聖女様がいらしたので、身代わりはもう不要だそうです。では、十年分の呪いをお返ししますね。
「ノエラ・カーヴェル。本日をもって、王家付き身代わりの任を解く」
王太子アルブレヒト殿下の声が、大広間の高い天井に跳ね返った。
秋の叙任式の締めくくりだった。居並ぶ貴族はざっと二百人。そのど真ん中で名前を呼ばれるのは、十年ぶりになる。前は八歳のとき、この役目を言い渡された日だ。
「聖女マリエラの加護によって、今後、王家はあらゆる呪詛から守られる。もはや身代わりを置く理由はない」
殿下の半歩うしろで、金髪の女の子がぺこりと頭を下げた。春に神殿が辺境の村で見つけてきたという聖女様だ。胸の前で組んだ手のまわりが、ほんのり明るい。噂どおり、加護は本物らしい。
広間のあちこちで忍び笑いが起きた。
「やっと北の塔が空くわね」
「あの手袋、真夏でも外さないのよ。何を隠しているんだか」
聞こえるように言っているのだから、聞いておく。十年もいれば、こういうのは右から左へ流せるようになる。
私は前へ出て、膝を折った。
「確認させてください、殿下。明日から、王家に向けられた呪いを私が受ける必要はない、ということでよろしいですか」
「そうだ」
「毎朝の誓約の更新も」
「要らん」
「北の塔の鍵は」
「好きにしろ。返したければ返せ」
「塔を出て、どこへ行ってもかまわないと」
殿下が眉を寄せた。
「何が言いたい」
「いえ。十年、塔と礼拝堂のほかには出たことがなかったもので」
笑い声が少し減った。気まずくなった人がいたのかもしれないし、単に飽きたのかもしれない。
「ひとつだけ、申し上げておきたいことが」
「くどい」
殿下は手を振った。
「お前の話は聞き飽きた。陛下が巡幸からお戻りになる前に、この件は片付けておく。それだけだ」
ああ、陛下はご存じないのか、と思った。
ご存じないなら、なおさら言っておいたほうがいい気もしたけれど、くどいと言われたばかりだ。殿下は陛下がご不在のあいだの代理である。代理のご判断に、身代わりが口をはさむ筋合いはない。
「かしこまりました。では、恐れ入りますが、解任状をいただけますか」
「解任状?」
「身代わりの誓約は書面で交わしました。解くときも書面が要ります。殿下のご署名があれば足ります」
殿下は面倒くさそうに書記官を呼んだ。羊皮紙が用意され、文言が読み上げられ、殿下は羽根ペンを大きく走らせた。これみよがしな、いい署名だった。
「これでいいな」
「はい。確かに」
受け取った羊皮紙を胸に当ててから、私は左の手袋を外した。続けて右も。
前列のご婦人が、ひっと息をのんだ。
手首から肘の上まで、黒い茨の模様がびっしりと這っている。刺青のように見えるけれど、これは肌の上ではなく、少しだけ内側にある。ときどき脈に合わせて、ちくりと動く。
「なんだ、それは」
殿下が顔をしかめた。
「十年分の呪いです」
私は答えた。
「身代わりの誓約は、呪いを消すものではありません。王家の皆様に届くはずだった呪いを、途中で私が預かっておくだけです。預かったものは、ここに溜まります」
「……それで?」
「誓約を解けば、預かっていたものは、本来の宛先へ戻ります」
広間が、しんとなった。
聖女様が「えっ」と声を漏らした。殿下は口を半分開けたまま、私と羊皮紙を交互に見ている。
「ご安心ください。聖女様の加護がございますから」
私は解任状を右腕に押し当てた。殿下の署名のインクが、茨の上でじわりと滲む。
「誓約を解きます。王家の皆様宛にお預かりしていた三百十二件、お返しいたします」
◇
最初に動いたのは、右手首の一本だった。
茨の模様が肌からはがれて、糸のように細くほどけていく。水に落としたインクみたいに宙へ広がったかと思うと、黒い糸はまっすぐ殿下のほうへ飛んだ。
「な、」
殿下が一歩下がった拍子に、靴のかかとが折れた。
殿下は見事に尻もちをついた。
「三十七番」
私は腰の袋から黒い帳面を出して、ページをめくった。
「七年前の冬、殿下宛。内容は『転べ』です」
誰かが吹き出して、慌てて咳でごまかした。
二本目、三本目と、糸が次々に腕からはがれていく。ほとんどが殿下へ、残りは開いた窓から北東の空へ飛んでいった。巡幸中の陛下がいらっしゃる方角だ。
「八十二番、殿下宛、『声が裏返れ』」
「な、なにをッ」
殿下の声が、途中で鶏みたいにひっくり返った。
「百十番、殿下宛、『鼻がむずむずしろ』。百十一番、同じ方から、同じ内容です。よほどお嫌いだったのでしょうね」
殿下のくしゃみが止まらなくなった。
大半は、この程度のものだ。王族に届く呪いの多くは、腹を立てた誰かが夜中に藁人形へぶつけたような、ちいさな嫌がらせにすぎない。一件ずつなら、たいしたことはない。
ただ、十年分となると話が違う。
「せ、聖女マリエラ……! なんとかしろ!」
くしゃみの合間に殿下が叫んだ。
聖女様が両手を前へ突き出した。まぶしい光が広がって、殿下へ向かっていた黒い糸が何本か弾かれる。おお、と広間がどよめいた。
けれど弾かれた糸は、消えなかった。殿下の頭上をくるくる回って、隙をうかがうように漂っている。
「え、なんで……消えない……」
「聖女様の加護は、これから届く呪いを防ぐものです」
私は帳面をめくりながら言った。
「もう届いてしまった呪いは、防いでも消えません。解くか、送り主へ返すか、どちらかです」
「と、解く……? そんなの、神殿で習ってません……」
聖女様の顔が青くなった。
この子のせいではない、と思う。聖女は呪いを寄せつけない。そう教えられてきたのだろうし、それ自体は正しい。ただ、寄せつけないことと、片付けることは別の仕事だというだけだ。そして、呪いを送り主へ返せるのは、発動したあとだけだ。身代わりが預かった呪いは、発動する手前で眠ったまま、腕に溜まっていく。眠っている呪いには、たどる糸口がない。だから十年間、私にできたのは、預かって、帳面に控えることだけだった。
腕の茨は、もうほとんど残っていなかった。肌が十年ぶりに軽い。袖口から入る風が冷たくて、少し驚く。
「ところで」
私は顔を上げた。
「呪いには、送り主の癖が残ります。筆跡のようなものです。お預かりするたびに、宛先と内容と、送り主のお名前をこの帳面に控えてまいりました」
広間の空気が、はっきりと変わった。
「帳面にある三百十三件のうち、四十一件は」
ページを閉じる。
「本日ここにご列席の皆様から頂戴したものでした」
誰も笑わなかった。
扇子で顔を隠したご婦人がいた。急に襟元を直しはじめた伯爵がいた。最前列の侯爵閣下は、さっきまで一番大きな声で「北の塔が空く」と笑っていた方だけれど、今は置物みたいに固まっている。
「ご安心ください。私はもう王家付きではございませんので、どなたのお名前を申し上げる務めもありません」
安心してもらえたかどうかは、わからなかった。
十年間、送り主を尋ねられたことは、一度もなかった。
身代わりが預かった呪いは、誰の身にも届かない。届かない呪いは、誰も傷つけない。傷つけていないものを罪に問う法は、この国にはない。
王家も、それで構わないとお考えだった。呪いを送ってくる貴族を一人ずつ裁くより、塔に身代わりを一人置いておくほうが、ずっと安上がりで、波風も立たない。この帳面は、誰にも頼まれずに、私が勝手につけてきたものだ。
けれど今夜からは、話が違う。三百十二件は、宛先に届いた。私が名前を申し上げなくても、帳面は残る。
青ざめた方々は、たぶん、そのことに気づいたのだと思う。
「ま、待て、ノエラ」
くしゃみをこらえながら、殿下が床から手を伸ばした。
「これを、元に戻せ。もう一度、預かれ」
「解任状にご署名をいただきましたので」
「命令だ!」
「私はもう王家付きの者ではございません。殿下のご命令をお受けする立場にないのです」
私はスカートの裾をつまんで、この十年でいちばん丁寧なお辞儀をした。
「長らくお世話になりました」
背を向けて、大広間を出る。扉のところで、左の手首がちくりとした。
見ると、茨の模様が一本だけ残っていた。親指の付け根ほどの、ちいさな一本。
帳面の百九十七番。
宛先の欄には、私の名前が書いてある。
送り主の欄は、十年間ずっと空白のままだ。
◇
北の塔の荷物は、鞄ひとつに収まった。
着替えが三着。帳面の予備が二冊。インク壺。それから、八歳のときに持ってきた木の櫛。十年暮らした部屋の中身としては少ないのかもしれないけれど、身代わりに私物はあまり要らなかった。
窓の外はもう暗い。王宮のほうは、夜だというのに灯りが増える一方だった。廊下を走る足音。医師を呼ぶ声。ときどき、遠くで殿下のくしゃみ。
塔の階段を下りると、門番のボルツさんが詰所の前に立っていた。
「行くのかい、嬢ちゃん」
「はい。お世話になりました」
「世話なんかしちゃいないさ」
ボルツさんは、紙に包んだパンを差し出した。まだ温かい。
「毎朝おはようと言ってただけだ」
「十年間、毎朝言ってくださったのは、ボルツさんだけでした」
受け取ってから、私は帳面を少しだけ持ち上げてみせた。
「ボルツさんのお名前は、この帳面のどこにも載っていません」
「そりゃあ、俺は呪いのかけ方なんか知らないからな」
ボルツさんは笑った。私も、少し笑った。たぶん、そういう意味ではなかったけれど。
門を抜けようとしたとき、左手首がむずむずした。
百九十七番の茨が、肌からはがれかけている。ほかの三百十二件と同じように宙へほどけて、どこかへ飛んでいくのかと思った。
飛んでいかなかった。
黒い糸は手のひらの上でくるりと丸まって、握りこぶしほどの塊になった。塊から、ちいさな頭が出た。くちばしが出た。棘みたいな羽が生えた。
黒い、ちいさな鳥だった。
鳥は私の指にとまって、首をかしげた。
「いくな」
しゃがれた、ひどく小さな声だった。
「……送り主がわからないから、返す先がないのね」
百九十七番が届いたのは、身代わりになって最初の冬だった。八歳の私に、誰かが「行くな」と呪いをかけた。どこへ行くなというのか、送り主が誰なのか、十年かけても読みとれなかった。
ほかの三百十二件と違って、この一件だけは、預かったものではなかった。宛先が私なのだから、身代わりも何もない。届いた冬から、ずっと効いていたのだろう。
十年、塔と礼拝堂のほかへ一度も行かなかったのは、務めのせいだと思っていた。
「いくな」
鳥がもう一度言った。
「悪いけど、もう行くの」
私は鞄を持ち直して、門の外へ一歩出た。鳥は指から肩へ移っただけで、飛び去りはしなかった。
「行くなと言いながら、付いてくるのね」
「いくな」
「はいはい」
◇
その頃、王宮では。
殿下の寝室には医師が三人呼ばれていた。くしゃみは止まらず、声は裏返ったまま、寝台から降りようとすればなぜか必ず足がもつれる。枕元では、頭上を漂う黒い糸を聖女様が夜通し追い払っていた。
北東へ向かった早馬は、夜半に戻ってきた。巡幸中の陛下の馬車は、車輪が三つ同時に外れて動けなくなっているという。陛下宛の呪いは殿下宛のものより数が多く、中身も重い。
宮廷魔術師長が青い顔で進言した。届いてしまった呪いを送り主へ返せる者は、この国に一人しかいない。十年間、あの呪いを預かり、送り主の名を一件ずつ読みとってきた者だけだと。
同じ夜、最前列にいた侯爵閣下は、屋敷の私兵を集めていた。
黒い帳面を、どんな手を使ってでも手に入れるために。
◇
王都の東門を出たところで、夜が明けはじめた。
さて、どこへ行こうか。考えてみると、行き先を自分で決めるのは初めてだった。思っていたより、ずっといい気分だった。
呪いを預かることと、届いてしまった呪いを送り主へ返すこと。私にできるのは、その二つだけだ。王家の誓約はもうないけれど、町の人たちだって、隣人に嫌がらせの呪いをかけられて困っていることはあるだろう。そういう人から少しずつお代をもらって暮らせばいい。
看板の文句は、もう決めてある。
『呪い、お返しします』
「いくな」
「行きます」
そのとき、うしろから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
振り返ると、白い神官服の裾をたくし上げた女の子が、室内履きのまま街道を走ってくるところだった。金色の髪が朝日に光っている。
聖女マリエラ様だった。
「ま、待ってください……!」
息を切らして、聖女様は私の前で膝に手をついた。
「わ、私に、解き方を教えてください。殿下の糸、追い払っても追い払っても戻ってくるんです。神殿の人たちは、聖女なら祈れば消えるって、それしか言わなくて」
「王宮にいなくていいのですか。聖女様がいなくなったら、殿下は大変でしょう」
「だって、私がいても大変なままなんです」
聖女様は顔を上げた。目の下にくまができている。一晩中、あの糸を追い払っていたのだろう。
「あの人たちに教わるより、あなたに教わりたいです」
肩の上で、鳥が「いくな」と鳴いた。聖女様がびくっとした。
私はパンの包みを半分にちぎって、聖女様に渡した。
「授業料は、高いですよ」
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