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猫が鼠を知る  作者: シアン サッカ


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6/8

ときどき寄り道すること

窓の外を見れば、青い空に小さな白い月が浮かんでいた。絵のような夕暮れだった。


月と太陽が同じ空を分け合うその時間には、どこか美しさがあった。いや、少なくとも遥はそう思いながら、少しずつ薄れていく光を眺めていた。


軽く頭に衝撃が走り、意識が戻った。


ほんの小さな、注意を促すような衝撃だった。


「……あ」


無意識に声が漏れた。


もう一度、コツンと乾いた音が続く。遥が振り向くと、机の向こう側で森菜月が鉛筆を持ちながら静かに見ていた。


「よく、どこか行く」


座り直しながら菜月が言った。


「ごめん……」


遥は視線をノートへ落とした。


時間を見る。午後六時四十五分。あと十五分で今日の勉強は終わりだった。


ページの上には解きかけの方程式。線と数字が入り混じっている。よく見ると、ふたりの筆跡が混ざっていた。菜月の字は強く正確で、遥の字は途中で揺れている。


ちゃんと勉強していた。けれど、本当に理解できたのかどうか不安だった。


あるいは、こんなに誰かと長く一緒にいたことが初めてなのかもしれなかった。


また、軽く頭に衝撃が落ちた。


「よく、どこか行く」


菜月は同じ口調で繰り返した。


「ごめん……」


遥は、自分でも馬鹿みたいだと思いながら返した。


頭が重かった。分からないわけではない。ただ、体力がついてこなかった。


菜月は意外と良い先生だった。厳しくて、けれど丁寧だった。


残り五分になったところで、ふたりは片づけを始め、少し休憩することにした。


菜月はスマホを取り出して、ゆっくりと画面を操作し始めた。遥も同じように動画をスクロールしたが、内容は頭に入らなかった。


考えていたのは一つだけ。


最後に誰かと時間を過ごしたのは、いつだっただろう。


どう思い返しても、記憶は薄かった。小学校の頃の笑い声、名前の思い出せない手。その後は、必要な会話だけで生きてきた。


指が、コスプレイヤーの短いダンス動画の上で止まった。反射的に「いいね」を押してすぐに消す。


スマホをロックして机に置く。


菜月を見る。彼女はまだ画面に集中していた。


指を組む。話しかける? 何かに誘う?


考えるだけで胸が騒いだ。孤独をやめたいのに、いつも最初の一歩が崩れてしまう。


「……あ」


ため息に似た声が漏れた。


食事に誘おうかと思ったが、すぐに馬鹿げていると打ち消した。それでも、時間は残り二分。逃したくなかった。


菜月は難しい数独を解いていた。あと一分で終わりそうなところでアプリを閉じ、顔を上げる。遥はすでに彼女を見ていた。


菜月は首を傾げ、遥は慌てて視線をそらした。


「分からないところ?」


菜月が聞く。


「えっ、あ……ううん。家で動画で復習するから……」


遥は咄嗟に言い訳をした。


「なら、明日も同じ時間。同じ場所」


菜月は立ち上がった。


遥は止めようと手を上げ、しかしすぐ下ろした。


「ま、待って!」


図書室なのを忘れ、大きめの声が出た。


数人が振り向く。菜月も足を止めた。


恥ずかしさに押され、遥は荷物をまとめながら小さく言う。


「……外で」


菜月はついてきた。


校門までの道は静かだった。並んで歩くわけではないが、離れてもいない。一歩で埋まる距離。


遥は言いたいことを整理しようとし、菜月は何も言わなかった。


出口に着いたとき、立ち止まった。周りの生徒たちは笑い、話し、歩き、みんな自分の目的地に向かっていた。遥はそれを眺め、そして前を見る。


菜月が待っていた。


「送るの?」


菜月が口を開いた。


「私はバスも地下鉄も使わないけど」


「ち、違うの……その……」


遥は喉を鳴らし、言葉を整えた。


「アイス、奢りたくて」


菜月は腰だけをひねり、遥を見る。


1秒。スマホを取り出し、何かを打つ。通知音。もう一度入力。しまう。


「寄り道できる」



新井遥の頭の中で、「寄り道」という言葉が光の帯のように回った。


菜月が寄り道をする。それは珍しいことだと、すぐには理解できなかった。


理解した瞬間、脳が止まった。


「わ、わわわ……」


変な声が漏れ、慌てて咳払いし、右の方向を指した。


「あ、あっちに……アイス屋さん……」


自分の滑稽さに気づき、そっと手を引っ込める。菜月を横目で見るつもりが、逆に見過ぎてしまう。菜月は気にせずスマホを見ていた。


「そっちじゃない」


菜月が静かに反対方向を指した。


遥は小さく、


「ひっ」


と変な声を漏らす。


アイス屋までは遠くなかった。ただ、いつもの帰り道とは逆方向だった。ふたりとも普段通らない道を進んだ。


遥は周りを見ながら歩いた。車、人、看板、どうでもいいものに注意を散らし続ける。菜月はまっすぐ前を見て、乱れない歩調で進んでいた。


「その……いつも地図アプリ使うの?」


遥は沈黙が重くなって口を開いた。


「迷わないから」


菜月は淡々と返す。


「そ、そっか……」


遥はついさっき、彼女を逆方向に導こうとしていたことを思い出す。


再び沈黙。遥の耳には、菜月の軽い足音だけが妙に大きく響いた。歩くたびに、まっすぐ整ったリズムが耳に残る。遥は視線を前に戻す。


信号を渡る。アイス屋の近くの歩道はタイル張りで、菜月はその線を丁寧に避けて歩いていた。


遊んでるのかな、と遥は思い、少し笑いそうになる。前に進みすぎないように歩幅を調整した。



やがて、アイス屋に到着した。古い家具が置かれた、小さな店。客は数人で空いていた。ふたりはゆっくり中へ入る。


遥は安心して息をつく。菜月は迷わずカウンターへ進んだ。


遥も続く。菜月は目的だけをこなすタイプで、余計な寄り道はしない。だからこそ、話しかけるタイミングが分からなかった。けれど、今日こうして店まで来ただけで十分だった。


「チョコのコーン」


店員の挨拶が終わると同時に菜月が注文した。


遥はメニューを眺めた。バナナスプリット、コーン、サンデー、変わり種のフレーバー。特別に食べたいものはなかったが、店内の甘い香りに後押しされ、いちごアイスを選んだ。


菜月は受け取ったコーンを軽くかじり、横へ移動した。遥を見ながら、小さな動物のように先端を確かめる。遥が注文を終えると、菜月が静かに聞いた。


「外? 中?」


その問いに遥は驚いた。すぐ帰ると思っていたからだ。


「な、じゃあ……中で……」


遥が答えると、菜月は席に向かった。適当に選んだのかは分からない。


「す、すみません!」


店員に呼ばれ、遥は跳ねるように振り返った。慌ててアイスを受け取り、菜月のあとを追う。


向かいに座る。菜月は、溶ける雫を手のひらで受けながら淡々と食べていた。遥も真似をした。


「その……さっき誰に連絡してたの?」


遥が尋ねた。


「兄」


菜月は視線をアイスから上げなかった。


遥は目を丸くする。菜月に兄がいることを知らなかった。そもそも彼女のことをほとんど知らなかった。


「お兄さん、いるんだ……」


「ひとり。年上」


「へぇ……」


遥は間を埋めるように言った。


少しして、菜月が小さく問い返す。


「あなたは?」


「ひとりっ子」


菜月は動きを止めた。ほぼ食べ終わったコーンの上で、何か言いかけて、やめた。


遥も続ける言葉が浮かばなかった。


「これ、またやる?」


菜月が静かに言った。


また。


遥の頭の中でその言葉が跳ねた。


緊張を隠そうと、アイスを大きく噛んでしまい、脳天に冷たさが走る。思わず額を押さえた。


「い、いや……あなたが嫌じゃないなら……無理にとは……」


頭痛をごまかしながら答える。


菜月は気にした様子もなくスマホを取り出し、連絡先アプリを開く。登録は三件だけ。母、父、兄。兄とのチャットを開く。


「寄り道していい?」と先に送ったメッセージ。


「好きにしなよ、妹よ」と返っている。


菜月は画面を数秒見つめた。


本当に、したいのだろうか。



スマホをしまう。


「私は……たまには寄り道したい」 と菜月は言った。

更新がなかなかできず、ごめんなさい。私事でいろいろとありました。

その分、今回は少し長めの章にしてみました。

読んでくださって本当にありがとうございます。

よければ評価やコメントで感想を残してもらえると嬉しいです。


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