『夜間返却口』
図書館の裏手に、夜間返却口がある。
昼間は目立たないただの金属の口だが、夜になるとそこだけ空気が冷える。――と、先輩が言っていた。
高校二年の秋、私はその先輩――文芸部の部長だった佐伯先輩――から、妙な頼み事をされた。
「千紘、今夜いっしょに図書館来てくれない? 返したい本があるんだけど」
「返却は明日でいいじゃないですか」
「明日だと、間に合わない」
先輩は笑っていた。冗談みたいに。
でも、机の上に置かれた本の背表紙は、冗談を拒むように沈んだ色をしていた。
『返却期限:本日 23:59』
貸出カードに貼られた期限のラベルは、まるで釘のように目に刺さった。
「延滞したら怒られるだけですよ」
「怒られるならいいんだけどね」
先輩は、声だけ軽かった。
その夜、私は自転車で図書館へ向かった。閉館後の建物は黒い塊で、街灯の光が壁に貼りついている。風が吹くたび、植え込みがざわりと音を立てた。
裏手に回ると、コンクリートの壁に小さな扉が埋め込まれていた。
『夜間返却口』と書かれたプレート。口の部分は、郵便受けのように斜めに開く。手を近づけると、本当に冷たかった。
「ここ、こんなに冷えるの?」
「……ね」
先輩は本を抱えたまま、しばらく口を見つめていた。
そして、ようやく差し出す――のかと思った瞬間、引っ込めた。
「千紘、ちょっと読んでみて」
「え、いま?」
「ここで。……最後のページだけでいい」
嫌な予感が、きれいな形のまま喉に詰まった。
でも先輩の目が、妙に真剣だった。私は本を受け取り、街灯の下でページをめくった。
どこにでもある古い文庫本だ。タイトルは薄れて読めない。
紙は黄ばんで、インクの匂いがする。最後のページ――
そこには、文章ではなく、貸出カードが貼られていた。
古い、茶色い紙。そこに並ぶ名前。
佐伯――佐伯――佐伯――
同じ姓が、何度も何度も書かれている。日付は違う。文字の癖も違う。
でも最後の一行だけは、さっき先輩が借りたときのものと同じ、太いボールペンの字だった。
佐伯 美鈴(貸出)
返却期限:本日 23:59
「……偶然じゃないですよね、これ」
「うん」
先輩は小さく頷いた。
「これ、うちの家系なんだ。代々、誰かが借りてる。で……期限までに返せないと――」
先輩は、言葉を探すみたいに口を閉じた。
「返せないと、どうなるんですか」
「返却の催促が来る」
「電話とか、ハガキとか?」
先輩の笑顔が、今度は本当に笑顔じゃなかった。
「……歩いて来る」
私は、ぞわっと背中が冷えた。
図書館の裏は暗い。風が植え込みを揺らす。――歩いて来る?
馬鹿げてる。ホラー好きの先輩が、後輩を驚かせているだけ。
そう言い聞かせようとしたとき、腕時計の秒針がカチ、と妙に大きく鳴った。
23:52。
「だから返すの。今夜。必ず」
先輩は私から本を取り返し、返却口に向けて差し込もうとした。
金属の口が、ぎい、と鳴った。開く角度が思ったより深い。黒い、奥行きのある闇。
――その闇の中で、何かが動いた。
息を呑んだ。
闇の奥で、白いものがゆっくりと上がってくる。
それは、紙だった。
貸出カードみたいな、薄い紙が、指のように。
そして、紙の端が、返却口の縁にかかる。
まるで内側から「掴もう」とするみたいに、ぴく、ぴくと震えた。
「……先輩」
「見ないで」
先輩は低く言った。
でも見てしまう。身体が言うことをきかない。返却口の中――紙の下から、さらに白いものが現れた。
顔だった。
肌が白い。目がない。鼻の形だけが浮いている。口もない。
なのに、見ているとわかる。――私を見ている。
先輩が本を押し込む。
すると、返却口の中の白い顔が、ほんの少しだけ前に出た。耳のない側頭部が、ぬらりと光った。
金属の縁に、指がかかった。
人間の指ではない。
紙を折り重ねたような、関節のない指。紙の指。
それが、先輩の手首を狙うように、ゆっくり伸びる。
「早く!」
先輩が本を押し込む力を強めた。
その瞬間、返却口の中から、カサカサ、と大量の紙の擦れる音がした。
まるで、何十枚ものページが一斉にめくられる音。
指が増えた。
紙の指が、二本、三本、五本。
返却口の縁を掴み、外へ這い出そうとする。白い顔が、ぎしりと近づく。
私は反射的に、先輩の背中を押した。
先輩がよろける。
その隙を狙ったみたいに、紙の指が先輩の手首に絡みついた。
――引っ張った。
「っ!」
先輩の腕が、返却口に吸い込まれそうになる。
私は先輩の腰にしがみつき、必死に引き戻した。
「離せ!」
先輩が叫んだ。
私の喉からは声が出ない。
23:58。
腕時計の秒針が、やけにゆっくりに見えた。
紙の指は、先輩の皮膚に貼りついている。皮膚が、紙のように白くなっていく。
先輩が、震える手で本をさらに押し込む。
――最後の数ページが、返却口の中へ滑り込む。
そのとき、返却口の中で、はっきり「音」がした。
パンッ
厚い本を閉じるような音。
紙の指が、一斉に止まった。
白い顔が、ゆっくりと下がっていく。
闇に戻っていく。
先輩の手首から、紙の指がほどけた。
私は、へたり込んだ。心臓が耳の中で鳴っている。
23:59。
次の瞬間、返却口が勝手に閉じた。
ガチャン、と鍵をかけるような音。金属のプレートが、冷たい無表情に戻った。
先輩は手首を押さえながら、息を整えた。
そして、私の顔を見て、やっと普通に笑った。
「助かった。……これで、今日の分は返せた」
「今日の分……?」
先輩は、少しだけ視線を逸らした。
返却口の横の壁に貼られた、小さな注意書きを見ている。
私は、さっきまで気づかなかったその文字を追った。
『夜間返却口は、返却のみ受け付けます。
貸出の返却ではなく、返却の返却はできません。』
意味がわからない。
私は先輩を見る。
「……先輩、それ、どういう……」
先輩は、笑いながら泣きそうな顔をした。
「うちね。返すたびに、借りるんだ」
「は?」
「返却期限までに返せば、助かる。
でも、助かったぶんだけ、次の誰かが借りる」
背筋が凍った。
さっきの貸出カードの「佐伯」が並ぶ意味が、急に形を得た。
「じゃあ……次は誰が……」
先輩は、私の手に何かを握らせた。
紙だった。
白くて、薄い、貸出カード。
そこに、私の名前が、太いボールペンで書かれている。
千紘(貸出)
返却期限:本日 23:59
私は息を吸った。
吸った空気が、冷たくて、痛い。
「……ね、千紘」
先輩が、優しい声で言った。
「返却口は、返却を返せない。だから――」
遠くで、足音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
植え込みの向こう、暗がりから。
歩いて来る。
催促が。
私は手の中のカードを見た。
期限は、もう過ぎている。
23:59は、たった今、終わった。
返却口が、冷たく光っている。
閉じたまま。
二度と開かない口みたいに。
先輩の笑顔が、夜の闇に溶ける前に、最後に言った。
「ごめん。……ほんとに、ごめん」
足音が、すぐそこまで来ていた。
そして私は、気づいた。
歩いているのは、ひとりじゃない。
紙の擦れる音が、何十、何百と重なって、近づいてくる。
図書館の裏の暗闇が、ページをめくるように、ざわりと膨らんだ。
――私の番だ。




