勇者として異世界転生した俺、魔王を倒したらすべてを失った
序章 召喚の火
目を開けた瞬間、鼻腔に焼けた金属の匂いが刺さった。
床に刻まれた巨大な魔法陣が赤く脈打ち、空気が熱に歪んでいる。
「――成功だ」
低い声が響いた。
ケイスケは反射的に身を起こそうとして、身体の軽さに息を呑んだ。
心臓は確かに早鐘を打っているのに、筋肉が従来の自分より遥かに素直に動く。
視界の端で揺れる火花のひとつひとつが、妙にはっきり見えた。
「ここは……どこですか」
口から出た言葉は日本語だったのに、返ってきた声は、なぜか理解できた。
「モール帝国。王城地下、召喚式の間だ。君は異界から呼び寄せられた」
ローブを纏った男が、淡々と言った。
モール帝国宮廷魔術師――召喚術式の責任者。
表情は冷静だが、瞳の奥には、計算と期待が渦巻いている。
「異世界転生……というより、召喚。君は適性が高かった」
「適性?」
「異界の魂は、この世界の器に馴染むと身体能力や魔力が高くなる傾向がある。君も例外ではない」
魔術師は差し出した。
鞘に収まった一振りの剣。
ケイスケがそれを受け取った瞬間――世界の速度が変わった。
呼吸の音。布の擦れる音。遠くの足音。
すべてが一拍遅れて届くように感じる。
自分だけが先に動ける、と身体が理解している。
「……何だ、これ」
「ユニークスキルだ。君には【斬鉄剣】が付与された」
魔術師の声にわずかな熱が混じった。羨望だ。
「剣を持つ時、君は誰よりも速く、誰よりも力強く、誰よりも敵を殲滅できる。――勇者に相応しい」
勇者。
その単語が、冗談ではなく現実として胸の中に落ちる。
そしてその日のうちに、ケイスケは王の間へ通された。
黄金の玉座。
そこに座る老王の眼差しは、剣の刃のようにまっすぐだった。
「ケイスケ。異界より来たりし者よ」
王は言った。
「北に廃城レメリーがある。そこに憤怒の魔神バアルが潜む。
――討て。帝国の“勇者”として」
「……俺が、魔王を」
「そうだ」
王の声は揺れない。
その揺れなさが、ケイスケの背中に重みを乗せた。
「そのために、帝国随一の者たちを同道させる」
王の側近が一歩前に出て、名を読み上げる。
旅支度の場に集められた面々を、ケイスケは一人ずつ見た。
まず、セレナ。
淡い銀髪が背中まで流れ、光を受けて絹みたいに揺れる。睫毛は長く、薄桃色の唇が静かに結ばれているのに、瞳の奥は甘いだけじゃない――刃のような澄んだ強さがある。白い外套の下には軽装の鎧。腰の剣は華奢に見えるが、鞘口の擦れが“使ってきた”証だった。
次にブルース。
背が高く、肩幅が広い。短く刈った濃い茶髪に、日焼けした肌。笑うと犬歯が覗くような快活さがあるが、鎧の付け方や歩幅がまるで違う――訓練で身体に染み込んだ騎士の所作だ。首元には古い革紐の護符が見え隠れし、触る癖があるのが分かった。
ボリスは、その対照だった。
金糸の縁取りがあるローブ、白い手袋、整えられた黒髪。鼻筋が通り、口元には常に柔らかな微笑。眼鏡の奥の瞳は穏やかだが、魔力の気配だけは底が見えない。指先がやけに綺麗で、魔導書をめくる動作に無駄がない。
ベイドは影みたいに立っている。
黒い外套、目元に落ちる灰色の髪。鋭い目つきで、誰の方も見ていないようで全員を見ている。腰の短剣は一見飾り気がないのに、刃の角度が僅かに違う――“刺す”ための道具だ。喉元に薄い古傷が一本走っていて、それが妙に生々しい。
ユーイは、小柄で童顔だった。
赤い外套が体を包み、フードの下から栗色の髪がふわりと跳ねる。頬は丸く、笑うとえくぼが出る。ぱっと見は十代に見えるが、目の奥に“責任”が宿っている。杖の先端には赤い宝石がはめ込まれ、握る指は細いのに震えない。
メイは、背筋を伸ばして立っていた。
濡れた黒髪を高く結び、白と青の治癒師装束の上から軽い胸当てを付けている。切れ長の瞳は気が強そうで、口を開けば棘が飛びそうなのに――指先がやたら優しい。鞄から覗く包帯や薬草は整然と並び、几帳面さがそのまま人柄になっていた。
(この人たちが……帝国随一)
ケイスケは息を飲んだ。
ここまで揃えて負けるわけがない――そう思ってしまうほど、全員が“強そう”だった。
その中でケイスケの視線が釘付けになったのは、セレナだった。
年齢は同じ十八。
けれど、立ち姿に王族の品が宿っている。
それでいて、腰には剣。手には魔力が眠っている。
セレナはケイスケと目が合うと、ほんの少しだけ微笑んだ。
その一瞬で、胸の奥が熱くなった。
(……一目惚れって、こういうのか)
ケイスケは剣を握り直した。
この世界で勇者をやるなら、守りたいものが必要だ――胸の奥が、そう告げていた。
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第一章 最強パーティ
旅支度は完璧だった。
軍の補給車には乾燥肉、硬いパン、塩、薬、矢、魔力回復の触媒。
武具は新品、馬はよく躾けられている。
「いやぁ、さすが帝国随一の面子だな。勝ち確だろ」
ブルースが肩を回し、朗らかに笑う。二十二歳。若いのに騎士団長候補と言われるだけあって、背筋が真っ直ぐで、声に人を従わせる力がある。
「調子に乗らないで。あなたはいつも油断して痛い目を見るの」
メイが腕を組み、鼻で笑う。ツンと尖った言い方だが、目だけはブルースを追っている。
「はいはい。メイちゃんは俺の心配ばっかだな」
「は!? だれが!」
「ほらほら、落ち着いて」
ブルースとメイが言い合いになりかけたとき、ボリスがわざと咳払いした。
「二人とも、すこしだけ……声の温度を下げようか」
「うるせぇな、ボリス」
「はいはい。――でもねブルース、きみはメイの前だと無茶をする。メイはブルースの前だと素直になれない。
……見ているこちらが心配になるよ」
メイが顔を真っ赤にして叫ぶ。
「なっ、何言ってるんですか!」
ブルースも咳払いして視線を逸らす。
「……お前も余計なこと言うな」
ボリスは困ったように笑った。
「余計なことほど、旅では命を救うことがある」
その言葉が、後で効いてくる。
ボリスが穏やかな笑みで割って入る。二十七歳。ジェントルマンそのものだ。言葉選びが丁寧で、気配りが行き届いている。喧嘩になりそうな空気が、彼がいるだけで一段柔らかくなる。
ベイドは少し離れた場所に立ち、誰とも視線を合わせない。二十八歳。暗殺者らしい無駄のない動き。信用という概念を最初から持ち込んでいない目をしていた。
ユーイは荷の陰からひょこっと顔を出す。二十四歳の女性。赤魔道士として優秀だが、童顔で年齢より幼く見える。笑うと本当に少女みたいだ。
「わ、わたしも……がんばります。役に立ちますから」
声が少し震えている。
けれど、ケイスケはそこに嫌な弱さを感じなかった。
むしろ、こういう人ほど、踏ん張る時に強い――直感が言っていた。
セレナが最後にケイスケの前に立った。
「勇者ケイスケ。……よろしくね」
差し出された手は、白くて細い。
でも握ると、指先に剣士の硬さがある。
「こちらこそ。セレナ……姫」
「姫じゃなくていいよ」
その言葉に、胸が跳ねた。
セレナが少しだけ頬を赤らめるのが見えて、ケイスケは確信する。
(俺、勝って帰って――この人と……)
思考を振り払うように、剣を背中に背負った。
旅が始まる。
モール帝国の北へ。
廃城レメリーへ。
憤怒の魔神バアルのもとへ。
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第二章 北方街道、火花
最初の数日は、順調だった。
魔物が出ればブルースが前に出て盾で押さえ、セレナが魔法剣で切り裂く。
ボリスが戦場を整え、ユーイが補助と攻撃を切り替え、メイが回復を回す。
ベイドは気配の外から致命点を奪う。
そしてケイスケは――剣を握るたびに世界が遅くなる感覚の中で、敵の動きを読み、斬った。
【斬鉄剣】は凶悪だった。
剣を振る速度が自分の感覚に追いつかない。
斬ったあとに「斬った」と理解する。
「……やっぱ勇者ってやつは違うな」
ブルースが笑う。
「うん。ケイスケ、すごい」
セレナが素直に言ってくれる。
そのたびに、ケイスケは胸の奥をくすぐられるような気持ちになった。
夜。焚き火のそばで簡単な食事をとる。
焚き火の前で、ブルースがわざと大袈裟に肩を落とした。
「はぁ……腹減ったなぁ。メイちゃん、なんかこう、回復魔法で腹いっぱいにならない?」
「なるわけないでしょ。頭まで飢えてんの?」
メイは呆れた顔をして、でもブルースの皿にだけ、スープを少し多めに注いだ。
ブルースはそれに気づき、にやっと笑う。
「やっぱ優しいじゃん」
「……うるさい。騎士団長候補が倒れたら、国が困るのよ」
言い訳みたいに言って、メイは視線を逸らした。
耳だけが赤い。
ブルースはからかうのをやめ、ぽつりと言った。
「……お前の回復があると、前に出るのが怖くねぇんだ」
「……今さら何よ」
「今さらだから言うんだろ」
焚き火の爆ぜる音が、妙に大きく聞こえた。
メイは返事をしない。けれど指先で、自分のローブの端をぎゅっと握りしめていた。
セレナはケイスケの隣に座り、毛布を半分寄せてくれた。
「寒い?」
「……うん。でも大丈夫」
「無理しないで。勇者が風邪を引いたら困るから」
「……セレナこそ」
「私は、平気」
言いながら、セレナは少しだけ体を寄せた。
それだけで、夜の寒さが薄れる気がした。
ワクワクしていた。
RPGみたいな旅。最強の仲間。倒すべき魔王。
このまま、勝って帰れると――その時までは信じられた。
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第三章 補給の切断
北へ進むほど、土地は荒れた。
風が刃みたいに冷たくなる。夜の冷気が骨に染みる。
それでも、食糧があるうちは耐えられた。
だが、ある日。
「補給が来ない」
先行偵察から戻ったベイドが短く言った。
「道が塞がれている。誰かが……意図的に」
「悪魔の仕業か?」
ブルースが言うと、ボリスが地図の上に指を置く。
「可能性は高い。レメリーへ向かう我々の補給線を断てば、戦う前に弱る」
「……まるで、人間みたいな戦術」
メイが唇を噛む。
それでも、王都の倉庫から持ち出した備蓄がある。
まだ大丈夫だ――そう言い聞かせた。
けれど、食事は確実に減っていく。
乾燥肉が薄くなり、パンが小さくなり、スープが水っぽくなる。
ある晩、セレナが自分の分のパンを半分に割り、ケイスケの皿へそっと置いた。
「え……」
「食べて。あなたが倒れたら、終わる」
「でも、セレナも――」
「私は姫だから。こういうときは前に出る人が食べる」
それは優しさというより、責任だった。
その重さが、ケイスケの喉に引っかかった。
(姫にこんなことをさせてる……俺は勇者なのに)
このとき、旅の空気が少し変わった。
“勝てる”という軽さが、ゆっくり剥がれていく。
食糧が減ってきた頃、ブルースは明らかに無茶をするようになった。
前に出て、わざと強い敵を引き受け、誰よりも先に傷を作る。
戦闘後、メイが乱暴に包帯を巻く。
「痛っ、やさしく――」
「黙って。……死にたいの?」
ブルースが目を丸くする。
メイは続けて言いかけて、言葉を飲み込んだ。
(死なないで)
と言いそうになったのが、自分でも分かったから。
「……私は、回復係よ。無茶されたら困るの。迷惑」
「はいはい。迷惑ね」
ブルースは笑って、でもその笑いは少しだけ弱かった。
メイは包帯の結び目をきつく締め、最後に小さく呟いた。
「……帰ったら、ちゃんと……怒るから」
ブルースは一瞬、真面目な顔になった。
「帰ったら、な」
その言葉が、二人の間で“約束”みたいに落ちた。
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第四章 ボリスの灯
悪魔の襲撃は、突然だった。
峡谷。
左右の壁から、黒い影が降ってくる。爪が鎧を裂き、毒が皮膚を焼く。
数が多い。多すぎる。
「挟まれた!」
ブルースが叫び、盾で受け止める。
セレナが魔法剣で切り返し、ユーイが火と雷を切り替えて撃つ。
メイが回復を飛ばし、ベイドが影の背を落とす。
ケイスケは【斬鉄剣】で突っ込んだ。
世界が遅い。敵の動きが読める。斬れる。斬れるはずだ。
――脇腹が熱い。
自分の血が出ているのが分かった。
一瞬遅れて痛みが来て、視界が白くなる。
「ケイスケ!」
セレナの声。
(……まずい)
撤退を選べる状況じゃない。
押し切られる。ここで全滅する――その瞬間。
ボリスが前へ出た。
「みんな、聞いて」
声が静かすぎて、逆に怖かった。
「僕は宮廷魔術師だ。君たちを王に任された。……だから、最後まで責任を果たす」
「ボリス、何を――!」
ブルースが振り向く。
ボリスは笑った。
いつもの、喧嘩を止めるときの笑い方。
「ケイスケ。セレナ姫を守って。……それだけでいい」
次の瞬間、ボリスの足元から魔法陣が広がった。
光が峡谷を満たし、熱が世界を裏返す。
「やめろ!」
ケイスケの叫びは間に合わない。
爆音。
光。
衝撃。
影は消えた。峡谷が崩れ、煙が上がる。
中心に――ボリスはいない。
残ったのは、焼け焦げたローブの端だけだった。
メイが膝をつき、息を吸うことすら忘れたみたいに震える。
ユーイが小さく声を漏らし、顔を両手で覆った。
ブルースは拳を握りしめた。
怒りとも悲しみとも違う、“壊れそうな”震え。
セレナがケイスケの袖を掴んでいる。
彼女の手も震えていた。
ケイスケは理解した。
“最強パーティ”でも、人は死ぬ。
簡単に。あっけなく。
この旅は、ゲームじゃない。
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第五章 幻影の刃
ボリスの死のあとから、夜が長くなった。
食糧はさらに減り、会話は減った。
笑いが出ない。
夜営の焚き火は、いつもより静かだった。
風が止み、炎の揺れだけが時間を刻んでいる。
ブルースは剣の刃を布で拭きながら、ちらりとメイの方を見た。
メイは薬包を整えている。几帳面に、丁寧に。
「……なあ、メイ」
「何よ。今忙しいんだけど」
「その……終わったら、さ」
メイの手が一瞬止まる。
「終わったら?」
ブルースは照れ隠しみたいに笑って、視線を逸らした。
「帝都に帰ったら……俺、騎士団の宿舎を出るんだ。
前から言われててさ。次期団長候補は、家を構えろって」
「へえ。出世じゃない。おめでとう」
素っ気ない言い方。
でも声の調子が、ほんの少しだけ柔らかい。
「それで……」
ブルースは言いよどみ、意を決したように続けた。
「……一人で住むの、正直、向いてねぇんだよ。
お前の作るスープがないと、たぶん俺、すぐ死ぬ」
「ばっ……何それ。騎士団長候補が情けないこと言わないで」
メイは顔を赤らめ、ぷいっと横を向いた。
「……でも」
メイは小さく息を吸い、視線を焚き火に落とした。
「帰れたら……ちゃんと、叱ってあげる。
無茶する癖も、勝手に前に出るところも……全部」
ブルースは一瞬、言葉を失った。
「……それ、叱るっていうか」
「いいの。私は治癒師なんだから。
……生きて帰ってこない人を、治せないでしょ」
ブルースは口を開きかけて、閉じた。
それから、いつもの軽口じゃない声で言った。
「……帰ろう。必ず」
「当たり前でしょ」
メイはそう言って、ブルースの胸当ての留め具をきゅっと締め直した。
「ここ、緩んでる。
明日……前に出るなら、せめてちゃんと守られなさい」
「……了解、先生」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
焚き火の音だけが、やけに大きい。
少し離れたところで、ケイスケはその光景を見ていた。
セレナが小さく囁く。
「……いいな」
「うん。……帰れたら、みんなで笑える」
ケイスケはそう言いながら、胸の奥に嫌な予感を押し込めた。
そのとき、森の奥で、枝が“ぱきり”と鳴った。
風が止み、焚き火の炎が青く揺れる。
霧が、音もなく流れ込んできた。
――幻影の悪魔の、気配だった。
焚き火の炎が青く揺れ、音が遠のく。
森が“息を潜めた”みたいに静かになり、代わりに耳の奥で囁きが増えた。
「……来る」
セレナが低く言う。魔力が肌を刺す。
ケイスケは剣の柄に触れた。だが【斬鉄剣】の感覚は立ち上がりきらない。霧のせいで距離が狂い、斬るべき線が見えない。
「姿を見せねぇタイプか」
ブルースが前へ出る。疲労で呼吸は重いのに、背中はまだ騎士だった。
次の瞬間、足元が沈んだ。
「罠だ、跳べ!」
セレナの声で飛ぶ。落ちた――と思った瞬間、身体が浮く。
落とし穴の幻。感覚がズレる。
霧の中から“影”が滲み出た。獣の輪郭、長い腕、爪。
切ればほどけ、ほどけた先で増える。実体のある幻影だ。
「核だけ斬れ!」
メイが叫ぶ。
ケイスケは剣を抜いた。世界が遅くなる。霧の粒が止まり、影の中心だけが濃く見えた。
一閃。
影が崩れ、増殖が止まる。
だが、すぐ別の影が生まれる。数が減らない。
霧の奥で、笑い声がした。
子供みたいに甘くて、ぞっとするほど優しい。
「幻影の悪魔……」
メイが息を呑む。
次の瞬間、見えない斬撃が走った。空間が裂けるような刃。
ブルースが咄嗟に前へ出て受け、脇腹が赤く割れた。
「ブルース!」
メイが駆け寄り、治癒の光を叩き込む。
ブルースは歯を食いしばりながら笑う。
「……大丈夫だ。お前が生きてりゃ……」
「黙って!」
メイの声が震える。
セレナが魔法陣を展開し、霧を押し返す。
その一瞬、霧の奥に“本体の影”が見えた。人型。細い。笑っている。
「見えた!」
ケイスケが踏み込む。
だが足元が消え、距離感が壊れる。幻が視覚じゃなく“感覚”を奪ってくる。
その隙に、メイの足首へ霧の鎖が絡みついた。
「くっ――!」
メイが体勢を崩す。
ブルースが反射で飛び込み、鎖を斬る。
斬った鎖が霧に戻り、代わりに“囁き”が落ちた。
――耳元で。
霧の中で音が歪む。
焚き火の音が遠くなり、仲間の声が別人のように聞こえる。
「……メイ?」
ブルースの声が妙に甘い。
ケイスケが振り向くと、ブルースは剣を抜いていた。
目の焦点が合っていない。
「ブルース! 何して――」
「悪魔だ!」
ブルースが叫んだ。
その刃先が向けられているのは、メイ。
「違う! 私よ! ブルース、やめ――」
言い終わる前に、剣が走った。
一瞬。
メイの体が、静かに崩れた。
血の匂いが遅れて届く。
「……え?」
ブルースが固まる。
自分の刃先を見て、次にメイを見て、理解が遅れてやってくる。
「うそだろ……俺、何を……」
ブルースは膝をつき、メイの名を呼び続けた。
何度も、何度も。
メイは返事をしない。
霧の奥で、笑い声がした。
悪魔は姿を見せない。
“仲間”を壊して去っていく。
ケイスケは初めて思った。
(バアルは、戦いの前に――心を殺しに来てる)
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第六章 餓えとベイド
さらに北へ。
森は枯れ、風は骨を削るように冷たい。
食糧は、とうとう“数える”段階になった。
乾燥肉、残り三日。
パン、二日。
スープ用の干し菜、一日。
「……狩りをするしかない」
セレナが言った。
「この辺りは魔物の気配が濃い。普通の獣は逃げている」
ユーイが小さな声で言う。
ベイドが静かに前へ出た。
「行く」
それだけ言って、森へ消えた。
夜になって戻ってきたベイドは、獣一頭を引きずっていた。
痩せた鹿。肉は少ない。だが命だった。
「……すごい」
ケイスケが言うと、ベイドは一瞬だけ口角を上げた。
それが、ベイドの“笑顔”だった。
仲間に感化されて、少しずつ変わってきていたのが分かる。
その夜、ほんの少しだけ空気が軽くなった。
けれど、翌朝。
ベイドがいない。
見張りの位置。木の根元。
そこに座ったまま、動かない。
ケイスケが近づき、声をかける。
「ベイド……?」
返事はない。
近づいて、分かった。
体温がない。
顔色が灰色だ。
そして――ハエがたかっていた。
「……餓死」
ユーイが震える声で言った。
ベイドの拳は、ぎゅっと握られていた。
最後まで、武器を手放さないまま。
ケイスケは膝をついた。
(仲間が、餓えで死ぬ……?)
勇者の旅は、こんなにも情けなく、人を削る。
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第七章 笑うユーイ
ユーイは元々、純粋な人だった。
「わたし、強くなりたいんです。誰かを守れる魔道士に」
そう言って笑う。
子供と間違われても笑う。
冗談を言って場を和ませようとする。
でも、飢えは心を壊す。
ある日からユーイは、夜に眠れなくなった。
手を震わせ、同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫。大丈夫。大丈夫……」
「ユーイ、休んで」
セレナが毛布をかける。
ユーイは泣きそうな顔で笑う。
「だいじょうぶ、です。わたし、魔法で……落ち着かせられるから」
ユーイは自分に魔法をかけ続けた。
精神を安定させる術。
けれど、何度も、何度も重ねた結果――“安定”は壊れた。
笑うことしか出来なくなった。
感情の出口が“笑い”に固定されたみたいに、
どんなときも、笑い声が漏れる。
「ふふ……ふふふ……だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
ケイスケは、胸の奥が冷えていくのを感じた。
そしてある夜、ユーイが消えた。
探しに出ると、森の奥に足跡が続いている。
小さな足跡。ふらふらとした足取り。
追いかけた先で、ケイスケは見つけた―そこには、何人かの小鬼がいた。
霧の中で、甲高い声が弾けていた。
「……いたぞ」
ベイドの低い声に、全員が足を止める。
森の奥、折れた木の影の向こうで、複数の小鬼が輪を作っている。
囲まれている“何か”が、ゆらゆらと揺れていた。
「……ユーイ?」
ケイスケはそう呼んでから、自分の声が震えているのに気づいた。
赤魔道士の外套は泥にまみれ、ところどころが裂けている。
彼女はゴブリンに跨られ、完全に玩具にされながら
意味のない笑みを浮かべていた。
「あは……あはは……」
笑い声が、森の静けさを引き裂く。
ゴブリンたちは、意味の分からない言葉を吐きながら、
彼女の周囲で騒ぎ立てている。
その輪の内側で何が起きているのか――
見ようとしなくても、想像だけで胸が締めつけられた。
ケイスケは歯を食いしばり、剣を抜いた。
【斬鉄剣】が発動し、世界が遅くなる。
一拍で、すべてが終わった。
ゴブリンは地面に散り、静けさが戻る。
ユーイは――笑っていた。
「ふふ……ふふふ……だいじょうぶ……」
その笑いは止まらない。
そしてその笑いのまま、ユーイは力尽きた。
ケイスケはユーイを抱き上げた。軽すぎた。
骨が浮いている。
(俺たちは……何をしてる)
勇者として選ばれて。最強として送り出されて。
飢えで、幻で、心で、削られて。
バアルと会う前に、もう壊れそうだった。
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第八章 廃城レメリー前夜
生き残ったのは三人。
ケイスケ、セレナ、ブルース。
ブルースはメイを殺した自分を責め続けていた。
夜になると、何度も謝る。
セレナはそれを止めない。止められない。
レメリーが見えたのは、雪の朝だった。
廃城は骨だった。
崩れた塔、黒い窓。
瘴気が、霧のように流れている。
「……ここだ」
ブルースが言った。声が掠れている。
城の影で休む。
食糧はほぼない。水も少ない。
それでも、ここまで来た。
セレナがケイスケの隣に座った。
「ケイスケ」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「……帰ったら」
セレナは小さく息を吸う。
「帰ったら、私……あなたと恋人になりたい」
ケイスケは言葉を失った。
この地獄の旅の中で、そんな言葉が出るのが奇跡みたいだった。
「……俺も。俺も同じだ」
セレナの瞳が揺れた。
泣きそうな笑顔。
「約束ね」
指が絡む。
冷えた指先が、確かに温かい。
希望が、そこにあった。
勝って帰ればいい。
そうすれば、全部報われる。
報われてほしい。
ケイスケは初めて、勇者の役割じゃなく、ただの十八歳として願った。
⸻
第九章 憤怒の魔神バアル
廃城の中は、静かだった。
静かすぎて耳が痛い。
玉座の間に、バアルはいた。
人型。
だが人ではない。
空間が歪むほどの禍々しいオーラ。
「来たか、勇者」
声が重い。怒りの塊みたいな声。
「俺はケイスケ。モール帝国の勇者だ。お前を討つ」
バアルは笑った。
「勇者は何度も来た。
そのたびに、泣いて、叫んで、壊れた」
その言葉が胸を刺す。
仲間の死が、まとめて蘇る。
ブルースが前に出た。
「喋るな、魔神!」
ブルースが斬りかかる。
セレナが続く。魔法剣が光る。
ケイスケも踏み込む。【斬鉄剣】が唸る。
戦いは接戦だった。
バアルの一撃は重い。受ければ骨が鳴る。
セレナの剣は美しく、しかし必死だ。
ブルースの体は限界に近い。飢えで筋肉が痩せ、呼吸が荒い。
それでも、三人で繋いだ。
「ケイスケ、今!」
セレナの声。
ケイスケは踏み込む。
世界が遅くなる。
バアルの動きが見える。
刃が通るべき線が見える。
――斬った。
バアルの身体が裂け、崩れ落ちた。
「……勝った……?」
ブルースが笑った。
そして、そのまま膝をついた。
「……悪い、メイ。……やっと、終われる」
ブルースは息を吐き、動かなくなった。
飢餓状態の体で、最後の戦いを支え切った。
ケイスケの中で、何かが崩れた。
勝った。
勝ったんだ。
ボリスも、ベイドも、ユーイも、メイも、ブルースも――無駄じゃない。
セレナが泣いた。
ケイスケも泣いた。
涙が止まらない。
「……帰ろう、セレナ」
「うん。帰ろう」
抱きしめ合い、互いの肩を叩いて、生きてることを確かめる。
そのまま、唇が重なった。
温かかった。
生きてるって、こういうことだと――思った。
⸻
第十章 首の線
ケイスケが目を開ける。
セレナが目の前にいた。
笑っている。泣き笑いの顔。
その喉元に、まっすぐな線が走っているのが見えた。
「……セレナ?」
声が、変な音になった。
線が赤く滲む。
次の瞬間、セレナの首が、すとん、と床に落ちた。
世界が無音になった。
背後で拍手がした。
「良い。良いぞ、その顔だ」
振り向くと、そこにバアルが立っていた。
傷ひとつない。
“倒したはず”の魔神が。
「……どうして」
「分身体だ」
バアルは淡々と言った。
「お前が斬ったのは俺の“器”だ。
かつて勇者だった者の残骸。先代のな」
ケイスケの胃が反転した。
勇者が、魔神の器にされていた?
倒したと思った相手が、ただの“使い捨て”?
そしてセレナは、安堵した瞬間に殺された。
バアルは微笑んだ。
この世で最も楽しそうに。
「どうすれば一番嫌がるか。
――それを考えるのが、俺は得意でな」
ケイスケは剣を握り直した。
怒りが遅れてきた。泣き声みたいな怒り。
「返せよ……セレナを……!」
【斬鉄剣】が覚醒しかける。
世界が――遅くなる、はずだった。
遅くならなかった。
次の瞬間、ケイスケの腕が宙を舞った。
痛みが来る前に、足も切り落とされた。
床に落ちる感覚。視界が傾く。
ケイスケは転がりながら、セレナの方へ手を伸ばす。
伸ばせない。腕がない。
「勇者はな」
バアルが見下ろす。
「絶望してからが、よく味が出る」
視界の端で、セレナの髪が床に散っている。
ケイスケはそれを掴もうとした。
掴めない。
闇が来た。
⸻
終章 新しい勇者
月日が経った。
廃城レメリーは地図から消えた。
消えたのではなく、人が近づかなくなった。
瘴気が濃くなり、森は枯れ、夜が長くなった。
人々は噂した。
「勇者が魔神を倒したのに帰らなかった」
「廃城にはまだ憤怒がいる」
「いや、廃城には“勇者”がいる」
そして――新たな勇者一行が、レメリーに足を踏み入れる。
玉座の間。
そこで待っていたのは、魔神ではなかった。
人の形をした何か。
肌は瘴気に染まり、目は濁り、姿は醜く変わり果てている。
だが、その手には剣。
――【斬鉄剣】。
「バアル!!」
新しい勇者が叫び、斬りかかった。
勇者が「バアル!!」と叫んだ相手は、
醜く変わり果てたケイスケだった。
ケイスケは笑った。
笑い方だけが、あの日のままだった。
そして、玉座の影から声が落ちる。
「良い。次だ」
その声は見えない。
見えないまま、確かにそこにいた。
世界は、今日も“勇者”を食べて回っている。
(了)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、
「勇者が魔王を倒した」
その瞬間の、誰にも語られなかった裏側です。
魔王を倒した。
でも、彼らは救われませんでした。
歴史書に残る“英雄譚”は、
いつも結果だけを綺麗に切り取ります。
その裏で、どれだけの命と心が壊れたのかは、
語られることはありません。
――そして、壊れたものは、
形を変えて、次の物語へと受け継がれていきます。
この物語の“続き”は、本編
王殺しの罪で国を追放された俺。剣と魔法の世界で天然エロ美少女エルフと一緒に国を立ち上げる。クソどもにざまぁするために強くなったら英雄と崇められたので世界救います。に続きます。




