響と真夏のビーチ
照りつくような日差しと煩わしい喧騒。それを遮るのは一枚のカーテンのみだった。白昼にも拘らず可能な限り暗く保たれた室内。揺れる燭台の火とむせ返るような香の匂い。床に描かれた魔法陣を囲み、ローブを目深に被った男達は頷き合う。
「何とも感慨深い。とうとう我らが悲願が成就するのだな」
「うむ。我らが神が欲に塗れた俗世を一掃し、この世を選ばれし者だけの楽園に創り変えるのだ」
「しかし同志よ。本当にうまくいくのか? 鍵は我々の下にはないのだぞ?」
「確かに神を呼ぶための鍵はこの部屋にはないが……この『場所』にはある。ならば間違いなくうまくいくだろう」
「しかりしかり。しかし、連中もまさか我々が鍵に手を付けずに儀式を行おうとは思ってもおるまい」
「所詮は島国の猿共という事よ。まさかあれを客寄せなどという俗な目的で展示するとは……あの鍵の重要性に全く気付いていないとは救いようのない凡愚だな」
「そう言うな。その低俗な猿共のおかげで我々がこうやって鍵を利用できるのだ。言葉を解せる知性があるとはいえとはいえ猿は猿、所詮はケダモノ……我らの楽園には招かれぬであろうが、その礎となれるのならばその生に意味はあったという事であろう」
くぐもった嘲笑が部屋の中を支配する。
男の一人が魔法陣の上に贄を置く。黒い雌鶏。この日のために育て上げた極上の贄だ。この魔物の産む黄金の卵はカルトの資金源として大いに役に立ったが、それも今日まで。彼らの楽園には金銭などという下賤な物に価値などありはしない。
暴れる雌鶏を押さえつけ、手にしたナイフを高々と掲げ……彼らは神を讃える詩を詠う。神への賛歌を終えた男がその手で贄の命を断とうとしたその瞬間だった。
「はいそこまで」
突如として闖入してくる女の声。それと同時に抱く体の違和感。
手が動かない。否、体全体が動かない。瞳を凝らして見えない物を見ようとする魔術師達。不可視の触手が自らを拘束しているのに気付くのにはそう時間がかからなかった。
扉は締め切っていたはずだった。いつの間に侵入したのだろうか。部屋の中には見知らぬ三人の人影の姿があった。
「あ~もう。借りた部屋で好き放題しちゃって……煙いったらないよ」
躊躇なく開かれるカーテン、続けて窓。新鮮な空気と陽光が、暗く澱んだ儀式場を浄化していく。
部屋が明るくなったことで、儀式の闖入者達の顔がはっきりと認識できるようになった。
窓を開けたのは金髪の女性。やけに流暢な日本語を話す白人の美女だ。
「ったく、いい大人が羽目を外しすぎだ……床にこんな落書きなんぞしやがって……掃除する奴の事も考えろ」
黒髪にサングラス、黒い衣装に黒手袋……黒尽くめの東洋人の男が動けない魔術師達の体を確認し、ナイフを含めた凶器の類を手際よく没収していく。
「ん……血は中々落ちないから生贄は外で捧げるべき……」
一命を取り留めた雌鶏を抱きかかえるのは、これまた絶世の美女。流れるような黒髪を総髪に纏めた和装の麗人。
「き、貴様ら一体……」
「ここのオーナーに雇われた何でも屋だ。てめーらのような馬鹿共が馬鹿しないように邪魔するのが仕事でな」
そういってボディチェックを続ける黒尽くめの男に、男達が毒づく。
「おのれ……未開文明の黄色い猿共がこざかしいマネを……我ら『イェーの解放者』の崇高な目的を邪魔するなど、所詮は無知なる凡愚に過ぎんようだな!」
黒尽くめの男と目が合う。黄色い猿と呼ばれて怒ったのかと思いきや、どことなく困惑したような表情だ。魔術師達のローブがはぎ取られ顔が露になる。悪徳商人と悪巧みする悪代官の如くわざわざ日本語で自分達の目的を語らっていた彼らだったが、その素顔はどう見ても日本人には見えない。
「……お前ら、どこ出身?」
「ふん。無知で哀れな島国育ちよ……恐れおののくがよい! 我らはアメリカ人なるぞ!」
「「「U・S・A! U・S・A!」」」
体は動かないが口は回る魔術師ども。そんな彼らに黒尽くめの男は頭を掻きながら問う。
「なあお前ら、このホテル保有している連中の名前、知ってるか?」
「確か『ダゴン秘密教団』だったか……看板に堂々と秘密などと書き記す浅はかさには滑稽すぎて笑いすら覚える」
「……まじかよこいつら。アメリカ生まれの魔術師のくせしてダゴン秘密教団を知らないとか……どんだけ人里離れた田舎に住んでいたんだ?」
「なっ! 取り消せイエローモンキー! 言っていいことと悪いことがあるぞ!」
「そうだ! 我々は断じて田舎者ではない!」
ギャーギャーと喚き散らすカルトの面々。
「ボディチェック終わり。ナイフ以外は凶器なしだ」
「ねえコーメー、魔導書とかあった?」
「……業務日記と安っぽい自家製聖典があったが」
「どれどれ? 『イェーの真理』かぁ……聖典の割には安っぽい表紙だなあ。コミケの同人誌の方がよっぽど良い出来だねこれ。まあ、本の真価は内容にこそあるからね。そっちを期待しようか」
「あ、おい! ちょっとまて女! 我らの聖典をどうする気だ!」
「何って迷惑料だよ。ダゴン秘密教団の縄張りを荒らそうとしたんだから、それ相応の罰は受けてもらわないとね」
「ん……ぎるてぃ」
「そういう訳だ。さ、お前ら。ついてきてもらおうか。嫌だと言っても拒否権はないがな」
魔術師達は文句を言おうと口を動かそうとして、動かせなくなっている事に気付く。不可視の触手に完全に自由を奪われた形だ。闖入者達のなすがまま、言うことを聞かない彼らの体は部屋を後にした。
ぎらつく日差しが降り注ぐ。そこかしこの樹々からは命を懸けて次代を繋ごうとする蝉達の大合唱が聞こえてくる。まさに夏真っ盛り。
ここは渥浜海水浴場。色々と悪名高い噂の絶えない堅洲町にて唯一と言ってもいい、評価の高い観光地だ。
緑溢るる森林と地平線の向こうまで透き通った海水が、酷暑をも凌ぐ活力を若者達に与えているかのよう。
もっとも、都会では味わえない豊かな自然だけがこの地を人気のスポットにしている訳ではない。ほぼ毎日どこかしらで怪奇事件が起こるというマイナスポイントですら、真夏に一時の涼を取るためのアクセントとなっていた。早い話が肝試し。恐怖をダシにして仲間達や恋人との楽しい一時を満喫しようと、町の外から夏休み中の学生達が集まってくるのだ。
羽を休めるための宿の多さもまた、人気の理由となっていた。鄙びてはいるが風情のある民宿から、セレブ御用達を思わせるようなリッチなホテルなど選り取り見取り。加えて、どの宿でもお出しされる食事は堅洲の栄養をたっぷり溜め込んだ美味なる地元の食材が並ぶとなれば、人気が出るのもむべなるかな。
さて、そんなビーチを見下ろす形で建つ立派なホテルがここに一つ。名をディープ・ピープルと呼ぶそのホテルは、地元で有名なカルト組織であるダゴン秘密教団日本支部の経営するホテルである。
このカルト組織、アメリカの片田舎で恐れられていたのも今は昔、すっかり排他性が鳴りを潜めて地元経済の貢献に精を出していた。ホテルの前では出店が並び、宿泊客以外にも広場を開放。堅洲生まれの教団のマスコット、お魚パーカーを着たゆるキャラ「ノンモくん」の着ぐるみが、家族連れの客達に愛想を振りまきながら風船を手渡ししている。
そんな人気者のノンモくんには相方がいるのだが、それがすこぶる評判が悪い。「ニャントロ」と名付けられたその相棒キャラクターの造形は不気味の一言で片が付く。猫と鮪の間子という設定のそのキメラは、力の入れどころをどこで間違ったのかと問いただしたくなる程のリアル仕様。ゆるキャラなどという言葉を使うには相応しくない、B級SFホラー映画に出てきそうなクリーチャーの如き着ぐるみからは、近寄りがたい雰囲気がひしひしと感じられる。
手にした風船がとかく場違いなこのニャントロに、風船を渡しきったらしいノンモくんが近付いた。
「響殿~! すまぬが風船を分けてもらえないでござるか? 今さっき遼殿が空気入れの不調を治してくれたでござるが、新しい風船が揃うまではもう少し時間がかかりそうなのでござるよ」
「おう……もう全部持ってけ……」
気さくな声でニャントロに語り掛けるのは、ノンモくんの中の人。名は摩周秋水。ダゴン秘密教団日本支部の代表である摩周蔵人の孫である。獰猛な人喰い鮫を思わせる切れ味鋭い長身痩躯の男なのだが、中身は陽気でガチガチの二次元オタク。見た目に似合わぬ人懐っこさが、緩い雰囲気の着ぐるみの仕草に絶妙にマッチしていた。
一方でニャントロの中にいるのは一応は花の女子高生、宮辺響。魔術師の家系に生まれ、貴重な青春時代を修行と借金の返済に注ぎ込んでいる彼女は、不気味な着ぐるみの中から歯切れの悪い応答を返す。
「……大丈夫でござるか? この暑さの中で着ぐるみを着ての接客でござるから、まいってしまうのも仕方ないでござる。無理せず休憩した方がいいのでは?」
「いや、問題はそこじゃなくてだな……なんでこんな着ぐるみを私に押し付けたかって聞きたいんだが?」
チラリと遠くを見やる魚類特有の丸い目。猫耳の生えた不気味な魚類の視線の先には、二体の着ぐるみ。ニャントロと同じくノンモくんファミリーとして生み出されたダゴン秘密教団のオリキャラ「シギトロ」と「ポートロ」だ。それぞれ鴫と鳩をモチーフにしたキャラクター。デフォルメをされた鳥類が鮪パーカーを被った姿は間抜けさと親しみやすさを感じさせ、まさにご当地ゆるキャラと言ったデザイン。それだけに、このニャントロをデザインした魚野郎は頭をやられていたのではないかと響は勘繰ってしまう。
「う~ん……こう言っては何でござるが、響殿はその……」
「いや、分かってる。いつも不愛想な仏頂面だしな、私は。接客業に向いてない事は重々承知してるんだが……だからといってこのデザインは……」
キビキビとポーズを取りファンサービスに答えるシギトロとポートロ。あそこまではっちゃけることは響自身、難しいとは理解している。だが、これでも響はれっきとした乙女なのだ。不気味なクリーチャーよりは愛らしいゆるキャラを演じたい気持ちが微かといえどあった。
「しゅーくん! ヒビキちゃん! きゅーけーじかんだよ~!」
突如として現れたのは響の同級生、加藤環であった。まるで小学生低学年の童女にしか見えぬその小柄な体躯にノンモくんと同じお魚パーカーを被っている彼女。奇特なことにニャントロの着ぐるみを着ようと意気揚々としていたのだが、体が小さすぎて着ぐるみでの仕事ができないことから渋々響に役を譲っていたりする。
「あれ? ヒビキちゃん元気ないね? もしかしてわたしの魔術、効果が切れちゃった?」
「ああいや、ちゃんと効いてる」
幼い頃からカルトの巣窟である鯖江道で育ってきた彼女。響の知らないような所帯じみた魔術を幾つも知っていた。今、響達の着ぐるみに掛けられている魔術もその一つ。炎天下であるというのに、着ぐるみの中は驚くほど涼しく快適で、汗一つかきそうにもない。
「それじゃあタマキチ殿、拙者達は着ぐるみを次の人に渡してくるでござるから、先に遼どのと出店で待っていてほしいでござる」
「おっけ~! それじゃあお先に失礼するね~!」
元気に駆け出した環を見送りながら、響も広場を後にする。結局、自分の所に風船を貰いに来た客は零であった。
「はいらっせー! らっせーですわー!」
潮風が通り抜ける広場にて、透き通るような美声が木霊する。声とは不釣り合いな言葉の出所に人々が目を向けると、そこにはとびきり美しい金髪の美少女が一人。宝石のような青い瞳の視界を支配しているのは、これまた青い海原……ではなく、真っ黒な鉄板とその上を踊る茶色の麺。ビーチで惜しげもなく女神のような肉体を誇示しているのが似合いそうな彼女、滋野財閥令嬢の滋野妃はたった今、ホテル前の出店で焼きそば作りの真っ最中であった。直射日光下の調理作業は過酷かと思いきや、汗をかいている様子がないのはやはり、環の魔術の施されたノンモくんパーカーのおかげである。
さて、その隣ではもう一人。黒髪をツインテールに纏めた小柄な乙女が鉄板に向かっていた。妃には及ばないとはいえこちらも中々の美少女。彼女は龍王院一華。如月市の古い名家である龍王院のお嬢様である。一代で財を成し遂げた滋野財閥の令嬢である妃をぽっと出の成り上がり者として一方的にライバル視している彼女は、今日も今日とて妃に勝負を吹っかけていた。此度の勝負は出店の集客勝負。どこで覚えたのか、巧みなヘラ捌きで焼きそばを炒める彼女に対抗心むき出しでたこ焼を焼き続けている。
昼食時のピークが過ぎて勝負は互角。ここからさらに客足を伸ばすにはどうすべきかと一華が頭を悩ませていた時だった。
「キサキちゃ~ん! イチカちゃ~ん!」
空いた出店前にぞろぞろと到着する一団。響達御アルバイト御一行の到着であった。
「妃ちゃんどう? 何か機材に不調とかあったら私に言ってね? 素人知識だけど、できる限りのことはするから……」
「大丈夫ですわ遼さん! でも素人知識なんて御謙遜が過ぎますわ。学校の機材も容易く直せるのですから、もっと自信を持ってもよろしいかと思いますわ」
「あはは……」
緑の目を綻ばせ、くすんだ金髪の垢抜けない少女は照れ顔を見せる。
「それで皆様、お昼ご飯はまだでしょう? 焼きそばはいかがですか?」
「ちょっと待ったのだわ! 私のたこ焼の方がもっと美味しいのだわ!」
抜け目なく客数を伸ばそうとするライバルに噛みつく龍王院のお嬢様。
「て言うか……獅堂、蔵馬! 私の侍女なら主のたこ焼よりも先に商売敵から焼きそばを頂くんじゃないのだわ!」
「お嬢ったら何を言ってるんすか? たこ焼と焼きそばは競合しないっすよ!」
「……真夏の聖餐……芳醇なる味わいを齎すは潮孕む神の息吹……」
雇い主にもなんのその。元気いっぱいの短髪少女、獅堂二葉と根暗そうな長髪少女、蔵馬三樹は手渡された焼きそばに早速舌鼓を打っている。この二人、雇い主の娘である一華と離れて何をしていたのかというと、シギトロとポートロの中の人を演じていたのだった。
「しっかし、魔術ってすごいっすねえ。あれだけ暑苦しそうな着ぐるみを着ていたってのに、全然快適だったっすから」
「……盟友よ……禁忌の知識の教授を望む……」
「やめとけ蔵馬。どんだけ所帯じみていても魔術ってのは基本人間が使えるようなもんじゃない。魔力の負荷で身体を壊さないようになるには長い修業が必要となる。ガキの頃から修行させられてきた私だって、未だに体への負荷は無視できないんだ」
「……無念」
響の言葉にがっくりと肩を落としつつも、蔵馬はこっそりと魔術の修行を付けてくれるオカルティストを探し出そうと決意していた。中二病まっしぐらのこの少女、魔術が実在すると知ってから痛い妄想がとどまるところを知らない様子であった。
「イチカちゃんどう? 涼しい?」
「ええ。貴女の魔術とやらのおかげで快適なのだわ。そんな事より加藤環! 私の渾身のたこ焼を食すがいいのだわ!」
「おお~! まんまるだ~!」
目を煌めかせながら一華の焼いたたこ焼を受け取る環。まんまるというよりは幾何学的な真円に近い、異様なまでに整ったたこ焼であった。
どこをどうやったらこんなたこ焼が焼けるのかと、一同が追加分を焼き始めた一華の腕を眺めていると、不意に後ろから声をかけられる。
「やっほ~い! 皆もランチタイムかな?」
そこには真夏のビーチに相応しくない装いをした三人組がいた。服装はまともだが大量の鞄を体中に備え付けた金髪の美女、ロビン・リッケンバッカー。上品な和服を身に纏った抜き身の刃を思わせる雰囲気の黒いポニーテールの少女、武藤要。そして黒いコートにサングラス、左腕を覆う黒手袋……直射日光が体を蝕みそうな黒尽くめの男、塔孔明の何でも屋三人組だった。
「ロビン……お前、ホテルの警備していたはずだろ? 何なんだよその荷物は。朝見かけた時にはそんなの持ってなかっただろ」
「ん~これ? 戦利品だよ戦利品。流石はマイナーどころのカルト組織が挙って堅洲に来ているだけの事はあるね。見たことも聞いたこともない経典や魔導書が入れ食い状態でさ」
流暢な日本語で戦果報告してくるほくほく顔の魔術の師に、響は呆れ顔で応えた。
「で、肝心の落し主は見つかったのか?」
「ん……いまだに」
「摩周の爺さんが言うにはもうそろそろ表れてもいい頃だって話なんだがな」
手にしたかき氷を頬張りながらも、孔明は首を横に振った。
事は数日前に遡る。夏の書き入れ時にあくせくしていたダゴン秘密教団日本支部の面々。従業員の一人が休憩がてら、渥浜の散歩をしていた時の事だった。海藻や異国の看板、グロブスター等に紛れて砂浜に打ち上げられた奇妙な漂着物を発見したのである。
黒翡翠でできた奇怪な石板。明らかに人工物と思われるそれには、人間にとっての見知らぬ文字で埋め尽くされていた。
もっとも、ダゴン秘密教団にとってその文字は見慣れたものであった。彼らの人ならざる祖先が用いていた拉莱耶語。教団に持ち帰って解読しようとしたのだが、見つかった場所がまずかった。
グロブスター等という珍しい漂流物を、好奇心旺盛な旅行客達が見逃すはずもない。そんな観客の大勢いた場所で黒翡翠を手にしたものだから、注目されるのもむべなるかな。当然のように写真に撮られネットの海に投下された古代の遺物の情報は、瞬く間に世界中を駆け巡った。
結果、本来は人知れずにこっそりと解読されるべきこの石板を求めて、ありとあらゆる国から考古学者や魔術師が集まってきたのである。
彼らは当然の権利の如く、発見された未知の言語の刻まれた石板の開示を求めた。事ここに至ってはダゴン秘密教団も流石にやむを得なかったのだろう。条件付きでこの石板をディープ・ピープルで展示する事にしたのであった。
教団の出した条件というのはとかく単純なものだった。落し主について心当たりがあるので、彼らが現れたら即座に返還するとのものである。この条件に、考古学者達は渋々であるが納得してくれた。条件を飲んでくれさえすれば、後日石板の精巧なレプリカと摩周長老の拉莱耶語の各国語への翻訳書を提供するという条件が、彼らの頭を縦に振らせたのである。
しかし、頑なに首を横に振り続ける者達もいた。国の内外から集まった魔術師連中である。彼らは学術的な探求ではなく、魔術的な実践を行うために本物の石板を欲したのだ。譲ってくれ、売ってくれという要求ならまだいい方で、果ては自分こそが落し主であると詐称したり魔術を用いて盗み出そうとする輩が絶えなかった。
そんな連中達であるが、個人で探求を行っているような魔術師を別とすると、三つの勢力に大別する事ができた。と言うのも、黒翡翠には彼らの崇める三柱の神性に関わる呪文が記されているらしいのである。それぞれ「火山の主」「深淵のもの」「深みに棲まうもの」なる神々を崇拝する魔術師達は、自身が崇める以外の神々の降臨を防ぎつつ、同じ神を崇める組織の中での頂点に付くべく同業者を蹴落とそうと、人様のホテルで血みどろの抗争も辞さない覚悟であった。
それに参ったダゴン秘密教団の面々は、この無法者の魔術師達に対処すべく腕利きの団員達をフル投入。加えて、顔馴染みである堅洲の魔術師達にも協力を依頼する結果となった。その効果は覿面で、今やディープ・ピープルの地下に臨時で設けられたお仕置き部屋はこれら迷惑客で埋め尽くされている。
これで警備は一安心。しかし、別の問題が浮かび上がった。迷惑客への対処でディープ・ピープルの殆どの従業員が駆り出されているこの現状、通常業務に費やす人手が足りなくなっていたのだ。その結果、響達は顔見知りである摩周長老に頼まれる形でアルバイトとしてこの渥浜に赴いたのであった。
「ティーキライライ♪ ティーキライライ♪ スターヘッドとティキライライ♪」
珍妙な歌を口ずさみながら、環は御機嫌な様子を隠す気もなく砂浜に足跡を刻む。その後ろに続くのは響と秋水。休憩時間にも拘らず、あえてノンモくんパーカーを着ているのは当然、夏の日差しに耐えうる涼を求めての事である。
はしゃぎ回る学生達。元気いっぱいの子供達と、それを見守る家族の姿。普段は鬱陶しいと思える程の人の多さもそう不快にならないのは、透き通る海の清涼さか、それとも満ち溢れる陽の活気のおかげだろうか。
砂浜を練り歩く響達三人組だが、休憩時間だからと言って遊びに来たわけではない。時間はそれなりにあるものの、響はあくまで仕事として渥浜に赴いているのである。海で泳ぐ気は端からないので水着は持ち込んでいないのだ。
では、何故砂浜に足を運んでいるのかというと、要からの要望があった為だ。何でも、彼女の弟妹が珍しく休暇を楽しんでいるとの事であった。そんな彼らに焼きそばとたこ焼を含めた出店の味を差し入れて欲しいと頼まれたのである。
初めは簡単に済むと思われていたこのお使いだが、届け先が中々見つからない。普段の彼らならば和装で町内の見回りをしている為、今の世の中とにかく目立つのであるが、よくよく考えてみれば流石に休暇中に浜辺で仕事着など着てこないだろう。
武藤の一族は魔女である。人間の雄を捕食する為に進化してきた彼女達の事、その美貌と豊満な肉体を水着という形で晒しているのならば人だかりの一つくらいは出来ていてもおかしくないと響は思っていたのだが、それらしきものはとんと見当たらない。
はてさて、あの連中はどこで休暇を楽しんでいるのかと頭を捻っていたところ、環が突如手を振り始めた。よくよくその方向を見てみると、砂場からやや離れた岩場から手を振り返している少女が一人。
つい最近、マルメロという名を授けられたこの少女の正体は人間ではない。彼女は今夏の始めに渥浜に打ちあがっていた鯨である。海に返すまでに命が持たないと判断したダゴン秘密教団の面々は、この哀れな同胞を救う為に武藤の一族に救援を依頼。血の杯を交わした事によって彼女は魔女と化したのであった。
マルメロは鯨由来の巨体に見合った豊満な体格に無邪気な笑みを浮かべながら、環に向かって手を振りながら走り寄ってくる。
「メロちゃ~ん! さしいれもってきたよ~!」
「わ~! ありがとタマちゃん!」
「メロ殿、魔女になってそこそこ経ったでござるが、体の調子はどうでござるか?」
「だいぶ慣れてきたけど、まだ違和感は抜けないかなあ。でも、体が軽いってのは嬉しいかな。それに海の中ではできなかった色んな経験もできるし。この釣りってのもなかなか面白いね! お口開けて突撃する以外にもお魚を捕る方法があるなんて私には驚きだよ!」
岩場まで足を運ぶと、海釣りを楽しむ美女の群れがそこにいた。鮮やかな赤髪の少女が一人。牛から魔女へと変じたガオガオ団こと朝顔、昼顔、夕顔、夜顔の四人組。まるで彫像の如く整った長身の黒髪の美女は要の妹である武藤都。そして、和人形のような小柄な美少女……否、美少年。堅洲の魔王、武藤雅である。
揃いも揃ってシャツの上にはライフジャケット。長靴に手袋、そして帽子。煌めく水面の反射から目を守るサングラス……見事なまでの釣り人姿であった。
「ご苦労様です響様。それにしても良く我々がここにいることが分かりましたね?」
「カナに頼まれたんだよ。海で休暇を楽しんでいるって聞いたんで、てっきり海水浴でもしてるのかと思ったんだが……」
「はは……泳ぎはちょっと……」
鈴の音のような声で苦笑する雅の言葉を、双子の妹である都が継ぐ。
「俺らにとっちゃ泳ぎなんて水練の延長上の行為にしか思えなくてな。正直休んでいる気になれんのよ」
「加えてコイツが水着なんかで人前に出てしまえば周囲の注目を集めること間違いなしですからね。今の時期、我々がゆったりと英気を養うのに海水浴は向いていないのです。久々の休暇をどう過ごそうかと悩んでいたところ、暇なら一緒に釣りでもしないかとゼル様に誘われまして。今まで和竿での釣りしか経験してこなかったので中々に新鮮です」
響はその光景を頭に思い浮かべる。今のようなガチガチの釣り師ルックよりも、和服に和竿で川にのんびり釣り糸を垂らしていた方が、この魔王には似合っていた。
「ほれ、うちの妃とその自称ライバルが焼き上げた品だ」
「わ~! 茶色いニョロニョロとまんまるだ~! 人間の食べ物って本当に不思議だねえ。でもいい匂い!」
「いや、なんだこのたこ焼……たこ焼か? 夜空に見上げる満月の方がまだ歪んで見えるぞ」
「何とも見事な真円……魔術でも使ったんでしょうか……?」
早速焼きそばに舌鼓を打っている鯨少女に対し、武藤兄妹は恐れ慄くかのような表情でたこ焼を凝視している。雅が恐る恐るそれを口にすると、次の瞬間には安堵の表情。よかった味は普通のたこ焼だ。
遅めの昼食にガオガオ団の面々も集まる中、一人竿から離れないのは赤毛の少女。ゼルと名乗るこの少女は武藤の箱庭に居候している国籍不明の魔女であった。
暴れる竿を巧みに捌きながら、しかしどこか不思議そうな表情を浮かべている。
「ゼルちゃん、釣れてる~?」
「入れ食い入れ食い! 今日は調子がいいよ~! でも、この当たりなんだろ? 今まで味わった事のない反応だなあ……と、フィィィッシュ!」
環に軽く言葉を返しながらも、勢いよく竿を引き上げるゼル。その釣り針にかかっていたのは。
「……なんだありゃ?」
魚とは思えないその姿に興味をひかれ、響が近付いてみる。そこにいたのはウミウシだった……おそらくは。大きさは三十センチ程。黄色と黒とのコントラストが美しい、海の宝石。スキューバダイビングでもしているのならば、その姿に感動を覚えたのであろうか。
釣り上げた本人が呆然としている最中、その巨大ウミウシは体をウネウネとくねらせると自ら針を外して岩場に着地し、一同の前に立ちはだかる。まるで威嚇するように体を持ち上げたその途端、響の頭の中に奇怪な「声」が叩きつけられた。
遠くなる意識を無理やり押し止め、ウミウシを睨みつける。目の前の巨大軟体生物は、ありえないと言わんばかりに動揺しているようだった。
他の連中はどうなった? そう思って隣を見てみると。全く持って平気な様子の環とゼルの姿。後ろでは魔女一団がなんだなんだと声をあげつつも全く持って平常運転。ただ二人、雅と秋水だけは頭を押さえるようにして立っていた。
いきなりの敵対行動をとる奇怪な海生生物に注意の目を向ける響に対し、環はとても無防備にウミウシの前まで近付いた。しゃがみこんで視線を合わせた環に、軟体生物はたじろいだ様子を見せるが、次の瞬間急に大人しくなる。環の唇から漏れる異様な言葉。その音節は、つい先ほど響の脳内に打ち込まれた言霊に非常に酷似していた。
「なんだ? 急に敵意がなくなったぞ?」
「あ~びっくりしたでござる。急に大声をあげられたせいで心の臓がバクバクしているでござるよ。でもまあ、急に眠れって言われても困るでござるよな。あの声の大きさでは寝付く事などできないでござる」
「……シュウ、お前あの声を理解できたのか?」
「拉莱耶語による催眠の魔術でござるな。ただ単に『眠りに付け―っ!』と叫ぶだけの随分と強引な呪文でござるが」
「……タマの奴、拉莱耶語なんて話せたのか?」
「タマキチ殿は生まれてこのかた爺上殿の教団の面々と関わってきたのでござるぞ? 門前の小僧も何とやらでござる」
「……何気に多芸だな、アイツ」
ようやく話し終わったのだろう、環はウミウシを抱きかかえて響達に振り返った。
「しゅーくん! ヒビキちゃん! 落し主さんがようやく見つかったよ!」
「使者殿、よく来てくださった」
ディープ・ピープルの一室にて、ダゴン秘密教団の長老、摩周蔵人は深々と頭を下げた。客人の前にもかかわらず目深にローブを被っているのは、暗き血による容姿の変貌を隠す為であるのだが、この場にいるのは響に環、そして孫の秋水と魔術の知識を有する者ばかり。警戒心が緩んでいるのだろう。水掻きと鉤爪を備えた鱗に覆われた腕を隠そうともせずに茶を振舞っている。
そんな長老の目の前には環が連れ帰った巨大ウミウシ。こちらもこちらで頭をペコペコと下げていた。摩周老は思念を送っているらしいウミウシと事の成り行きについて話し合う。何故か日本語で。
「拉莱耶語はどうした拉莱耶語は」
そう突っ込みを入れた響であったが、何でもこのウミウシ、人間と契約を交わして仕事を行う事も多く、様々な国の言葉を話せるのだとか。魔術の起動に拉莱耶語が必要なだけで、このウミウシ自体は他の言語の方が得意らしい。
さて、このウミウシ。海底で独自のコミュニティを築いているれっきとした知的生命体らしい。祖先達が過去にとある王様の神殿建設を手伝ったことがあるらしく、その時の経験を生かして海底に様々な神殿を築いて回っているとの事だった。
神殿……つまりは神を祭る場所である。「火山の主」「深淵のもの」「深みに棲まうもの」。それら三柱を讃える為に建設された海底神殿には、様々な神宝が収められていたのだが。
数十年前の出来事である。とある連中が神殿の内の一つを発見。罰当たりにも宝物庫から宝物を全て持ち去ったらしい。
その連中は超心理学を信奉する胡散臭い山師の集団であり、この行為も学術的調査とは名ばかりの財宝荒らしであったのだが、強欲さに支配された彼らは神殿のウミウシ達から送られた全宝物の返却を求める思念を断固として拒否。血みどろの争いにまで発展し、今では船もろとも海中に沈んでいるとの事だった。
神殿を荒らした不届き者達との争いに勝利したウミウシ達であったが、全ての盗品を回収できた訳ではなかったらしい。沈みゆく船の上での激しい戦いの末に幾つかの宝物が広い海原へと流出してしまったのである。ウミウシ達は必死になって世界の海を探し回り、この極東の地にてようやっと最後の一つを見つけ出したのだった。
「それがあの石板って訳か。じゃあ、こいつに返却すればホテルでの騒動も止むって訳だ。爺さん、とっとと返してやったらどうだ?」
「う~む。儂としてもすぐにそうしたいのは山々なんじゃがな……ちょっと外を見てみてくれんかの」
ドアを開けて覗き込む。すぐそこにはウミウシの神宝が展示されていた。そしてそれを取り囲む人の群れ、群れ、群れ。人種国籍問わずの連中が、食い入るように未知の言語が記された黒翡翠を見つめている。ただ、その姿はオカルティストというよりも真っ当な学者のように思える。
「その通りじゃよお嬢ちゃん。あそこにいるのは表社会で真っ当な暮らしをしておる学者先生達じゃ。他の魔術師共はどうにかしてあの石板を盗み出そうかと部屋に籠って悪知恵を働かせておる。まあ、どのような魔術師が来たとしても儂らの監視の目は怪しい魔術の兆候を見逃がしたりはせんがな。それは置いておくとしてじゃ。好奇心旺盛な学者先生達の目の前に使者殿の姿を晒したらどうなるか、想像はつくじゃろう?」
「新種のウミウシ発見って見出しが明日の新聞の一面に踊りかねんな」
「その通り。あすこの学者先生達の殆どは考古学が専門じゃろうが、さりとて新種発見の名誉が得られるならそれに越した事はないと考えているじゃろうて。そういう訳で使者殿。夜まで待って下さらんか。真夜中にでもなれば学者先生達は部屋に引き上げるじゃろうからな」
ウミウシは頷いた。そもそも、出会い頭の響達に催眠をかけようとしたのも、人間に自分達の存在が明るみに出ないようにする為の処置であった。目立つ事をしなくとも神殿の宝が返ってくるのだから、多少の待機もやぶさかではない。
「ご理解いただけて有難い。そうだ秋水。夜中の使者殿の案内はお主がやってくれんか?」
「構わないでござるが……何故でござるか爺上殿?」
「夜は怪異の時間じゃからの。昼間の間に練っておった悪知恵を実行しようとする魔術師の輩が活発になるんじゃよ。正直、警備は夜の方が忙しいんじゃ。儂ら一同、最後の警備に力を入れねばならん」
「了解でござる」
「はいは~い! わたしも手伝うよ、おじ~ちゃん!」
「おお、それは助かるぞい。しかし、使者殿も良いタイミングで来てくれたものじゃ。地下に設けた悶絶触手地獄極楽部屋がそろそろ満員になりそうでのう」
何とも言えないネーミングセンスのお仕置き部屋に腰が砕けそうになる響。武藤との盟約により堅洲の魔術師達は一線を越えた者でなければなるべく命を取ろうとはしない。ダゴン秘密教団としてはこれができる範囲で一番の報復なのだろう。命がある分サメの餌になるよりはマシだと信じたいが、それはそれとして人として大切な何かを失いそうな仕打ちではあった。
「これは神の意思なのだ! この魔力溢れる地に神が下りたがっているのだ! そう、ここは神とその民の為に用意された聖地! 貴様ら凡愚共が蔓延っていてはいい場所ではない! むしろ神の贄となることを光栄に思うべき! そうだろう凡愚共!」
「神さんはお前らのゲス行為を正当化する為の免罪符じゃねえっての。戯言言ってる暇あったら大人しく悶絶触手地獄極楽部屋にイけ」
「触手はらめえええ! 他人が絡まれるのを見るのはいいけど自分が絡まれるのはいやあああ!」
野太い声で悲痛な叫びをあげながら孔明達にホテルの地下へと連行される魔術師を呆れた様子で眺めるのは、響達アルバイト御一行。顔馴染みの魔術師達に拘束されてお仕置き部屋へと連れ去られる魔術師のなんと多い事か。
「おや? 坊ちゃん達、こんな時間に何してるんで?」
「バイトの時間はとうに過ぎているはずだが……」
時間は深夜。とっくに帰宅しているはずの長老の孫を見て、不思議そうに声をかけてきたのは二人の男だった。長身痩躯のサムと筋骨隆々のデイブ。どことなく魚類を思わせるスーツの男達は、摩周老の側近である。彼らもまた、ホテル内の警備に駆り出されていたのだろう。デイブの肩には簀巻きにされた魔術師らしき男が担がれていた。
「爺上殿に頼まれて使者殿に石板を返すよう言われたでござるよ。ほれ、この通り」
秋水の指差す先。環の頭の上に鎮座する巨大ウミウシがそこにいた。ペコリと礼儀正しく挨拶するウミウシに、サムとデイブも律儀に応える。
「それで今、広場に狼藉者がいるかどうか分からないでござるか?」
「ちょい待ってて下さい」
サムがぼそぼそと何かを呟く。何らかの呪文の詠唱のようだ。堅洲は魔王の魔力で満ち溢れている関係上、個人の魔力は周辺の魔力濃度に紛れてしまう。その為、他の土地では容易に行える一個人の魔力の追跡や確認にも一々魔術等を使用する必要があった。目を閉じ精神を集中していたサムの瞼が再び開く。
「特に不審な魔力は感じないですね。今なら安全に引き渡せるはずです」
「そうでござるか。では皆の者、突撃でござる~!」
「わ~い」
秋水を先頭に石板の前まで来てみると。そこには怪しげな人影が蠢いていた。黒尽くめのタイツに目出し帽。暗視ゴーグルを身につけた三人組。手に黒翡翠の石板を抱えるその姿はまさに。
「「泥棒だ~ッ!」」
盛大にハモる秋水と環の声。ホールに響き渡る程の大声は、当然泥棒にも気付かれる。
「お、おい! なんだってこんな時間にガキがうろついてんだよ!」
「おおお落ち着け! 所詮は女子供だ! 大人の怖さを見せつけて……ひ~ふ~み~……あ、これ駄目だ。戦いは数だを地で行く奴だ」
「こうなったら……お前ら、ずらかるぞ! 退路は俺達の目の前だ!」
三人の盗人達は呆気にとられていた響達の目の前を大胆に通り過ぎてホテルの外へと駆けていく。
正気に戻った響が慌てて後を追いかけだした。続く秋水達。月明りの照らす砂浜を走りながら、響は毒づく。
「どうなってるんだ? サムは不審な魔力を感じなかったはずだろ!」
「……黒の盟友よ……魔力の欺瞞は可能……?」
「できなくもないが、いくら何でもあれだけの数の魔術師を掻い潜るなんてありえない! 何よりこのホテルには純潔の魔女のカナがいるんだぞ? アイツの目を誤魔化せる力量ならば、そもそもとっくの昔に石板を盗み出せていたはずだ!」
「何らかのタイミングを計っていたって事なのだわ? あの石板、儀式に使うものらしいじゃない」
一華の言葉にウミウシへの視線が集まるが、当の本人は首を横に振る。日本語訳された思念が語るには、儀式のピークは今日の昼に過ぎているとの事であった。
「安全を取る為に盗み出すタイミングをわざわざずらしたのか? 次の儀式が可能になるまでに石板を奪い返されるリスクもあるってのに!」
「用意周到な魔術師さんって事ですわね!」
「……慎重さは臆病さ……恐怖を認め乗り越えた者こそ生き残る……それがこの世の真理……」
「ゆだんたいてきな相手ってことだねみっちゃん! でも、もしそうならわたしたちだけで捕まえられるかなあ?」
「確かに……誰か一人でいいから引き返して援軍を呼ぶべきでござるかも」
「シュウ、頼めるか? アイツら大分不気味だ。これだけ距離があれば魔術で私達を煙に巻く事もできるだろうにそうしない。一体何を企んでやがる?」
敵の思惑に頭を悩ませる響達。その答えは、遼の一言であっさりと氷解する。
「ねえ響ちゃん……あの人達、魔術師とか関係ない普通の泥棒なんじゃ……」
「……待て待て待てちょっと待ってくれ爺さーんッ!」
考えてみれば暗視など魔術で済ませる事ができる魔術師が、態々暗視ゴーグルなど使うとは思えない。何とも間の抜けた話であった。ダゴン秘密教団の面々は魔術師による盗難を警戒するあまり、魔力で感知できない普通の泥棒への対策が頭からすっぽりと抜け落ちていたのである。
「ええい、止むを得ん! 犯罪者相手に情けは無用! タマ、奴らに得意の魔力球を叩きつけてやれ!」
「りょうか~い……って、ほえ? コビーちゃんどうしたの?」
勝手に名前を付けたウミウシに思念を送られたらしい環が首を傾げる。
「どうしたタマ? ハリーハリー!」
「うん。コビーちゃんがね、どろぼーさんたちを岩場まで追い込めって」
「……? 何か分からんがそれでどうにかなるんだな? だが言っとくぞウミウシ! 殺すまではするなよ!」
大きく頷くウミウシを頭にのせて、環が大きく振りかぶる。手には菫色に輝く魔力球。
「みんな、目と耳をふさいどいてね! と~りゃ~!」
勢いよく投げつけられた球体は泥棒の後ろに着弾、轟音と共に大爆発を起こした。盛大に立ち上がる砂柱。
「耳があああ!」
耳に激痛を覚えながらも盗人は獲物はしっかりと抱えたまま。唐突な爆音に聴覚を遮断されながらも爆発が後方で生じた為に視界を焼くまでには至らなかったらしい。とはいえ効果はあった。すぐさま体勢を立て直した盗人達は響達の思惑通り、身を隠せる場所が多い岩場へと脱兎のごとく走り出した。
「オラオラ出てこいコソ泥ども! 今なら貞操と引き換えに命だけは助けてやるぞ!」
「悶絶触手地獄極楽部屋にごあんないだ~!」
相手が魔術も使えぬ一般犯罪者だと知るや否や、容赦なく煽り始める響達。別段相手に嘗めてかかっている訳ではない。ウミウシの示す場所にまで盗人達を追い込む為に、あえて声をあげて自らの居場所を知らしめているのだ。
事実、若き追手達の目から逃れるべく岩場の影に潜んでいた盗人達はじりじりと海岸へと追い込まれていた。
最早彼らには響達に立ち向かおうとする気力は微塵もない。当然と言えば当然であろう。たかが子供と侮っていたら、唐突に閃光手榴弾らしきものを投げつけてきたのである。間違いなく堅気じゃない。下手に反抗しようものなら今度は鉛弾が飛んでくるかもわからないのだ。
目の前には静かな海。夜間であっても透き通った水底が見える透き通った海。やむを得ない。ここから泳いで逃げるほかないだろう。こんなことになるのなら、黒タイツではなくダイビングスーツでも着てくればよかったと後悔する盗人達。夏の世の熱気に心地よい水温と、濡れた黒タイツの不快な感触を感じながら、夜の水面をかき分けていく。
不意に。盗人の足を何かが掴んだ。三人同時に、分け隔てなく。その時、盗人達の頭をよぎったのはとある怪談であった。防空頭巾の女の霊によって海中に引き込まれるというその怪談。
いやはやまさかそんな。所詮怪談は怪談だ。幾ら堅洲という場所が怪奇事件の多発地帯だとは言え、手垢のついたような幽霊譚が自分達を襲うなどと。現に、足にまとわりつく感触は人間の手によるものだとは思えない。
では、何が自分達の逃走を阻んでいるのか。恐る恐る足元を確認した盗人達の背が凍り付いた。ウミウシだ。否、こんなウミウシがいてたまるか。体長一メートル越えの怪物共が、盗人達の足に絡みついている。それだけではない。一匹、また一匹と。透き通った水底から続々と後続が集まってきた。ついには三メートル越えの巨体すら現れ……盗人達の精神はそこで焼き切れたようだった。
「わ~! きれいきれ~い!」
「華麗ですわ素敵ですわ! 写真! 写真に撮っても構わないでしょうか! ちゃんと人様には秘密にいたしますから!」
妃の嘆願にお安い御用だとばかりに思い思いのポーズを取り出す軟体生物達。
岩場に集った色とりどりの鮮やかな色彩。月明りに映える巨大ウミウシの群れが響達を取り囲んでいた。環の頭の上に鎮座している黄色のウミウシからの思念を受けて集まってきたらしい海の同胞達は、気絶してうわごとを垂れ流し続ける三人の盗人を響達に引き渡すと、しきりに感謝の念を伝えてくる。
「礼なら私らじゃなくて摩周の爺さん達にしてくれ。詰めが甘かったとはいえ、今日の今日までこの石板を守ってきたのは紛れもなく爺さん達だからな」
響の言葉にウミウシ達が頷くと、彼らはぞろぞろとディープ・ピープルに向かって移動し始めた。まさかた礼を伝える為にった今からホテルに赴くというのだろうか。止めるべきかどうか考えた響であったが「夜は怪異の時間である」という堅洲の言葉を思い出してそのまま彼らを行かせてやる事にした。真夜中ならば一般人の目に付かないと判断しているからこそ、彼らも大胆な行動に出れるのだ。確かにこの時間帯、あのホテルでは従業員と魔術師以外に起きているような人間はいないだろう。
環の頭の上で、彼女にコビーと名付けられたウミウシがしみじみとした様子で月を眺めている。神殿の宝を取り戻すと大海原に誓ってから幾星霜。長い長い旅路の終わりを嚙み締めているらしい。いつか膨大な借金を返し終えた時、自分もこのような気分になるのだろうか。そう思わずにはいられない響であった。




