通知
メッセージの通知音が、静かな部屋に震えた。
菜月からの「もうすぐ着く」というそっけない一文。
真琴は母の香織と並んでスナック菓子をつまんでいた。
「へえ…アイスね」
香織はうっすらと笑った。
娘は昔から友達付き合いとは無縁で、社交にも興味がなかった。
本を読み、猫と遊び、あるいは一日の予定を細かく書き込む。
そんな生活の中で、今日は珍しく違う行動をとった。
それだけで祝いたくなるほどだった。
「そう言ってたよ。多分、誰といたかも分かるけど…まあいいや。母さん、その“陰謀めいた喋り方”やめてくれない?」
と真琴。
「何言ってるのよ。菜月が誰かと出かけて、外の世界を知って、 人と 関わってるのよ! あの子が!
あの療法、本当に効いてきたんじゃない?」
香織は興奮して部屋を行ったり来たりし、突然ぴたりと動きを止めた。
目を大きく開き、真琴を覗き込む。
彼はスナックを飲み込み、息を整えた。
「ちょっと…」香織は身を乗り出す。「“誰といたか分かる”って言ったわよね。まさか男の子?」
疑うような視線。
「違う違う。女の子。新井遥さん。あの日、名前を聞いた」
真琴は降参のポーズをとった。
「ふむ…その子とも話してみるべきかしら…」
香織は席に戻り、腕を組む。
「誰と? 菜月と? それとも新井さん?」
「その新井さんと連絡取るの、悪くないんじゃない?」
「ああ…」
真琴は心の中で、新井遥に深く謝罪した。
まだ会ったこともないのに。
「さ、つまみはここまで。今日はお父さん
が帰ってくるし、菜月のお祝いに特別な夕飯を作らないと」
香織は立ち上がった。
チョコの味がまだ舌に残っていた。
わずかで、けれど印象に残る甘さ。
森菜月は家に入る前、夜の空をちらりと見上げた。
そしてスマホを確認する。
新しく増えた名前が光っていた。
「遥」
画面を開き、短い文を打ち、送信。
ほぼ同時に既読がつき、菜月はわずかに鼻を鳴らした。
煩わしさと、よく分からない喜びが混ざったような反応。
メッセージにはこう書いた。
着いた。
返事はすぐ来た。
よかった! 私はもうすぐ家。もう少しで着くけど、暗いからちょっと怖いの。
何かあったら困るでしょ、用心に越したことはないし!
あ、ごめんね、いっぱい書いちゃって。
じゃあ、また家に着いたら連絡するね ⸜(。˃ ᵕ ˂ )⸝♡
菜月は「よかった」とだけ返すつもりだったが、
送信前にふっと迷い、気まぐれで一つだけ付け加えた。
よかった ˶ᵔ ᵕ ᵔ˶
スマホをしまい、家に入る。
いつものように玄関の靴を確認する。
母の靴、真琴の靴…そして珍しく父の靴まであった。
眉をひそめる。
父は遅くなると伝えていた。
理由もなく早く帰ってくる人ではなかった。
家にいる時は、だいたい“何かあった時”だ。
靴を脱ぎ、数歩進んだ瞬間、香ばしい香りが鼻をくすぐった。
唐揚げ。
吸い寄せられるように台所へ向かうと、香織が仕上げをしていた。
「…唐揚げ」
菜月は食欲を隠せず呟いた。
「明日はあなたの好きな魚にするわよ」
香織は手を止めずに言う。
「で、何か話したいことは?」
「分からない。誰かと出かけた。それだけ。真琴から聞いてない?」
菜月が兄を見ると、彼は“余計なこと言うな”という目で返す。
菜月は一歩下がろうとしたが、母の手が頭にのった。
沈黙を破ったのは通知音。
「で? 何を話すのかしら?」
香織の声は近い。
菜月は母を見ないままスマホを取り出した。
遥なら、返事が遅いだけで不安になりそうだった。
メッセージにはこうあった。
家に着いたよ。猫がいたから、抱っこして少し遊んでた ( ,, ︵ ‿ ︵ ,, )
菜月は母が覗き込むのを避けて、ダイニングテーブルに座り直す。
よかった。ペット飼えるの? ₍^. .^₎⟆
送信すると、香織が問う。
「で、どうなの?」
「うちの家系、同じ言葉を繰り返すの好きね」
真琴がぼそりと呟く。
「今日から勉強を教えることになった。新井遥って子」
それだけ言って沈黙した。
香織は諦めて皿を並べ続ける。
菜月はスマホを見る。
遥からは「飼えない」と長文が返ってきて、最後に小さな顔文字が添えてあった。
≽(•⩊ •マ≼
菜月は短く打つ。
そっか。
今回は絵文字なし。
新井遥は画面が光いた瞬間、反射のように返事を開いた。
あまりにも早すぎて、我ながら笑えてくるほどだった。
普段はスパムか母の通知しか来ないのに。
「そっか…」
声に出して読み、遥は眉を寄せる。
「もしかして、飽きられた…?」
ベッドには先ほどの猫がちょこんと座っている。
撫でて写真を撮ったが、送る勇気はなかった。
迷惑かもしれないと思った。
スマホを置き、天井を見る。
しばらくして、思い出す。
アイス。
歩いた時間。
別れ際。
その全部。
顔が一気に熱くなる。
枕に顔を埋めて転げ回り、
「うああああああ!!!」
と呻くと、猫は怯えて机の上へ逃げた。
そして思い返す。
震えた声で言ったあの言葉。
「あ、あの…連絡先、教えてくれますか…?」
菜月は首を傾げ、淡々と聞き返した。
「何のために?」
「…その、連絡を取り合うため…」
現在の遥はベッドの上で転げ回る。
「……っ無理……!」
顔が枕に沈む。
猫がじっと見ている。
遥は起き上がり、聞いた。
「もし君なら、なんて言う…?」
猫は瞬きしただけだった。
遥はまた横になり、目を閉じる。
もっといい答えがあったはずだと考えながら、
いつの間にか眠ってしまった。
夕飯の席。
菜月は静かに食べていた。
箸の動きには一定の秩序があり、けれど背筋には微かな緊張が残っていた。
香織は好奇心を隠さず見つめ、
真琴は見ないふりを続け、
父は遠くの謎を解くような顔で様子をうかがう。
ついに菜月は食べる手を止め、無言で家族を見た。
「お父さん、あなたの“可愛い娘”が何か話すのを待ってるみたいよ」
香織は大げさに言った。
父はびくりと目を開き、
しかし妻の軽い蹴りで状況を理解した。
「う、うむ…菜月。学校はどうだ…?」
不自然な声。
菜月は目を細め、罠の有無を見極めるように父を見た。
「普通」
それ以上話す意思はなかった。
もちろん、新井遥のことなど話す気は一切ない。
唐揚げを口に入れ、沈黙の壁を築く。
それでも父は諦めずに言う。
「…友達ができたって、聞いたんだが」
菜月は動かない。
頬を動かすだけ。
まったく表情を崩さない沈黙こそ、彼女の防御だった。
返事はなくても、父は満足そうに頷いた。
理由は分からない。
ただ、以前より娘の雰囲気が少しだけ柔らかくなったような気がした。
それだけで十分だった。




