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『夜間返却口』

作者: 夢見叶
掲載日:2025/12/19

 図書館の裏手に、夜間返却口がある。

 昼間は目立たないただの金属の口だが、夜になるとそこだけ空気が冷える。――と、先輩が言っていた。


 高校二年の秋、私はその先輩――文芸部の部長だった佐伯先輩――から、妙な頼み事をされた。


「千紘、今夜いっしょに図書館来てくれない? 返したい本があるんだけど」


「返却は明日でいいじゃないですか」


「明日だと、間に合わない」


 先輩は笑っていた。冗談みたいに。

 でも、机の上に置かれた本の背表紙は、冗談を拒むように沈んだ色をしていた。


『返却期限:本日 23:59』


 貸出カードに貼られた期限のラベルは、まるで釘のように目に刺さった。


「延滞したら怒られるだけですよ」


「怒られるならいいんだけどね」


 先輩は、声だけ軽かった。


 その夜、私は自転車で図書館へ向かった。閉館後の建物は黒い塊で、街灯の光が壁に貼りついている。風が吹くたび、植え込みがざわりと音を立てた。


 裏手に回ると、コンクリートの壁に小さな扉が埋め込まれていた。

 『夜間返却口』と書かれたプレート。口の部分は、郵便受けのように斜めに開く。手を近づけると、本当に冷たかった。


「ここ、こんなに冷えるの?」


「……ね」


 先輩は本を抱えたまま、しばらく口を見つめていた。

 そして、ようやく差し出す――のかと思った瞬間、引っ込めた。


「千紘、ちょっと読んでみて」


「え、いま?」


「ここで。……最後のページだけでいい」


 嫌な予感が、きれいな形のまま喉に詰まった。

 でも先輩の目が、妙に真剣だった。私は本を受け取り、街灯の下でページをめくった。


 どこにでもある古い文庫本だ。タイトルは薄れて読めない。

 紙は黄ばんで、インクの匂いがする。最後のページ――


 そこには、文章ではなく、貸出カードが貼られていた。

 古い、茶色い紙。そこに並ぶ名前。


 佐伯――佐伯――佐伯――


 同じ姓が、何度も何度も書かれている。日付は違う。文字の癖も違う。

 でも最後の一行だけは、さっき先輩が借りたときのものと同じ、太いボールペンの字だった。


 佐伯 美鈴(貸出)

 返却期限:本日 23:59


「……偶然じゃないですよね、これ」


「うん」


 先輩は小さく頷いた。


「これ、うちの家系なんだ。代々、誰かが借りてる。で……期限までに返せないと――」


 先輩は、言葉を探すみたいに口を閉じた。


「返せないと、どうなるんですか」


「返却の催促が来る」


「電話とか、ハガキとか?」


 先輩の笑顔が、今度は本当に笑顔じゃなかった。


「……歩いて来る」


 私は、ぞわっと背中が冷えた。

 図書館の裏は暗い。風が植え込みを揺らす。――歩いて来る?


 馬鹿げてる。ホラー好きの先輩が、後輩を驚かせているだけ。

 そう言い聞かせようとしたとき、腕時計の秒針がカチ、と妙に大きく鳴った。


 23:52。


「だから返すの。今夜。必ず」


 先輩は私から本を取り返し、返却口に向けて差し込もうとした。

 金属の口が、ぎい、と鳴った。開く角度が思ったより深い。黒い、奥行きのある闇。


 ――その闇の中で、何かが動いた。


 息を呑んだ。


 闇の奥で、白いものがゆっくりと上がってくる。

 それは、紙だった。

 貸出カードみたいな、薄い紙が、指のように。


 そして、紙の端が、返却口の縁にかかる。

 まるで内側から「掴もう」とするみたいに、ぴく、ぴくと震えた。


「……先輩」


「見ないで」


 先輩は低く言った。

 でも見てしまう。身体が言うことをきかない。返却口の中――紙の下から、さらに白いものが現れた。


 顔だった。


 肌が白い。目がない。鼻の形だけが浮いている。口もない。

 なのに、見ているとわかる。――私を見ている。


 先輩が本を押し込む。

 すると、返却口の中の白い顔が、ほんの少しだけ前に出た。耳のない側頭部が、ぬらりと光った。


 金属の縁に、指がかかった。


 人間の指ではない。

 紙を折り重ねたような、関節のない指。紙の指。


 それが、先輩の手首を狙うように、ゆっくり伸びる。


「早く!」


 先輩が本を押し込む力を強めた。


 その瞬間、返却口の中から、カサカサ、と大量の紙の擦れる音がした。

 まるで、何十枚ものページが一斉にめくられる音。


 指が増えた。


 紙の指が、二本、三本、五本。

 返却口の縁を掴み、外へ這い出そうとする。白い顔が、ぎしりと近づく。


 私は反射的に、先輩の背中を押した。

 先輩がよろける。

 その隙を狙ったみたいに、紙の指が先輩の手首に絡みついた。


 ――引っ張った。


「っ!」


 先輩の腕が、返却口に吸い込まれそうになる。

 私は先輩の腰にしがみつき、必死に引き戻した。


「離せ!」


 先輩が叫んだ。

 私の喉からは声が出ない。


 23:58。


 腕時計の秒針が、やけにゆっくりに見えた。

 紙の指は、先輩の皮膚に貼りついている。皮膚が、紙のように白くなっていく。


 先輩が、震える手で本をさらに押し込む。

 ――最後の数ページが、返却口の中へ滑り込む。


 そのとき、返却口の中で、はっきり「音」がした。


 パンッ


 厚い本を閉じるような音。

 紙の指が、一斉に止まった。


 白い顔が、ゆっくりと下がっていく。

 闇に戻っていく。


 先輩の手首から、紙の指がほどけた。

 私は、へたり込んだ。心臓が耳の中で鳴っている。


 23:59。


 次の瞬間、返却口が勝手に閉じた。

 ガチャン、と鍵をかけるような音。金属のプレートが、冷たい無表情に戻った。


 先輩は手首を押さえながら、息を整えた。

 そして、私の顔を見て、やっと普通に笑った。


「助かった。……これで、今日の分は返せた」


「今日の分……?」


 先輩は、少しだけ視線を逸らした。

 返却口の横の壁に貼られた、小さな注意書きを見ている。


 私は、さっきまで気づかなかったその文字を追った。


『夜間返却口は、返却のみ受け付けます。

 貸出の返却ではなく、返却の返却はできません。』


 意味がわからない。

 私は先輩を見る。


「……先輩、それ、どういう……」


 先輩は、笑いながら泣きそうな顔をした。


「うちね。返すたびに、借りるんだ」


「は?」


「返却期限までに返せば、助かる。

 でも、助かったぶんだけ、次の誰かが借りる」


 背筋が凍った。

 さっきの貸出カードの「佐伯」が並ぶ意味が、急に形を得た。


「じゃあ……次は誰が……」


 先輩は、私の手に何かを握らせた。


 紙だった。

 白くて、薄い、貸出カード。


 そこに、私の名前が、太いボールペンで書かれている。


 千紘(貸出)

 返却期限:本日 23:59


 私は息を吸った。

 吸った空気が、冷たくて、痛い。


「……ね、千紘」


 先輩が、優しい声で言った。


「返却口は、返却を返せない。だから――」


 遠くで、足音がした。


 コツ。

 コツ。

 コツ。


 植え込みの向こう、暗がりから。


 歩いて来る。

 催促が。


 私は手の中のカードを見た。

 期限は、もう過ぎている。


 23:59は、たった今、終わった。


 返却口が、冷たく光っている。

 閉じたまま。

 二度と開かない口みたいに。


 先輩の笑顔が、夜の闇に溶ける前に、最後に言った。


「ごめん。……ほんとに、ごめん」


 足音が、すぐそこまで来ていた。


 そして私は、気づいた。


 歩いているのは、ひとりじゃない。

 紙の擦れる音が、何十、何百と重なって、近づいてくる。


 図書館の裏の暗闇が、ページをめくるように、ざわりと膨らんだ。


 ――私の番だ。

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