はじめて共有した物語
森 菜月は、軽く呼吸を整えながらライトノベル棚を眺めていた。
今日発売の一冊を探しに来たのだが、どこにも見当たらなかった。
仕方なく別の棚に目を移す。
ただ、自分の“面白い”の基準は複雑すぎて、言葉にするのも億劫だった。
そのとき、不意に視界の端から“頭”がぬっと現れた。
菜月は反射的に後ずさりし、来訪者を確認する。
「やっほ〜 森さん〜」
軽やかに歌うような声。赤羽 美穂だった。
菜月は、わずかに警戒をほどく。
今日の美穂は年上のような落ち着いた服装で、一方の菜月はオーバーオール。
対照的というより、少し恥ずかしい。
「ここにいるなんて思わなかったよ。ていうか、外にいる森さん自体レアだけど。まあ、本屋なら納得…いや、でもなんでライトノベルの棚に?」
「……小説を探してるだけ」
美穂は瞬きをした。
「そりゃそうなんだけどさ…まあいいや。何探してたの?」
「『転生したら異世界で猛禽になっていた件』」
美穂の世界が三つくらい崩れ落ちたような顔だった。
「森さん、今日だけで二回、いや三回くらい意外性で殴ってくるね…。森ちゃんって呼んでいい?」
「……なぜ?」
「もう友達だと思ってるからだよ。はい、友達としておすすめ紹介ね」
そう宣言すると、美穂は棚へ飛びつく。
次々に本を取り出しては菜月の腕に積んでいく。
「これは考察系で頭つかうやつ、これは殺人系スリラー、これは甘々ロマンス、これは冒険とテンプレの塊〜」
ひとつ、またひとつ。
山は、気づけば漫画喫茶レベルに育っていた。
…
「ほんとに全部買うの?」
レジの店員が、遠慮なしの困惑を顔に出した。
「……残念ながら」
菜月は小さく答えた。
カードで支払い、袋を抱えて外に出る。
今日は寄り道をすべてやめて、そのまま帰ることにした。
玄関を開けると、やはり誰もいなかった。
あるのは自分の靴だけ。
静けさが、じんわりと胸に落ちる。
心地よくもあり、少しだけ寂しくもある。
二階の部屋へ上がり、袋をベッドに置き、パジャマに着替える。
新しい本たちを棚に並べていく。
美穂の選んだジャンルは、実に雑多だった。
ダークファンタジー、異世界、恋愛、心理、犯罪。
菜月の手が、一冊の表紙で止まる。
『五月の凍てつく月』
山のいちばん下にあった本。
彼女のルールでは“最後の一冊を最初に読む”。
…
宋の時代を舞台にした、少女たちの恋の物語。
月に願った代償として、人の姿を失い、彗星として空を渡る二人。
毎年五月、地上に近づいては、失った日々を思い返す。
一冊完結。美穂は「絶対好きだよ」と言っていた。
菜月は携帯を取り出し、短く打つ。
「新しい本を読む」
続けて kaomoji を一つ選ぶ。
> ⩊<
本を開く。
物語は四つの章に分かれ、それぞれ季節の名がついていた。
最初は「夏」。
影絵芝居のような語り口。
重たく感じる人もいるだろうが、菜月には心地よい。
幼い柳 青燕と蘇 雅静。
川ではじめて出会い、手を取り、世界が二人分だけ広がる。
時間の感覚はすぐに曖昧になった。
電話の振動で我に戻ったとき、もう秋の終盤だった。
『ほんとに? 何読んでるの? 私は音楽流したまま寝ちゃってた (ᵕ—ᴗ—)』
菜月の頬が熱を帯びる。
内容を説明するのが気恥ずかしい。
文学そのものだし、下品なわけではないのに、胸が締めつけられる展開だった。
雅静は望まぬ婚約を強いられ、それでも青燕を愛し続けていた。
その気持ちは互いに同じだった。
菜月は、短く返す。
「物語」
すぐに返ってくる。
「(ᵕ—ᴗ—)」
菜月は続けた。
「悲しい恋。まだ途中」
遥からは、長々と“ハッピーエンドの良さ”という講義が届いた。
主人公には幸せでいてほしい。
悲しい終わりは心に残りすぎる、と。
菜月はゆっくりうなずいた。
自分も、この二人には幸せでいてほしい。
読み進めながら遥とやりとりを続け、やがて本を閉じた。
一冊完結の心地よい余韻。
結末は優しかった。
人ではなくなっても、二人で空を渡る。
毎年五月、月と語らうために戻ってくる。
悲劇ではない。喪失ではない。
その形なりの“幸せ”だった。
菜月はメッセージを送る。
「幸せな終わりだった」
美穂の番号があれば礼を言えたのに、と少しだけ思う。
ほとんど間を置かずに返信が届いた。
『いいなぁ! 貸して? 私も読みたい!』
菜月の頬が再び熱くなる。
理由は分からない。
「…だめ」
そう打ってすぐに消す。
これでは冷たい。遥が気にすると分かっている。
本を見つめ、再び打つ。
「恋の話」
送る前にまた消す。
迷った末に送ったのはこれだった。
「五月はテスト。勉強しないと」
返信はすぐだった。
『そうだけど…森さんも、でしょ?』
「……あ」
さらに一通。
『貸したくないの?』
菜月は正直に打った。
「違う。恥ずかしい」
『分かるけど、なんで疑問形なの…?』
菜月は思考を切り替え、一行打つ。
「明日も一緒に勉強する?」
…
新井 遥は、画面を見つめて固まった。
菜月が、普段より多く送ってくる。
文章はどこかぎこちなく、でもどれも必死で、どこか可愛らしい。
貸せない理由が拒絶ではなく“照れ”だと、すぐに分かった。
それが妙に嬉しかった。
「一緒に勉強…いつもしてるけど」
そう呟いてから、そのまま文字にして送る。
『いつもしてるよ、森さん』
すぐ返ってくる。
『そう』
遥はくすっと笑った。
知らない面を見るたび、胸が少しだけ軽くなる。
もう一通届く。
『それと、テスト前だし赤羽さんも誘おうと思う。勉強はできるけど、いい人』
遥の肩が落ちた。
「……誰?」
冷たい感覚が背を這う。
イヤホンを外し、ソファに倒れ込み、テレビをつける。
もう一人増える余裕なんて、どこにもない。
短く打って送る。
『いいよ』
会話はそこで途切れた。




