたしの言葉を読む。
わたしの夫は、生涯の最後に、妻から「帰ってこなくていい」と言われて死んだ男になる。
そして、わたしはそれを、四時間十二分遅れで、見届けなければならない。
*
十六時五分、機関からもう一度電話があった。
「観測所の送信機が、最後の記録を送り出したことを確認しました。こちらへの到着は十六時二十二分です。それ以降の送信はありません」
若い職員は、一度息を整えた。
「ご遺族のご希望があれば、最後の記録は開封せずに、機関で保管することもできます。お聞きにならない方も、いらっしゃいます」
「……どうして」
「最後の言葉を、知らないままでいたい、と」
電話を切ったあと、わたしは画面の前で、手を膝に置いた。
聞かなければ、遼は、わたしの言葉を読む前の遼のままだ。トマトの話をして、くしゃみの話をして、笑っている遼のまま。わたしの最後の言葉が何だったのかを、知らないままでいられる。
聞けば、それが決まる。
十六時二十二分。
画面に、着信の表示が出た。
トリトン観測所発 送信時刻 12:10
十二時十分。
わたしのメッセージが着いた、十八分後。
再生のボタンの上で、指が止まった。
保管を頼む番号は、まだ通話履歴の一番上にあった。押せば、遼はずっと、わたしの言葉を知らない人でいてくれる。
壁の時計の秒針が、一周した。もう一周した。この十分も、遼の時間にはもう存在しない。光の中にしか、遼はいない。
あの言葉を送ったのは、わたしだ。
受け取ったものから、目をそらすわけにはいかなかった。
再生した。
遼の顔は、さっきより白かった。非常灯のオレンジ色が、頬の上で揺れていた。息が浅かった。それでも、口の端が上がっていた。
『美澄。メッセージ、読んだよ』
わたしは、両手で口を押さえた。
『すごいね。七時四十分に送ったんだね。ぼくが延長の話をしたのは、きみの時間で昨日の夜で、きみは一晩寝て、朝コーヒー飲んで、それでもまだ怒ってたんだ。ちゃんと怒ってくれたんだね』
遼は、小さく咳をした。
『延長は、断るつもりだった。静かなのは本当だけど、静かすぎて、きみの文句が恋しかった。そう書けばよかったのに、ぼく、いつも半分しか書かないね』
『帰ってこなくていい、か。八年いっしょにいて、いちばんきみらしい文だった』
画面の中で、遼は窓のほうを見た。
『こっちは、いい凪だよ。宇宙には風がないから、いつでも凪なんだけど。今日のは特別に静かだ』
『返事は、いらない。届くころには、ぼくはたぶん受け取れないから。でも、もしきみが何か送ってくれたら、その光は、ぼくのところを通り過ぎて、ずっと先まで飛んでいく。止まらないで。それって、ちょっといいよね』
『美澄。帰れなくて、ごめん』
『愛してるよ。朝の分も、まとめて』
記録は、そこで終わった。
それきり、次の着信は来なかった。
*
夜になった。
わたしはベランダに出て、空を見上げた。海王星は、肉眼では見えない。それでも、どの方角にあるかは知っている。南西の、ほとんど地平線の近く。
端末を開いた。
送信先は、トリトン観測所。
受け取る人は、いない。
それでも、わたしは録音ボタンを押した。今度は文字ではなく、声で。顔も、ちゃんと映して。
「遼。あなたの返事、聞いたよ」
「延長、断ってくれてありがとう。それから、帰ってこなくていいなんて、嘘。全部嘘」
「愛してる。朝の分も、まとめて」
送信を押した。
画面に、いつもの表示が出た。
トリトン観測所宛 到着予定 翌日 01:36
四時間十二分後に、この光は観測所に着く。
誰も受け取らない。光は受信機の前を通り過ぎて、海王星を越えて、冥王星を越えて、太陽の風が届かない、本当の凪の海へ飛んでいく。
止まらない。
どこまでも。
わたしは、ベランダの手すりにもたれて、南西の空を見ていた。そこには何も見えなかった。でも、わたしの言葉は今、確かにそこを飛んでいる。
遼の言葉が、四時間十二分かけて、わたしに届いたように。
わたしは端末を胸に当てたまま、南西の、何も見えない空の一点を、もうしばらく見ていた。




